尊皇攘夷の嵐が吹き荒れる幕末の京都で、尊皇攘夷志士の取締りにあたった新撰組。
池田屋事件、禁門の変などで活躍し、尊皇攘夷志士から恐れられる存在となりました。
鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れた後は、局長の近藤勇が処刑、副長の土方歳三は箱館まで転戦するも戦死、沖田総司は明治を迎える前に病死するなど、主要な隊士の多くは幕末維新の動乱の中で亡くなっています。
しかし、隊士の中には、明治以降も生き延び、新たな地で活躍した者、新撰組の歴史を後世に伝えた者たちがいます。
今回は明治以降も生きた隊士たちのうち、斎藤一、島田魁、永倉新八、相馬主計、市村鉄之助の5名を紹介していきます。
警察官に転身、西南戦争にも従軍 斎藤一
新撰組三番隊隊長として、近藤勇や土方歳三らのもとで活躍した斎藤一。
「新選組の中で誰が一番強かったか?」といわれたら、必ず名が上がるほどに、
斎藤の剣術の腕前は群を抜いていたようです。
徳川慶喜が大政奉還を行ったのちに、旧幕府軍と新政府軍との間で鳥羽伏見の戦いが行われ、新撰組も旧幕府軍として新政府軍と戦いました。
斎藤も最前線で戦い、その後は甲州勝沼、宇都宮、会津と転戦します。
会津藩の敗色が濃厚になる中、土方歳三らは会津を離れますが、斎藤は最後まで会津に残留し、会津藩士らとともに新政府軍に抵抗しました。
しかし、会津藩はついに降伏し、松平容保からの説得もあり、城外で戦っていた斎藤も武器を捨て、降伏します。
降伏後、捕虜となった会津藩士とともに、越後高田で謹慎生活を送ります。
斎藤が謹慎を解かれる1869年頃、家名断絶となっていた会津藩の再興が認められ、下北半島で斗南藩として再興することになりました。斎藤はこれに従い、斗南藩士となって下北半島に向かいました。
この頃から名前を松平容保から授けられた藤田五郎へ変え、松平容保を仲人に、会津藩の上級武士の娘である篠田やそと結婚しています。
その後、1874年に会津藩大目付の高木小十郎の娘、時尾と再婚し、3人の子供ももうけました。
同年に斎藤は東京に移住し警視庁に出仕しました。
かつて新選組の敵であった、明治政府の組織に所属することとなったのです。
警視庁へ入った理由として、得意の剣術を活かせるから、廃藩置県後に家族を養うために公務員になる必要があったなどがあげられます。
斎藤が警視庁に入って数年が経った1877年、西郷隆盛らによる最大規模の士族反乱、西南戦争が勃発します。
斎藤は、警視隊という陸軍の兵力不足を補完するために警察官で組織された部隊の一員として戦場に赴き、切り合いにめっぽう強い西郷軍に対抗するための抜刀隊の一員として、最前線で戦いました。
とくに、西南戦争で最大の激戦だったといわれる田原坂の戦いにおいて、西郷軍の斬り込み攻撃部隊と互角の勝負をし、大きな戦果を挙げています。
斎藤は被弾して負傷するも奮戦し、その活躍が東京日日新聞に報じられています。
同じ会津藩出身の佐川官兵衛が戦死するほどの激戦の中功績を挙げた斎藤は、のちに政府から勲章と賞金が与えられています。
1892年に18年間務めた警視庁を退職した後は、東京高等師範学校校長であった元会津藩士の高嶺秀夫の推薦で、現在の国立博物館の看守を務めました。
博物館が現在の筑波大学の所管であった関係で、学生に剣術も教えていました。
当時の学生によると、誰も斎藤の竹刀に触れることができなかったという伝説があるそうです。
その後は、東京女子高等師範学校に勤務し、生徒の登下校時は人力車の交通整理もしていました。
元会津藩士であった山川浩や高嶺秀夫とは生涯を通して親交が続き、1915年、胃潰瘍のため、72年の生涯を終えました。
寺の警備員として再就職 島田魁
島田魁は、永倉新八が隊長を務める二番隊の伍長をつとめた人物で、副長の土方歳三の懐刀としても活躍しました。
新選組への入隊は比較的遅いものの、新選組の関わる主だった事件にはほとんど参戦し、活躍が記録に残っています。
