偉人解説

野宮朔太郎のモデル 平瀬作五郎の生涯 富太郎が隠したイチョウ精子発見の真相【らんまん】

平瀬作五郎

こんにちは!レキショックです!

今回は、イチョウの精子の発見で知られる平瀬作五郎の生涯について紹介します。

元は図画教師として生計を立てていた作五郎は、半世紀以上に渡って使用され続けた教科書を出版するなど一流の図画教師でしたが、さらなる高みを目指して植物学教室の画工へと転身しました。

採集や標本作りなど植物学の基礎も身に付け、顕微鏡の世界を正確に図に描いていた作五郎は、その知識、技術を見込まれ画工から助手となり、イチョウの精子の研究に取り組みます。

執念の末にイチョウの精子の発見を成し遂げた作五郎は、学歴がないことに端を発する大学内の争いから大学を去る事態に見舞われましたが、研究を助けてもらった池野成一郎の尽力で恩賜賞受賞の栄誉にあずかり、教員生活を続ける傍ら研究も独自に続けました。

今回は、牧野富太郎も嫉妬した植物学の常識を覆した執念の植物学者 平瀬作五郎の生涯について紹介します。

図画教師としての技術が認められ植物学教室に招き入れられる。 平瀬作五郎の出自

平瀬作五郎は、1856年、越前福井藩士で、藩主の近習、郡奉行などを務めていた禄高80石の中級役人 平瀬儀作の長男として福井に生まれました。

矢田部良吉の5歳年下、牧野富太郎の6歳年上、そして後にともにイチョウの研究を進めることとなる池野成一郎の10歳年上にあたります。

福井藩は幕末維新の動乱の中で、指導者の松平春嶽が政局の中心に立っており、父の儀作は福井藩の中心人物で、明治維新後は東京府知事も務めた由利公正の部下として各地を飛び回っていました。

松平春嶽

跡継ぎの作五郎も、幼い頃から藩校に入れられ武士の子として育ちましたが、11歳の時に大政奉還が行われ幕府は消滅、藩の中学校を卒業した1872年には廃藩置県も行われ藩も消滅します。

作五郎は福井藩の武士として生きる道を失い、近代の公教育を受ける前に9年の藩校生活を終えてしまっていましたが、作五郎は在学中に図画を学んでおり、絵の技術が優れていたことから卒業と同時に母校福井藩中学の図画教師助手に就任しました。

作五郎が通っていた頃の福井藩藩校には、化学、物理を教えるお雇い外国人としてアメリカ人のグリフィスが迎えられており、グリフィスは図画の教師も兼任していたことから、作五郎は最新の西洋画を学ぶことができ、学校外でも絵を学び高い実力をつけていました。

もっとも、作五郎が母校の図画教師をしていたのはわずか1年数ヶ月ほどで、18歳の時には東京に出て、図画術修行に励みます。

作五郎は画家になりたかったわけではなく、西洋の先端技術の一つとして西洋画を学び、図画教員としてのレベルアップを目指したものと見られています。

そして1年10ヶ月の修行を経て帰郷すると、郷里で油絵を学んでいた加賀野井成定の紹介からか、加賀野井が勤めていた現在の県立岐阜高校 岐阜県第一中学校に図画教師として雇われました。

当時は図画教員が不足していて、近隣の師範学校、農学校の教師も兼務していた一方、テニス好きで運動部長も務め、1884年には野球を紹介、1886年には新たに必修になった体操も教えています。

赴任翌年の1876年には結婚し、生涯で7人の子を儲けることとなり、福井から両親、兄弟も呼び寄せるなど長男としての責務も果たし、岐阜で生活の基盤を築いていました。

作五郎は図画教科書の執筆も行っており、1878年に『画学初歩』という教科書を執筆したのを皮切りに、1907年までに計6種の教科書を出版します。

当時の図画の授業は、定規、コンパスなどを使い土木、建築の設計に用いる幾何画法を教えるものが主で、1882年に出版した『用器画法』は太平洋戦争中の1943年まで最大47版を重ねておりロングセラーとなりました。

用器画法

当時の図画教育は、芸術的観点だけでなく、設計図や軍隊での地形の見取り図などを描くために学ぶ実用的な教育の一つとして見なされており、こうした時代背景もあり、作五郎は売れっ子教科書作家として新たな道を切り開いていました。

教員としても給料は月28円まで上がり、教科書の収入もあり経済的に安定していた作五郎でしたが、1887年に13年に渡る岐阜での教員生活を突如として辞め、東京に出ます。

