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本多忠勝の子孫のその後 戦国最強の男の家系はどうなった?

今回は、徳川家康の家臣で、戦国最強の武将と呼ばれた本多忠勝の子孫について紹介します。

本多忠勝

徳川四天王の1人で、五十数度の戦いに出陣し、かすり傷ひとつ負わなかったという伝説を持っている本多忠勝。

忠勝は関ヶ原の戦いにも徳川軍本体として出陣し、わずかな手勢を率いて多数の敵を討ち取る功績を挙げています。

しかし江戸幕府が成立すると、同じ徳川四天王の井伊家が大老として活躍する一方、忠勝の本多家は名前を聞かなくなってしまいます。

今回は、忠勝以降の本多家はどのような道を辿ったのかについて紹介します。

西国の押さえとして睨みをきかせる 江戸時代初期の本多家

関ヶ原の戦いの功績で、本多忠勝は伊勢国桑名藩10万石を与えられています。

家康からは5万石の加増を打診されていましたが、忠勝はこれを固辞し、忠勝の次男の本多忠朝に旧領の上総大多喜5万石が別に与えられています。

関ケ原の戦い以降、江戸幕府では忠勝のような武勇の者よりも、本多正純ら若く文治に優れた吏僚派が中心を占めるようになっており、忠勝は次第に政治の中枢からは遠ざかるようになりました。

忠勝は桑名藩の藩政を整備することに尽力しますが、病にかかり、息子の本多忠政に家督を譲り隠居、1610年に63歳で亡くなりました。

忠勝の嫡男 本多忠政

跡を継いだ本多忠政は、家康の長男、徳川信康の娘を妻にしており、大坂冬の陣では徳川方の先鋒を任せられています。

大坂夏の陣では、豊臣方の薄田兼相毛利勝永と戦い、その功績で姫路15万石に加増されました。

この大坂夏の陣では、忠勝の次男の本多忠朝が戦死しています。

忠勝の次男 本多忠朝

忠政には嫡男の本多忠刻がおり、豊臣秀頼の正室で、徳川秀忠の娘である千姫を正室に迎えていましたが、31歳の若さで忠政に先立って亡くなってしまいます。

そのため、本多家は忠政の次男の本多政朝が跡を継ぎます。

しかし政朝も39歳の若さで亡くなります。

本多忠政の次男 本多政朝

政朝には実子の本多政長がいましたが、政朝が亡くなったときはわずか6歳でした。

本来ならば本多家は息子の政長が跡を継ぐところですが、本多忠勝は家訓として「幼君に家督を継がせてはならぬ」と定めており、本多家は政長が成長するまでの養子を迎えることとなります。

しかしこの養子縁組から、本多家の混乱は始まることとなるのです。

相次ぐお家騒動 混乱する本多家

本多政朝の死後、本多家を継いだのは一族の本多政勝でした。

政勝は、本多忠勝の次男で、大坂夏の陣で戦死した本多忠朝の子です。

忠朝が戦死したときには政勝は2歳であったため、従兄の本多政朝が忠朝の遺領である上総大多喜5万石を継いでいましたが、政朝は本家に戻り、やがて政朝も急死し、子も幼かったため政勝が養子として本家に入ることとなったのです。

このように本多家では忠勝の家訓に従って、実子がいるにも関わらず、養子縁組を繰り返しますが、古来よりこうした養子縁組は家督争いの原因となるものです。

政勝は大和郡山に移封されますが、やがて先代の息子である本多政長よりも、実子の本多正利に家督を譲ることを画策します。

政勝は大老の酒井忠勝に取り入ろうとしますが、お家騒動の元だとした家臣の忠言により、本来の取り決め通り、本多政長を後継者に定め、亡くなります。

しかし、政勝の息子の本多政利は、家督継承を望み、ついに本多家では家督争いが勃発します。

政利は父親の死の直後から幕府に裏工作を行い、15万石の領土のうち、9万石を本来の相続者の本多政長に、6万石を政利のものにすることに成功します。

このお家騒動は、領地の配分から九・六騒動と呼ばれています。

しかし政利は15万石全部を相続できなかった不満から、なんと政長を毒殺します。

結局政長が亡くなっても政利が領地を相続することは叶わず、その内に政利は、領民に過酷な政策を敷いたことや、巡見使に対する作法が不適切だったことを罪に問われ、減封、さらに改易になってしまいました。

一方、政長を失った本多家では、水戸徳川家の一族から本多忠国を養子に迎えます。

忠国は姫路15万石に加増されますが、38歳の若さで死去、息子の本多忠孝は6歳と幼少であったことから、西国の要である姫路は任せられないとして越後村上に転封されます。