島田は、新選組一の巨漢で身長は182cm、体重150kgと当時の日本人体系を遥かに上回っていました。
そんな巨漢な島田には有名なエピソードがあります。
1868年、鳥羽伏見の戦いで永倉新八を隊長とする決死隊が薩摩軍と戦っていた際の話。
民家に火の手が上がり退却を余儀なくされるも、重装備をしていた永倉は塀を乗り越えることができずにいました。
そんな時、塀の向こうにいた怪力・島田は、自分の銃を永倉に差し出します。
すると、それを掴んだ永倉を軽々と塀の上へと引き上げ、永倉は窮地を脱することができました。
これを見ていた周りの人たちも、島田の剛腕ぶりにたいそう驚いたようです。
その後は土方歳三に従い、旧幕府方として戦いながら北上し、箱館にたどり着きます。
箱館で新撰組は弁天台場を担当し、海からの攻撃に備えており、島田は弁天台場の守備のトップとして隊士を指揮しました。
箱館戦争も最終局面に入り、新政府軍が箱館の市内への侵入を開始すると、島田が指揮する弁天台場は孤立し、土方歳三は新撰組を救出に行く途中、一本木関門で銃弾に倒れます。
土方の死後も、島田ら新撰組は1869年5月の降伏時まで戦い続けました。
敬愛する土方の戦死を知った島田は、土方の戒名を書いた布をさらしに巻いて、生涯肌身離さず、大切にしていたそうです。
降伏後、島田は約半年間の謹慎生活を送り、その後、名古屋藩に預けられ、謹慎が解かれると京都で剣術道場を開きます。
この間、新政府への出仕の話があり、榎本武揚が「旧交を温めたいので宿舎まで来て欲しい」と面会したいと伝えたのに対し、島田は「会いたいという奴の方から出向くのが筋だろう」と断っていたそうです。
その後、商売を始めようとする島田でしたがうまくいかず、1886年に知人の紹介で、新選組の元屯所だった西本願寺の夜間警備員となり、1900年に勤務先の西本願寺で亡くなりました。
島田魁が残した『島田魁日記』によって、土方歳三が弁天台場救出の途中に戦死した様子など、箱館戦争の詳細な様子が現代に伝えられています。
剣術師範として第二の人生を歩む 永倉新八
新選組の二番隊隊長として活躍した永倉新八は、新選組幹部の中で最も長生きした人物です。
「剣術を極めたい」と思い、後先考えずに脱藩するほどのがむしゃらな性格から、
がむしゃらな新八、がむ新と呼ばれていたようです。
剣の腕前も相当なもので、新選組隊士の阿部十郎が晩年に語った「一に永倉、二に沖田、三に斎藤」という言葉にあるように、斎藤一や沖田総司をも凌ぐほどの剣の腕前だったのではないかと言われています。
鳥羽伏見の戦いでは、永倉は新政府軍の銃撃の前に刀で立ち向かいますが敗れ、江戸に帰還したのち甲陽鎮撫隊として、甲州勝沼でも新政府軍と戦いますが敗北します。
その後の方針を巡り、局長の近藤勇と対立した永倉は新選組から離脱することとなりました。
新撰組を離脱した永倉は、靖兵隊を結成し、独自に新政府軍への抵抗を続けます。
しかし、会津藩の降伏を知って江戸へ帰還し、その後、18歳の時に脱藩した松前藩に帰参しました。
その後は松前藩の藩医を務めていた杉村家の婿養子となり、松前に渡りました。
明治維新後、新選組での剣術の腕が買われ、小樽にある北海道で初めての刑務所樺戸集治監で剣術師範を務め、看守に剣術の指導をしました。
永倉の指導は非常に厳しく、看守たちも音を上げるほどだったそうです。
刑務所を退職した後は、上京して東京で剣術道場を開き、若者たちに剣術を教えます。
その後、60歳のときに、妻と子供が薬局を営む小樽へ転居し、さらには北海道大学で剣道部の指導にもあたりました。
晩年は剣術の指導にあたっていた永倉でしたが、1915年、虫歯が原因で骨膜炎と敗血症を併発し、小樽にて、77年の人生に幕を閉じました。
謎の自殺を遂げた 新撰組最後の局長 相馬主計
相馬主計(そうまかずえ)は、常陸国笠間藩の出身で、脱藩後幕府の歩兵に参加し、第二次長州征伐後に新選組に入隊した比較的新参の隊士です。
