こんにちは!レキショックです!
今回は、江戸時代以降、毛利家はどのように生き延び、明治維新を成し遂げるまでにいたったのか、紹介します。
安芸国の国人から、1代で中国地方の覇者にまで上り詰めた毛利元就。
その孫の毛利輝元は、織田信長との戦いで劣勢に立たされながらも、領土を守りきり、豊臣政権では五大老の1人として重きをなしました。
しかし毛利輝元は関ヶ原の戦いで西軍の総大将となり、戦後、徳川家康によって領土を没収。毛利家は中国8カ国の太守から周防、長門2カ国の大名に転落してしまいました。
今回は、防長2カ国に減封された毛利家はその後どのように江戸時代を生き抜いたのか、明治維新を成し遂げた毛利家はその後どうなったのか、紹介します。
豊臣に内通も? 江戸時代初期の毛利家
領地が1/4にまで削減されてしまった毛利家は、家臣のリストラ、領地削減を行います。
関ヶ原の戦いで毛利軍を率いた毛利秀元、東軍に通じ毛利家の安泰を図った吉川広家も領土を失い、毛利家中でそれぞれ新たに領土を与えられる形となりました。
当主の輝元も出家し、家督は息子の毛利秀就に譲られました。
輝元の出家は、毛利家の領地を大幅に失ってしまったことに対する先祖への詫びの気持ち、そして家康への怒りの気持ちが込められていたといいます。
そして大幅に領地を削減されてしまった家臣たちにとっても、この苦しい状況を作ったのは徳川だという気持ちが強く、こうした苦しい藩の船出が、江戸時代を通じて長州藩の反徳川姿勢を形作っていくこととなります。
毛利家は長州藩の新たな拠点として、日本海に面した萩に萩城を築城します。
城郭建設については、毛利家から山口、三田尻と萩の3候補地を幕府に提出し、幕府の意見として萩に決定しました。
一説には、萩は山陽道へのアクセスが悪く、幕府が毛利家の勢力を押し込めるために萩への築城を提案したともいいます。
また、幕府は築城に際し、なるべく小規模に留めるように注文をつけましたが、最終的に萩城は広島城に並ぶ大城郭として建設されています。
城の背後にある指月山には詰の丸が配備されるなど戦時を意識した作りとなっており、毛利家の反骨精神が見て取れます。
この頃、毛利家は領内の検地を行い、53万石もの石高を幕府に提出しましたが、隣国の福島正則との兼ね合いもあり、36万石が認められ、この石高が幕末まで長州藩の正式な石高となりました。
一大名に転落した毛利家の必死さが伝わる話ですが、これ以降も毛利家は新田開発に力を入れ、一時期は100万石を超えるともいわれる経済力を手にすることになります。
また、徳川家と豊臣家の最後の戦いである大坂の陣でも毛利家は不穏な行動を見せています。
毛利家自体は徳川方として参陣するも、家臣の内藤元盛を佐野道可と名を変えさせて大坂城に入城させていたのです。
この計画は、輝元と秀就、一族の毛利秀元の間で極秘に進められ、のちにこれを知った執政の福原広俊、吉川広家はのちに彼らを非難しています。
また、輝元自身も毛利軍を率いて大坂城攻めに向かっていますが、進軍途中で病にかかってしまい、途中の西宮で進軍を停止、大坂冬の陣には毛利秀元ら一部の部隊しか派遣していません。
大坂夏の陣では、毛利秀就が主力を率いて大坂に向かうも、大坂城陥落には間に合わず、毛利家はついに大坂城攻めにまともに参加することはありませんでした。
大坂城落城後、佐野道可は毛利家によって捕縛され、幕府の追及を受けますが、道可は最後まで毛利家との関与を否定し、幕府も追及を諦め、道可が切腹することでこの件は収まりました。
輝元の病による進軍停止も、一説には佐野道可から大坂城内部の情報を得つつ、情勢を伺い、万が一家康が死ぬなど、豊臣方優勢になった場合は、豊臣方として参陣しようとしていたとする説もあります。
この話については、佐野道可はもともと毛利家を追放されており、本当に自らの意思で大坂城に入っており、毛利家は全くの無関係だったとも言われていますが、毛利家がまだ徳川家に反抗する意志を持っていると世間からは見られていたことが伝わってきます。
大坂の陣が終わり徳川の世が確立すると、輝元は自身の娘を吉川広家の子、吉川広正と婚姻させ、自身の子の毛利就隆に毛利秀元の娘を婚姻させるなど、一族の融和を図ります。
