水野信元は三河国刈谷城(愛知県中央部)を中心に勢力を誇った武将です。
妹は徳川家康の母である於大の方で、信元は家康の叔父にあたります。
大河ドラマ『麒麟がくる』では横田栄司さんが演じています。
信元の水野家からは江戸時代初期にに大老となった土井利勝、江戸時代後期に天保の改革の中心人物となった老中の水野忠邦など江戸幕府の重鎮を多数輩出しています。
本記事では水野信元の生涯、信長に殺されてしまった理由、信元死後の水野家について解説していきます。
水野家の出自
水野氏は清和源氏の源満政を祖先に持つ一族です。
満政の7代後の浦野重房の代に尾張国の知多郡に居住し、小河氏と称しました。
南北朝時代には美濃国の土岐氏の攻撃を受け、時の当主である小河正房が戦死し、孫の水野信安が水野郷へ移り、水野氏を名乗りますが、勢力を盛り返すことはできず没落してしまいます。
15世紀中頃に入り、水野貞守の代になり再び勢力を盛り返し、尾張国に緒川城、三河国に刈谷城を築き、一大勢力を再び築きました。
水野氏は三河国の松平氏と並ぶ勢力であり、松平氏とは同盟関係にありました。
この関係から、水野忠政の娘であり、徳川家康の生母である於大の方(伝通院)が松平広忠(徳川家康の父)に嫁いでいます。
家督継承、知多半島の実力者へ
水野信元の出生年はわかっていません。しかし、1543年(天文12年)に父の水野忠政の死を受け家督を継ぎました。
信元が家督を継いですぐに、水野家は今川家と手を切り、織田家についています。
信元が織田家についたことで、今川方であった徳川家康の父である松平広忠は、信元の妹である妻の於大の方と離縁し、水野家に送り返してしまいました。ここで徳川家康は実の母と離れ離れになってしまったのです。
織田家と手を結んだ信元は、三河への侵攻を進める織田信秀に協力し今川家と戦う一方、自らは知多半島方面へと進出していきます。
信元は知多半島にある宮津城の新海氏、長尾城の岩田氏を次々と滅ぼし、さらに縁戚にあたる常滑水野氏には娘を嫁がせ掌握、一気に知多半島の実力者としてのし上がっていきました 。
同時期の1547年(天文16年)、渥美半島の戸田康光が今川氏を裏切り、今川氏に人質として差し出すはずであった徳川家康の身柄を手土産に織田方へ寝返りますが、今川家の攻撃を受けあえなく滅亡してしまいます。
知多半島の河和城に残っていた戸田守光は、水野家と講和し生き残っていく道を選び、信元の娘、妙源を嫁に迎え水野家の傘下に入ります。
こうして水野信元は知多半島を中心に尾張南部を掌握し、強大な勢力を誇ることになったのです。
今川家との戦い
水野信元は織田家に従い、対今川の最前線として安祥城の戦いなどに出陣しています。
しかし三河国での情勢は次第に今川方有利に傾き、信元も居城の刈谷城を今川方に奪われ、1549年(天文18年)にいったんは今川家に降伏してしまいます。
その後も、1551年(天文20年)には織田信秀が急死するなど、情勢はいっそう織田方不利に傾いてしまいます。
しかし、信長が家督を継ぐと、大給松平家などが織田方に再度離反するなど、織田方が巻き返しを図っていきます。
信元もこの時期に、ふたたび織田方につきました。
しかし今川家は、1554年(天文23年)に水野家を滅ぼすために、大挙して刈谷に出兵します。 水野家は支城を次々と奪われ、居城の刈谷城にまで攻め込まれました。
しかし織田信長は、斎藤道三からの援軍に居城の守備を任せ、全軍をもって水野家を救援するために刈谷城に駆けつけ、今川軍を撃退しました。
危機を脱した水野家でしたが、これ以降は、表面上は同盟関係にあるものの、織田家への従属性を強めていくことになります。
桶狭間の戦い 清州同盟を仲介
桶狭間の戦いでも水野家は織田方につき今川家と戦っています。
戦場となった桶狭間は水野家の領内であり、水野家の家臣が織田軍の中で一番首の手柄を取るなど活躍しています。
桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られた後は、甥である徳川家康を大高城から岡崎城へ落ち延びさせました。