お家騒動を経験した本多家では忠勝以来の家訓を遵守する余裕はもうなかったようです。

さらに忠孝も12歳で急死してしまい、ついに本多家は無嗣断絶の危機に直面してしまいます。

減封、養子縁組 衰退していく名門

無嗣断絶の危機に陥った本多家ですが、本多忠勝以来の名門であったことが考慮され、一族の本多忠良が跡を継ぎました。

しかし10万石を減封され三河刈谷5万石となってしまいました。

忠良は本多家の復権に尽力し、6代将軍徳川家宣の側用人に抜擢されると頭角を現し、翌年には侍従に昇進、領地は5万石ながらも10万石の格式を許される身分となりました。

さらに8代将軍徳川吉宗の時代には、下総古河に移封、老中となり国政の中心に関わるようになります。

忠良の跡は息子の本多忠敞が継ぎますが、忠敞は石見浜田に移封になった直後に33歳の若さで急死してしまいます。

忠敞の跡は、真田家からの養子である本多忠盈が忠敞の娘を妻に迎えて跡を継ぎました。

真田家はもともと藩祖の真田信之が本多忠勝の娘の小松姫を正室に迎えていたことから、忠盈も本多家の血筋を引いていることとなります。

本多忠勝の娘で真田信之の妻となった小松姫

忠盈は先代当主忠敞の実子で、死後に生まれた本多忠粛に家督を譲りました。

しかし忠粛は18歳の若さで亡くなり、忠盈の実子である本多忠典が跡を継いでいます。

この頃に本多家は徳川家ゆかりの地である三河岡崎に移封されています。

岡崎は代々徳川家の信任の厚い家が領主を務める地でしたが、この頃の本多家は度重なる移封、養子縁組により忠勝以来の名門にふさわしい力は失っており、財政難に悩まされるようになっていました。

幕末の動乱では力を発揮できず 現代にまで続く本多家

岡崎藩移転後の本多家は、財政難に悩まされ、幕府に豊かな土地への移封を願い出ます。

しかしこれは却下され、代わりに1万両を10年にかけて与えられる措置を取られ、諸役も免除されるという待遇を手にします。

しかし当主の本多忠典が27歳の若さで亡くなり、伊予西条藩の松平頼謙の次男である本多忠顕が養子として跡を継ぎました。

このときにも家督をめぐって抗争が起きていますが、老中の松平定信が調停に入り、抗争は鎮められています。

忠顕は幼かったため、家老の中根忠容を中心に政治が行われ、財政改革によって160億円ほどあった借金を40億円ほど減らすことに成功しました。

しかし忠顕が成長すると、改革反対派と結託し中根ら家老を追放、忠顕自ら政治を行いますが、遊興にふけり政治には見向きもせず、藩財政は悪化の一途をたどりました。

この頃の岡崎藩では武士がつける武具はほとんどなく、厩舎には馬が一頭しかいないという状況で、本多忠勝以来の名門とは名ばかりの有様となっていました。

さらに矢作川が洪水を起こし、どうしようもなくなった藩では、藩主に実子がいるにも関わらず親藩の高松松平家から本多忠民を養子に迎え事態の打開を図ります。

本多忠民

この忠民の時代に本多家は幕末、明治維新を迎えます。

忠民は寺社奉行京都所司代など幕府の要職を歴任し、条約締結問題に際し、幕府と朝廷の間の連絡に奔走しました。

そして老中も務め、混乱する幕府政治をなんとか支えました。

しかし戊辰戦争が始まると、長年の財政悪化により疲弊していた岡崎藩には新政府に対抗する力は残っていなかったことから、恭順の道を選ぶこととなりました。

忠民は明治に入るとすぐに隠居し、信濃小諸藩牧野氏の本多忠直を婿養子として跡を継がせました。

本多忠直

版籍奉還後、知藩事となった忠直は文武の奨励のために明治に入ってから藩校の允文館允武館を創設します。

藩校は廃藩置県に伴って2年で消滅しますが、次代の本多忠敬は岡崎の民のために教育事業に力を注ぎ、本多賞を創設し子どもたちの勉学を奨励、さらに東京に岡崎出身者のための学生寮舎を設立しています。

本多忠敬

学生寮舎は現在でも三河郷友会学生会館として続いています。

また、岡崎城を市民憩いの場とすべく岡崎市に寄付し、岡崎公園として整備しています。

こうした岡崎市民へのための活動が評価され、1961年には岡崎市名誉市民に推挙されました。

まとめ

徳川家随一の武門の家として江戸時代に入っても重要拠点を任せられるなど活躍していた本多家。

しかし相次ぐお家騒動、藩主の死により藩政は混乱し、期待されていた役割は全く果たせなくなってしまいました。

それでも最後は徳川家康ゆかりの地である岡崎を治め、明治時代以降も岡崎市民のために私財を投げうって援助を行うなど、岡崎のために尽くしました。

1915年には本多忠敬が家康忠勝両公300年祭の祭主を務めています。

徳川家を守るための力は失っても、徳川家ゆかりの地である岡崎を明治維新後も支え続けた本多家は、十分徳川家のために尽くしたと言えるのではないでしょうか。

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