また、対立していた家臣の吉見広長を討伐し藩内をまとめ、子の秀就に対しては、隣国の福島正則の改易などを踏まえ、幕府に対する態度を第一に考えるよう訓戒状を送るなど、長州藩の基礎を固めました。
自身も、病の身でありながら、幕府との関係を強固にするため、2代将軍徳川秀忠との面会のために上洛、毛利家の幕府に対する忠節を示します。
徳川に対する恨みを抱えつつも、幕藩体制の中で生き残る決意を固めた輝元は、1625年に73歳で亡くなりました。
跡を継いだ毛利秀就は、大大名であった毛利輝元の遅くに生まれた子として苦労せず甘やかされて育ったこともあり、遊び癖がつき、世間の評判も悪い藩主でした。
秀就は幕府からも軽んじられていた一方、藩の中心で秀就の後見でもあった毛利秀元は、朝鮮出兵でも活躍した戦国の生き残りで、3代将軍徳川家光の信頼も厚く、秀就と秀元はやがて対立するようになります。
秀元自身も宗家の秀就を軽んじることが多くなっており、ついには秀元が独立を画策するという事件も起きています。
秀元の嫡男、毛利光広と秀就の娘の縁談を反故にされたことをきっかけに、ついに秀元は秀就の弟の毛利就隆を誘って長州藩からの独立を画策、将軍の徳川家光は秀元の独立を認める朱印状を交付するにまで至ってしまいます。
最終的には幕府の仲裁が入り、独立はなしとなりましたが、秀元は江戸に移り、弟の就隆の徳山藩とは軋轢が生まれ、藩内には混乱が残りました。
このように、様々な問題はあったものの、毛利家は宗家を中心に、毛利秀元の長府藩が下関など西の守りを、吉川広家の岩国領が東の守りを担当し、毛利就隆の徳山藩、長府藩の支藩にあたる清末藩で支藩を形成する長州藩の体制が出来上がり、幕末まで続くこととなります。
江戸時代の毛利家 借金に苦しむも改革を重ね西国の雄藩に
毛利秀就の死後は、子の毛利綱広が跡を継ぎました。
綱広は、山陽道と離れている萩の弱点を補うために周防国の三田尻と萩をつなぐ萩往還を整備し、三田尻に参勤交代の拠点となる三田尻御茶屋を築くなど、藩内の整備に尽力しました。
また、毛利元就以来の先例をまとめた万治制法とよばれる法令を制定し、藩政を確立します。
一方、綱広は反骨心も強く、毛利元就、輝元の血を引くものとして幕府に仕えることを潔しとせず、江戸に滞在していても病と称して江戸城に登城しないことも多々ありました。
幕府からは、綱広の母が、徳川家康の次男、結城秀康の娘であること、自身の妻も越前松平家から迎えていることから、多目に見られていたものの、綱広の行動による改易を恐れた家臣たちは綱広に隠居を要求します。
いくら反徳川が染み付いている長州藩であっても、幕府全盛期に反徳川姿勢を表に出すことははばかられたのでしょう。
綱広はやむを得ず隠居し、子の毛利吉就が跡を継ぎました。
吉就は領内の治水工事や城下町の整備に取り組みますが、同時に藩財政の悪化も招いてしまいます。
吉就は財政悪化を伴う政治に反発する家臣と対立する中、27歳の若さで亡くなり、跡を弟の毛利吉広が継ぎます。
吉広も兄の意志を継ぎ、干拓、治水工事など積極的な政治を推し進めますが、35歳の若さで亡くなってしまいました。
吉広に子はなく、弟の毛利元重も亡くなっていたことから、支藩の長府藩から毛利吉元が跡継ぎとして迎えられることになります。
これにより長州藩主は毛利輝元の血筋から毛利秀元の血筋に入れ替わることとなります。
輝元の血筋は、毛利秀就の弟の毛利就隆の徳山藩で残っていたのですが、当時徳山藩主であった毛利元次は、庶子であり一時期家臣の家に養子に出ていたことがあったため、後継者候補から外されていました。
秀元系の長府藩は、一時期徳山藩に対しても養子を送り込もうとしていたことがあり、毛利吉元の毛利本家相続は、本家と徳山藩の対立にまで至ってしまいます。
両者は、松の木一本を巡る領民同士の境界争いに端を発した万役山事件で決定的に対立し、幕府の仲裁によって徳山藩は宗家に非礼を働いたとして改易、藩主の毛利元次は追放処分となってしまいました。
