渋沢喜作は大河ドラマ『青天を衝け』の主人公渋沢栄一のいとこにあたる人物です。
幼い頃から渋沢栄一と行動をともにし、一橋家に仕官を果たしますが、やがて栄一は欧米へと行き、喜作は戊辰戦争に突き進み、道を違えることとなります。
「もし渋沢栄一がパリへ行かなかったら」どうなっていたのか。おそらく栄一がたどっていたであろうもう一つの道をたどった「もう1人の渋沢」渋沢喜作の生涯を見ていきます。
百姓として生まれ、武士の世界に飛び込む。
渋沢喜作は1838年に渋沢文左衛門の長男として生まれました。
渋沢文左衛門は渋沢栄一の父、市郎右衛門の兄にあたり、喜作と栄一はいとこ同士にあたります。
渋沢家は血洗島一帯の豪農の家で、喜作らは幼い頃からいとこの尾高惇忠の私塾で論語や日本外史などを学び、武術にも励んだといいます。
やがて1853年にペリーが来航し幕府政治が大きく揺らぐと、血洗島でも尊皇攘夷の嵐が吹き荒れます。
喜作は栄一や尾高惇忠らとともに高崎城を乗っ取り、横浜を焼討にする計画を立て、仲間や武器を集めます。
この計画は尾高惇忠の弟長七郎によって止められますが、幕府からの嫌疑を逃れるために、喜作は栄一とともに京都に逃れました。
当時の京都は八月十八日の政変で尊王攘夷派が没落しており、喜作らはかねてより親交のあった一橋家用人の平岡円四郎のもとへ行き、一橋家の家臣となったのでした。
尊王攘夷志士から徳川家の家臣へ、180度真逆の転向です。
一橋家臣から幕臣へ
喜作らが仕えた一橋家は、当時禁裏御守衛総督を務めていた一橋慶喜が当主でした。
喜作らは一橋家で精力的に働き、着実に功績を挙げていきました。
当時渋沢栄一と喜作は2人で一部屋に住んでおり、2人で自炊、洗濯、掃除も行い、節約のために2人で一つの蒲団で背中合わせに寝ていたといいます。
京都で活動する慶喜のために一橋領内から農兵を徴募するために各地を廻り、その功績で喜作は陸軍附調役となり一橋家の軍事を担うこととなりました。
やがて主君の慶喜が徳川幕府第15代将軍となると、喜作も一橋家家臣から幕臣へと取り立てられることとなります。
この時期に渋沢栄一はパリ万国博覧会に出席する徳川昭武の随行員としてフランスに渡っています。
一方の喜作は、日本に残り順調に幕臣として出世を果たし、将軍の奥右筆という立場まで出世しました。
奥右筆は現代で言うところの総理大臣秘書官にあたる役職です。
喜作は慶喜に重く用いられ、幕府でも重要な役割を果たすようになりますが、そんな折の1867年、徳川慶喜は突如として大政奉還を行い政権を朝廷に返上してしましました。
幕府方として箱館まで転戦
そして1868年1月、旧幕府軍と新政府軍との間に鳥羽・伏見の戦いが起こります。
渋沢喜作は鳥羽・伏見の戦いにおいて、軍目付の立場で旧幕府軍として出陣します。
しかし喜作ら幕府側が新政府軍と戦っている間に、慶喜は突如として江戸に逃げ帰ってしまいました。
喜作らは戦場に取り残されてしまいましたが、喜作は旧幕府軍をまとめ上げ、江戸への困難な撤退戦を指揮しました。
喜作は江戸に戻り、旧幕臣からなる彰義隊の頭取となります。
喜作の元来からの投機的性分から、幕臣を糾合して新政府軍に対抗するという行動に至ったといわれていますが、慶喜の信頼も厚く、鳥羽伏見の戦いで統率力を発揮した喜作に周囲も期待していたことが伺えます。
しかし彰義隊は結成当初から、喜作ら一橋家臣派と過激な旧幕臣派に分かれており、喜作は天野八郎ら過激派とは袂を分かち、武蔵国飯能にて振武軍を結成します。
彰義隊が上野戦争で敗れた後、喜作ら振武軍も飯能戦争で敗れ、喜作らは伊香保に逃れ、その後密かに江戸に戻り、榎本武揚の艦隊に乗り込み蝦夷へ向かいます。
箱館戦争では土方歳三ら旧幕府軍とともに戦い、最終的には降伏、東京の監獄で2年半以上もの間収監されることとなりました。
明治時代以降の喜作
1872年に新政府の要人となっていた渋沢栄一の手引で出獄すると、栄一の勤めていた大蔵省に出仕します。
しかし栄一と喜作の身分差はこの頃には歴然としており、数年前まで同じ身分であった喜作は内心不快であったといいます。
喜作は一足飛びに志を達しようとする投機的性分から、栄一に追いつこうと、蚕業調査のためにイタリア、スイスへ留学し、帰国後は実業界に入り、三井と並ぶ豪商であった小野組に入ります。