そして翌年の1888年、32歳の時に、矢田部良吉が率いる東京大学の植物学教室に画工として勤務することとなりました。

矢田部良吉

作五郎は図画を教えていた岐阜の農学校の校長 堀誠太郎が矢田部良吉と友人だった関係で、植物画を描ける人材を欲していた矢田部に推挙されたと見られています。

作五郎としても、給料は月28円から22円に下がるものの、日本トップの大学で勤務できるという功名心が勝ったのか、この話を受けて植物学教室に入りました。

もっとも、1889年には日本で最初の洋風美術団体 明治美術会の創立会員ーの一人となっており、作五郎はあくまでも美術の世界に属する人間としての自覚は持ったままでの転職となっています。

こうして作五郎は、図画教員から植物学教室の画工へと転身を遂げ、イチョウ研究という歴史に名を残す偉業を成し遂げていくこととなるのです。

誰も真似できない執念深い緻密な研究の末大発見を成し遂げる。 イチョウの精子発見に至るまで

作五郎が植物学教室に入った前年には、池野成一郎が東大に入学し、4年前の1884年には牧野富太郎が植物学教室に出入りするようになるなど、1877年に矢田部良吉が教授となって始まった植物学教室はこの頃飛躍の時期を迎えていました。

論文の説明図や講義用の植物図など、顕微鏡写真がない時代は作五郎の持つ作図能力が植物研究には必須で、絵が下手だったとされる矢田部は、作五郎に「植物らしい画を描いてくれたまえ」と言い頼みにしたといいます。

作五郎も、植物学教室ではただ絵を描くだけでは済まず、植物の内側を見るための切片の作り方、および標本にする方法や顕微鏡の使い方など、植物研究に必要な知識を一から身に付けていきました。

作五郎は植物採集旅行にも画工として参加しており、独自の研究こそしていなかったものの、植物学自体には充分すぎるほど触れ、専門知識を身に付けていきます。

平瀬作五郎

矢田部良吉が非職とされ、植物学教室を去った2年後、牧野富太郎が助手として教室に復帰したのと同年の1893年に作五郎も助手となり、同時にイチョウの研究を開始しました。

作五郎の植物学の知識に基づいた画工としての技術は、研究者といってもいいレベルとなっており、緻密な観察が必要な「イチョウの受精と胚発育」の研究を勧められ、大学の組織改組の影響もあり助手になったと考えられています。

作五郎の研究は、毎日毎日銀杏を切っては顕微鏡にかけて調べるということの繰り返しで、初年度は100個以上の銀杏を調べ『ぎんなんノ受胎期に就テ」という論文にまとめました。

そして銀杏の受精期を9月中旬から下旬であると推定し、小石川植物園内の大イチョウを舞台に、後にハンターと呼ばれるほどの執念深い研究を始めることとなります。

作五郎はイチョウの木に登って櫓を組み布団を持ち込み、何日も徹夜して一定時間ごとに銀杏の採集を行い、時間を細かく分けたサンプルの採集に励みました。

イチョウの受精はある日一斉に行われるもので、あまりにも瞬間的すぎるため今まで見つけられておらず、そんな一瞬の出来事を作五郎は執念で捉えることに成功します。

1894年には精子の発見には至らなかったものの、精子の元になる物体の発見に成功しており、作五郎も精子発見の予感をこの時覚え、英語で論文を書き、海外への研究のアピールも行いました。

当時は農科大学の助教授だった池野成一郎も、作五郎の研究に協力し、外国語に疎い作五郎のためにフランス語やドイツ語での論文執筆、翻訳を手伝っています。

池野成一郎

そして1896年1月に、いつも通り固定液で保存した銀杏の観察をしていた時、寄生虫のような物を見つけ、池野成一郎に見せたところ、成一郎はイチョウの精子の可能性が高いと判断し、作五郎はイチョウの精子発見の偉業を成し遂げることとなりました。

もっとも、この時点では精子が動いているところは捉えられていないため確定はできなかったものの、教授の松村任三には報告し、4月には東京植物学会の例会で講演も行っています。

そしてその年の9月には、新しく生った銀杏から生きている精子を発見し『いてふノ精虫ニ就テ』と題した論文で世界中に大体的に発表されました。

このイチョウの精子の発見は、花を咲かせ実をつける顕花植物には精子のような運動性のある生殖細胞はないという定説を覆し、植物学の常識を塗り替える大発見となります。

もっとも、教授でもない日本人の一助手がこれだけの大発見をしたことに国内外問わず、当初は疑いの目が向けられていましたが、次第に大発見として認められていきました。

作五郎の大発見には、同じ助手の牧野富太郎も嫉妬しており、作五郎の執念深い研究をたまたま銀杏を切っていたら見つけた「犬も歩けば棒に当たる形式で偶然拾った物」と評し、ほとんど池野成一郎の手柄であると後に語っています。

牧野富太郎

これは、植物分類学の天才を自認する富太郎が、画工の作五郎を見下していたにも関わらず、作五郎が同じ助手の身分ながら植物学の常識を塗り替える偉業を成し遂げたことを素直に喜べなかったからだと考えられています。