最終的に徳山藩は再興され、輝元の血筋も残ることになりますが、徳山藩から毛利家当主が出るのは幕末を待つこととなります。
長州藩は吉広の跡は、毛利宗広、毛利重就が継ぎますが、8代将軍徳川吉宗の治世であるこの頃には、長州藩も財政悪化が深刻になっていました。
重就は、瀬戸内海に面している地理を活かし、港を整備、回船の寄港地として発展させるとともに、回船業者への資金貸出、倉庫貸出を行いました。
さらに塩田開発も進め、従来からの特産品である和紙などと合わせて、藩の収入を飛躍的に増加させました。
また、重就の孫の毛利斉房の代には、伊能忠敬に藩内の測量を行わせ、海防の強化を行い、西洋軍備の導入も進めるなど、長州藩は時代の変化に対応した施策を次々と実行していきます。
斉房の後は、弟の毛利斉熙が継ぎ、斉熙の子の毛利斉広が幼かったことから、一時的なつなぎとして、斉熙の弟の毛利斉元を、養子に出ていた家臣の福原家から呼び戻して藩主の座につけました。
斉元の死後は、当初の予定通り、先代藩主毛利斉熙の子の毛利斉広が跡を継ぎますが、23歳の若さで急死します。
藩主不在となった長州藩では、一時のつなぎであった 毛利斉元の子を毛利斉広の娘と婚姻させることで跡継ぎにすることに決定します。
この時藩主となったのが、幕末の長州藩主で、「そうせい侯」とも呼ばれた毛利敬親となります。
幕末の毛利家 有能な若者を引き立て倒幕の原動力に
毛利敬親は、11代将軍徳川家斉が大御所として権力を振るっていた1836年に藩主に就任します。
敬親は、長年藩内で要職を務めていた村田清風に藩政の実権を任せ、大規模な財政改革を行います。
藩の莫大な借金を整理するとともに、海運の要衝である下関に金融倉庫業を貿易会社である越荷方を設置、貨幣経済に対応した財政政策をとり長州藩の財政は飛躍的に改善することとなりました。
また、長州藩は藩主導で行っていた密貿易からも資金を得ており、幕末の長州藩の積極的な活動を可能にしていました。
しかし、これら活動は大阪商人、さらに大阪商人からの上納金で利益を得ている幕府から反発を受け、村田清風は責任を取って辞任に至っています。
こうした中、1853年にペリーが来航すると、日本国内は攘夷か開国かで大混乱します。
長州藩は当初から攘夷を反論に掲げ、意見書を幕府に提出、敬親は周布政之助を登用し、藩の体制強化、洋式軍備の拡充を図る改革を推進します。
こうして攘夷思想が世の中を席巻する中、幕府は井伊直弼が暗殺された桜田門外の変を契機に権威を低下させ、朝廷の権威を借りて権力強化を図る公武合体を推進していくこととなりました。
幕府の権威低下に伴い、長州藩をはじめ、薩摩藩など雄藩の発言力は相対的に高まり、長州藩は、一躍中央政界に進出することとなります。
そんな中、敬親はかねてより重用していた長井雅楽の唱える航海遠略策を藩論として採用します。
航海遠略策は、明治政府による富国強兵、殖産興業政策につながる考え方で、現実的には不可能な攘夷思想に対し、貿易で力をつけ優位に立つことで攘夷を成し遂げるという実質的な開国論で、幕府中枢の安藤信正らに歓迎されます。
長井は安藤信正と直に面談するなど、長州藩は政治の主導権を握るかに見えましたが、同じく政局を握ろうとする薩摩藩の妨害、坂下門外の変により安藤信正が切りつけられ失脚するなど、計画は頓挫してしまいました。
さらに藩内でも久坂玄瑞ら攘夷派が長井雅楽に反発し、藩の分裂を恐れた敬親は長井を罷免、長州藩は尊皇攘夷に藩論を統一することに決定しました。
敬親は上洛し、朝廷に攘夷を訴え、京都では長州藩を中心に、一躍攘夷論が主流となります。
さらに高杉晋作らによりイギリス公使館が焼き討ちされ、長州藩は尊皇攘夷派の旗頭として国内、外国からも認知されるようになりました。
藩の本拠地も萩から山口に移し、外国船へも砲撃を加えるなど尊皇攘夷を実行に移した長州藩でしたが、薩摩藩、会津藩による反撃である八月十八日の政変で京都を追われ、禁門の変にも失敗、敬親は養子の毛利元徳とともに官位を剥奪されています。
第一次長州征伐では国司親相ら主戦派3家老を切腹させ、敬親自身が謹慎することで幕府への恭順を示しました。