入隊数ヶ月にも関わらず、相馬は鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦いに参加し、勝沼の戦いでは局長付組頭として隊を指揮するなど早くから頭角を現していました。
甲州勝沼の敗北後、流山で近藤勇が新政府軍に投降し捕縛されると、相馬は近藤の助命嘆願に駆けつけますが、相馬も捕らえられてしまいます。
近藤と共に処刑される予定でしたが、近藤の嘆願により釈放され、故郷の笠間藩で謹慎処分となります。
しかし、脱走し、彰義隊に参加、彰義隊の敗北後は、旧幕府軍とともに東北を転戦し、仙台で土方歳三と合流しました。
土方ら新撰組とともに箱館へ渡り、相馬は箱館市中取締、新政府軍上陸後は新撰組の一員として弁天台場の守備にあたります。
しかし新政府軍の侵攻は止まらず、弁天台場を守備する新撰組は孤立し、救援に向かった土方歳三も戦死してしまいました。
完全に包囲された新撰組はついに新政府軍に降伏します。
この時、新撰組は新政府軍への降伏書類に相馬を局長として記しました。このことから相馬は新撰組最後の局長と呼ばれ、新撰組の歴史に幕を引くこととなりました。
明治時代に入り、相馬は伊東甲子太郎が暗殺された油小路事件の首謀者との嫌疑をかけられて、伊豆の新島に流罪となります。
新島で相馬は寺子屋を開き、また、身柄を引き受けてくれた大工の棟梁の娘・マツと結婚します。
1872年に赦免され、現在の京都府、兵庫県にあたる豊岡県に出仕します。
豊岡県では主に司法関係の仕事をしていましたが、2年後に突如として免官され、東京に戻りました。
そして相馬は東京に戻った後、謎の死をとげています。
通説では、妻のマツが外出先から戻ってきた際に、部屋で相馬は割腹自殺を遂げていたといいます。
相馬がマツに「他言無用」と厳命し、マツもそれを守り通していたため、死の真相は今もなお分かっていません。
土方歳三の遺品を現代に伝えた 市村鉄之助
新選組副長・土方歳三の側近として知られる、市村鉄之助。
伊東甲子太郎が暗殺された油小路事件のあと、1867年に兄の辰之助とともに新撰組に入隊し、土方歳三附の隊士となりました。
この時に土方から「沖田に似ている」と言われたことが、鉄之介の生涯の誇りとなったそうです。
鉄之介は土方歳三に付き従い、鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼の戦いなどに参加しています。
江戸帰還後は減少した隊士を補うための隊士募集に従事しますが、この頃に兄の辰之介は新撰組を脱走しています。
その後も会津、福島など東北を転戦し、箱館まで土方歳三に付き従いました。
箱館戦争で新政府軍に圧倒され追い詰められる土方歳三ら新撰組ですが、まだ幼いながらに戦死する覚悟を固める鉄之助に対し、土方は箱館からの脱出を命じます。
土方は、「自分と共に戦う」と引き下がらない鉄之助を怒りの剣幕で納得させます。
そして鉄之助に自分の遺品を託し、親戚である日野の佐藤彦五郎の家で匿ってもらうように告げ、鉄之介を箱館から脱出させます。
土方が鉄之助に託した遺品のなかに、有名な洋装姿で椅子に構える土方歳三の写真がありました。
佐藤彦五郎は鉄之助が新政府に見つからぬよう、約2年間保護します。
その間、鉄之助には読み書きや剣術を教えたそうです。
その後、鉄之助は故郷の大垣に帰り、兄の辰之介と再会しましたが、1873年、20歳の若さで病死しました。
まとめ
幕末の動乱の中で誠の旗を掲げ、尊皇攘夷志士に恐れられた新撰組。
そんな新選組のその後は?と聞かれると、近藤勇の刑死や土方歳三の戦死が注目されますが、生き残った隊士たちは注目されにくいかもしれません。
しかし永倉新八や斎藤一のように、江戸から明治という日本の歴史上、最大の転換期をしぶとく生き延びた人物もおり、彼らは幕末の新撰組の活躍の生き証人となりました。
江戸から明治に入り、新撰組としての活躍の場がなくなっても各々の道で生き抜いた対したち。
そんな彼らの後半生にも興味を持っていただけたら嬉しいです。