作五郎は助手ながら、1894年からは植物学会の幹事も務めており、専門教育を受けておらず植物学歴も浅いながら、月給15円の助手である富太郎より上の立場にいたことも富太郎を嫉妬させることとなりました。

池野成一郎の支援もあり偉業を成し遂げ、作五郎は研究者としてこれから飛躍するかに見えましたが、論文発表の翌年の1897年、作五郎は突如として大学を自ら去ることとなります。

無念の内に大学を去るも、生涯かけて研究に邁進する。 平瀬作五郎の後半生

作五郎は歴史的発見からちょうど1年後の1897年9月、41歳の時に、大学を追放されるわけでもなく自ら申し出て助手の仕事を退職しました。

退職の2日後には現在の彦根東高校にあたる滋賀県第一中学校に赴任していることから、以前から退職を念頭に就職先を探していたと見られ、突然退職を迫られたわけではないと考えられます。

作五郎自身は直前まで研究を続けていましたが、一説には学歴がないながら歴史的な功績を挙げた作五郎の学位などの処遇を巡り大学が2つに割れ、争いを収めるために自ら退職を決意したとも言われています。

正規の学歴を持っていない作五郎が世界的発見をしたことに東大の教授や文部省でも大学秩序上好ましくないとする勢力がいたことは確かで、業績を認めようとする勢力と対立していたと見られます。

滋賀県第一中学校への履歴書にはイチョウ精子発見の論文については書かれておらず、学校にあったイチョウの木に目もくれることなく、作五郎の研究は大学を去ったことで中断されました。

もっとも、1898年には今までの研究をまとめた集大成となる論文を発表しており、池野成一郎が東大の紀要に載せたことで、この論文が作五郎の名を世界中に知らしめることとなります。

作五郎の教師としての給料は65円と優遇されており、生徒を外へ連れ出し植物採集を行い、顕微鏡で観察させるなど植物の面白さを伝える授業も行っていましたが、6年半後の1904年に退職しました。

この頃の作五郎は、1902年に長女、三男を、1904年に三女を亡くすなど相次いで子供を失っており、相次ぐ子供の死に妻も精神に異常を来してしまったといい、こうした不幸も関係してか、作五郎は退職後、突然朝鮮に渡り商売を始めています。

商売は上手く行かず3ヶ月で帰国し、1905年 49歳の時には京都の花園中学校に講師として雇われ博物学を教えることとなりますが、この頃から植物学研究を再開しています。

1906年には9年ぶりにイチョウの研究を再開し、同時にクロマツの受精という新たなターゲットにも挑戦し、教員生活と並行して研究を続けることとなりました。

クロマツ

1912年にはイチョウ精子の発見の功績により、日本の学術賞としては最も権威のある帝国学士院恩賜賞が授与されています。

恩賜賞は元々ソテツの精子を発見した池野成一郎だけに贈られる予定だったものの、成一郎が作五郎と一緒ならば受けてもいいと譲らず、異例の同時受賞となったものでした。

恩賜賞受賞は大学を理由なく去った作五郎にとって名誉挽回の機会となり、研究者として再評価された作五郎は、島津製作所の標本部顧問や現在の大阪大学医学部にあたる大坂府立高等医学校の予科の講師など活躍の幅を広げていきます。

この頃の作五郎は、60代に差し掛かっていましたがより一層研究に励んでおり、1918年には12年の歳月をかけてクロマツの受精の研究をまとめた論文を植物学雑誌に掲載しました。

同時期には在野の博物学者として知られた南方熊楠とも共同で松葉蘭の研究に取り組んでおり、京都と和歌山で文通をしながら大学の支援を受けず独力で研究を行っています。

南方熊楠

この研究は1907年から14年間に渡って行われ、その間の1913年に三男、1915年に長男を亡くす不幸に見舞われますが、妻も精神病を発し家事全般も引き受ける中、悲しみを振り払うかのように子供が亡くなった時期に熊楠との文通の量は増えており、研究に邁進していました。

しかし、南方熊楠との松葉蘭の研究は、池野成一郎からの手紙でオーストラリアの研究者に先を越されたことが発覚し、徒労に終わってしまっています。

その間も教員としての仕事は真面目に取り組んでおり、60代になっても子供たちとテニスに興じるなど厳しいながら親しみやすい先生だったようで、恩賜賞受賞も相まって生徒からは慕われていました。

しかし1924年、68歳の時に肝硬変で体調が悪化し、学校を辞職し療養生活に入ります。

卒業生を中心に多額の見舞金が集められるなど、一刻も早い快復を関係者全員が願っていましたが、翌年の1925年に作五郎は69歳で波乱の生涯を閉じることとなりました。

参考文献

本間健彦 『「イチョウ精子発見」の検証―平瀬作五郎の生涯』 https://amzn.to/3sMbuhO

平河出版社『近代日本生物学者小伝』

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