喜作は小野組で生糸に関する商売を始めますが、小野組が破綻してしまします。
喜作はそれでも自身で商売を始め成功したいという気持ちが強く、栄一の勧めで生糸と米を扱う渋沢商店を開業しました。
栄一の第一国立銀行から融資を受け、喜作は順調に業績を伸ばしていくこととなりますが、ここでも喜作の投機的性分が出てしまうのです。
相場で大失敗
喜作の渋沢商店は順調に業績を拡大し、米相場にも手を出し大儲けします。
しかし松方正義による緊縮財政が始まりこれまでの米相場は一変、喜作は十数万円もの大損失を出してしまいます。
現在の価値でいうとおおよそ30億円となります。
この時、喜作の借金の保証人に栄一がなっていたことから、栄一が損失を肩代わりし、債務を整理しました。
栄一はこの時に喜作に対して、今後米相場には手を出さず、米は現物の委託販売のみとし、好調であった生糸のみを取り扱うことを条件としました。
その後は喜作も事業に専念し、米の現物市場の深川正米市場の理事長になるなど、実業界でも有数の実力者となっていました。
しかしまたしても喜作の投機的性分が出てきて、今度はドル相場に手を出してしまいます。
ドル相場でもあえなく失敗してしまい、今度は米相場の失敗の比ではなく、合計70万円の大損失を出してしまいました。
現在の価値でおよそ140億円。さらに銀行に担保に入れていた銀がすでに亡くなっており、第一国立銀行としても貸付金が損失となってしまいました。
この大損失に対して、渋沢栄一は保証人になっていなかったことから無関係ではありましたが、長年ともに連れ添っていた喜作の一大事ということで救済に乗り出します。
栄一は喜作を隠居させ、今後事業には一切手を出さないことを条件とします。
そして借金を20年計画で返済する計画を立て、自身も毎年2億円ほどを返済資金として持ち出しました。
喜作の跡を継いだ長男の渋沢作太郎は、投機的性分のあった父親とは正反対の真面目な性格でまじめに事業に取り組み、喜作の作った140億円の借金を当初の計画を上回る12年で完済しました。
晩年の喜作
2度の大失敗を経て事業から引退した喜作でしたが、こりずに自分のお小遣いの範疇でほそぼそと相場を張っていたようです。
以前に比べれば額も小さいですがたびたび失敗もしており、そのたびに栄一が助けていました。
一方喜作の興した渋沢商店は、長男の作太郎の死後、三男の渋沢義一が継ぎました。
義一も喜作に似ず真面目な性格で事業を着実に拡大し、栄一に出してもらった借金返済資金を店の株の半分を栄一に渡すことで返済しています。
栄一は返済資金は捨て金と思っていたようですが、義一の申し出には大変喜び、義一とは親子のような親密な関係を築いたようです。
その後も渋沢商店は栄一の指導の元順調に業績を伸ばし、横浜の生糸貿易で3本の指に入るほどの発展を遂げることとなります。
様々な失敗をした喜作ですが、実業界の間では有力者として見られており、49歳の頃に高峰譲吉の東京人造肥料会社設立に際し栄一とともに設立委員になったのをはじめ、いくつかの会社設立に関与し、日本の産業の発展に貢献しました。
1896年には東京商品取引所の理事長に就任し、1903年、65歳のときにすべての公職から引退し、その後は白金台の邸宅で余生を過ごしました。
1912年に75歳で亡くなり、喜作の世話になった多くの米穀商、生糸商が弔意を表したといわれています。
渋沢栄一にとっての喜作
渋沢栄一と渋沢喜作は、同じ環境で生まれ育ったものの徐々に違う道を歩みました。
幕末のフランス行きが渋沢栄一のその後の人生を切り開くターニングポイントとなりましたが、栄一がフランスに行かなかったもう一つの世界線が渋沢喜作の一生であったともいえます。
栄一は喜作の失敗の尻拭いを何度もしていますが、長年連れ添ってきた間柄であることに加え、自分がフランスに行かなかったら喜作と同様の運命をたどっていたのかもしれないという思いもあったのではないでしょうか。
喜作は栄一に追いつこうと必死にいろんな挑戦をし、栄一は自分が歩んだかもしれないもう一つの人生として喜作を自分と重ね合わせる。
二人の間にはそんな特別な感情があったことでしょう。
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