その後は今川方である徳川家康と小競り合いを続けますが、徳川家康が今川家から独立し今川方と敵対関係になると、信長と家康を仲介し、清洲同盟を成立させました。
清洲同盟後は徳川家康の三河統一に協力し、家康の相談役になるなど徳川家に強い影響力を持っていました。
織田家の天下統一戦に協力
水野家は織田家が領土を拡大し、畿内方面に進出するのに従い、しばしば援軍として参陣しています。
1568年(永禄11年)には、信長に従い上洛、1570年(元亀元年)には姉川の戦いに参陣し、佐和山城を攻略しました。
1572年(元亀3年)の三方ヶ原の戦いでは援軍として織田家とともに徳川方として参陣し、敗走した家康に代わり浜松城の籠城戦を主導し、武田軍を撃退しました。
1574年(天正2年)には長島一向一揆の討伐に参戦、翌年の1575年(天正3年)の長篠の戦いにも参陣し、武田勝頼を打ち破っています。
この頃の水野家の領地は尾張、三河にかけて24万石に達しており、東海地方では家康に次く一大勢力となっていました 。
讒言により甥の徳川家康によって殺される
織田家に従い順調に勢力を拡大していた水野信元でしたが、1576年(天正3年)突然内通の疑いをかけられ、徳川家康によって三河国の大樹寺で養子の水野信政とともに斬られてしまいました。
信元は佐久間信盛によって「武田家の秋山信友と内通し兵糧を輸送した」と讒言され、信長が家康に命じて殺させたものでした。
一説には尾張、三河両国にわたって強大な力を持つ信元を織田、徳川両家が邪魔に思い排除したとも言われています。
長篠の戦い以降、武田家の脅威は小さくなり、三河、遠江から武田勢力は駆逐されていっていました。
織田、徳川家は尾張、三河の領土を維持するために水野家の力を必要とすることはなくなり、独立勢力である水野家は排除されたと考えられます。
信元死後の水野家
信元の死後、刈谷を中心とした領地は信長の重臣である佐久間信盛に与えられました。
しかし、佐久間信盛は信長から折檻状を突きつけられ1580年(天正10年)に改易されます。
信盛改易後に、信長によって水野氏は再興を許され、忠政の9男で、徳川家康に仕えていた水野忠重が刈谷城を与えられ、水野宗家の家督を継承します。
忠重は水野家再興後は織田信雄に仕え、小牧・長久手の戦いの後は豊臣秀吉に仕えました。
しかし関ヶ原の戦い直前に、西軍の武将である加賀井重望から西軍へ勧誘されるも断ったことから忠重は殺害されてしまいます。
忠重の死後は、嫡男の水野勝成が跡を継ぎ、徳川家に再度仕えることになります。
忠政の三男である水野忠守も、忠重の再封時に尾張国の緒川城を与えられています。
忠守はその後所領を失ってしまいますが、息子の水野忠元が徳川秀忠の側近となり大名になっています。
また、信元の三男は徳川家康の家臣である土井利昌の養子となり、土井利勝と名乗り、初期の江戸幕府で大老を務めています。
江戸時代以降の水野家
水野家は、水野信元の弟の水野忠守-忠元、水野忠重-勝成の2家が幕末まで続きました。他にも旗本や紀州藩家老、小禄の大名として続いた家が数家あります。
勝成流水野家
忠重の嫡男である水野勝成は、大阪夏の陣などで戦功を立て、備後福山藩10万石の領地を与えられました。
勝成は島原の乱でも戦功を立てるなど、徳川二十八神将に数えられるまでの活躍をしました。
しかし勝成の水野家は、5代目の水野勝岑が2歳の幼さで死亡し、福山藩は改易になってしまいました。その後は勝成の曾孫にあたる水野勝長が跡を継ぎ、下総結城藩1万8000石で幕末を迎えています。
忠元流水野家
水野信元の弟である水野忠守は、忠重が旧領に復帰した際に同じく復帰し、尾張の緒川城主になりました。
息子の水野忠元は、早くから徳川秀忠に側近として仕え、大阪の陣で活躍し、下野国山川藩3万5000石の大名となります。
忠元の後は、三河岡崎、肥前唐津、遠江浜松などの藩主として続き、幕末には天保の改革を主導した老中水野忠邦を輩出しました。