しかし高杉晋作らがクーデターを起こし倒幕派が藩の主導権を握ると敬親はこれを支持し、奇兵隊など軍事力を整備、坂本龍馬の仲介で薩長同盟を成立させ、第二次長州征伐では幕府軍に勝利するなど、一躍倒幕派の主力として再び主導権を握ります。
敬親は藩兵を上洛させ、王政復古の大号令を成功させると、自身も上洛し、左近衛権中将に任じられ、朝敵の汚名を返上することにも成功しました。
その後は山口に戻り、長州藩兵は官軍の主力として戊辰戦争を戦い、明治維新を成し遂げることとなります。
明治時代以降の毛利家 大資産家として続いた名門
敬親は1869年に、薩摩、土佐、肥前藩とともに率先して版籍奉還を奏請する役割を果たします。
木戸孝允は全国の藩の模範とすべく敬親に対し率先して版籍奉還を行うように依頼しますが、藩主の権力を奪うことにつながるこの依頼を敬親は即座に了承し、木戸は感涙したといいます。
また、敬親は、版籍奉還の直後、養子の毛利元徳に家督を譲り隠居します。
元徳は徳山藩出身で、約150年ぶりに毛利輝元の血筋が毛利家当主となりました。
敬親は1871年に亡くなり、跡を継いだ元徳は、廃藩置県により東京に移住、明治維新の功績により公爵となりました。
毛利家は旧藩主家の中でも特に財力を有しており、1876年に家禄と賞典禄に代えて発行された金禄公債の額は、薩摩藩主島津家、加賀藩主前田家に次ぐ第3位で、1898年に発表された日本国内の高額所得者ランキングでも毛利公爵家は第7位にランクインしています。
毛利家は華族によって設立された第十五銀行にも島津家、前田家に次ぐ大株主として参加しています。
また、毛利家は、他の華族が保有する土地を世襲財産として所持し続けたのに対し、土地を国債や有価証券に変更することで配当収入を確保し、莫大な財産を築くことに成功しました。
その財力を活かして、大正時代に入り、山口に現在価値で約150億円ほどをかけて大邸宅を建設しています。
この邸宅は、現在も毛利博物館として一部が残っており、国宝や重要文化財など2万点が所蔵、展示されています。
邸宅の建設を指導したのは、長州藩出身で、外務大臣や大蔵大臣を歴任した井上馨で、井上は毛利家に対し家憲を設定させ、毛利一族の団結を図らせました。
しかし、資産における土地の割合が低かった毛利家は、昭和に入って起きた世界恐慌の影響をもろに受けてしまったといいます。
毛利元徳の跡は、息子の毛利元昭が継いでいます。
毛利元昭の弟には、かつて戦国時代の毛利家を吉川家と並び両川として支えた小早川家を明治期に入って再興させた小早川三郎、小早川四郎がいます。
元昭は貴族院議員を長きに渡って務め、その子の毛利元道は陸軍士官学校を卒業後、砲兵として活躍、陸軍砲兵少佐にまで上りました。
戦後はユネスコの活動にも関わり、日本ユネスコ国際委員を務めています。
元道の子の毛利元敬は、成蹊大学を卒業後、日本長期信用銀行や経済企画庁で勤務、弟の毛利元敦氏は、学習院大学卒業後、日立金属で40年近くに渡って勤務し、毛利家ゆかりの中国地方の支店で営業所長や支店長として長年勤務した経験もあります。
現在の当主は毛利元敬の子の毛利元栄氏で、現在も日立金属で活躍されています。
徳川憎しの感情を忘れずに江戸時代を生き抜き、倒幕の原動力となった毛利家。
毛利家は毎年正月の儀式として、家臣が倒幕の機を伺い、藩主が時期尚早と答える儀式もあったとか。
徳川の世で堂々と倒幕を口に出せるわけはありませんが、反徳川の気風が長州藩の負けん気の風土に繋がり、明治維新を成し遂げるまでに至ったのでしょう。
[…] 小早川氏は明治時代に入り、毛利家の当主であった毛利元徳の子、小早川三郎、小早川四郎によって再興され、男爵の地位を与えられました。 […]
[…] 子孫は、室町時代には、源氏一門として足利氏から高待遇を受け、能登国の守護、中国地方の有力国人として、毛利氏とも深い関係を築いていくことになります。 […]
[…] 家康としても、毛利氏や上杉氏などの減封処分を行っている最中で、自ら島津討伐に赴けず、万が一、島津討伐に苦戦したら、同じく大兵力を有する彼ら西軍大名が再び反抗する可能性があり、島津討伐に時間を割けない状況にありました。 […]