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今回は、壇ノ浦の戦いで源義経と激闘を繰り広げた平知盛の生涯について紹介します。
平清盛の四男として生まれ、武勇に優れ、兄の平宗盛を支えた平知盛。
源平合戦最後の戦いである壇ノ浦の戦いでは、平家水軍を率いて源氏と戦うも敗れ、最期は一門とともに入水して果てました。
その最期は壮絶なもので、碇知盛として語り継がれています。
対馬の領主である宗氏にもつながっているという伝説も残っている平知盛の生涯について紹介します。
平清盛最愛の息子として大活躍 平知盛の出自
平知盛は、平清盛と平時子の間に生まれました。
清盛の子としては四男として生まれていますが、長男の平重盛、次男の平基盛は清盛の先妻の子として生まれており、平時子の子としては、兄の平宗盛に次いで次男にあたります。
同じ母を持つ妹として、安徳天皇の母である平徳子がおり、平家一門の中でも中心人物となっていました。
知盛が8歳のときに、父の清盛が平治の乱で源義朝らに勝利し、平家一門は出世の道を歩み始めます。
知盛も清盛の正妻の子として、10歳で武蔵守に任じられるなど、若い頃から出世ルートに乗っていました。
知盛自身も武将としての才能を早くから発揮し、源氏の根拠地であった武蔵国をよく支配し、畠山氏など武蔵国の有力武士たちを平家側に引き入れています。
平清盛も、武勇に優れ、人望も厚い知盛に大いに期待をかけており、兄の平重盛、平宗盛らが、後白河法皇に対し強く出れない中、知盛のことを最愛の息子としてかわいがったといいます。
知盛は、後に後高倉院として、後堀河天皇の院政を行った守貞親王の養育を任されるなど、平家一門の中でも活躍しますが、この頃から病がちであったといい、次第に出世のスピードが遅くなっていきます。
一時は、万死に一生といわれるほどの重病を患ったといい、平清盛も福原から京都へ出向き、知盛を見舞った記録が残っています。
このように、病気によるハンディキャップを抱えながらも、武勇に優れた知盛は、平家政権の軍事部門を主に担い、平重盛亡き後、棟梁となった平宗盛を支えました。
以仁王が打倒平家を掲げて挙兵した際には、病から癒えた直後であったため、弟の平重衡や、従兄の平維盛によって挙兵は鎮圧されています。
その後も、病がちであった知盛は、主に京都の守備を担っていました。
しかし、平維盛率いる頼朝追討軍が富士川の戦いで敗れるなど、情勢はどんどん平家に不利になっていくこととなります。
持ち前の武勇で最期まで平家を支える 源平合戦での知盛
病も癒えてきた知盛は、富士川の戦い以降、本格的に源氏の反乱鎮圧に乗り出します。
知盛も、近江源氏や美濃源氏などの反乱鎮圧に大将として出陣し、またたく間にこれを破っています。
また、弟の平重衡も、南都焼討を決行するなど、京都周辺では、以前平家が優勢を保ちました。
さらに知盛は、平家の威信をかけて、東国の頼朝追討を命じられます。
しかし知盛はここでも突如として体調を崩してしまい、代わりに弟の平重衡が大将となりますが、今度は九州での情勢が悪化したため、最終的にはこの追討軍派遣は取りやめとなりました。
そのうちに、平家の総帥の平清盛が死去し、平家は一時的に軍事行動を停止します。
清盛は死の間際に、一門最後の1人まで頼朝と戦い、頼朝の首を墓前に供えよと言い残し、亡くなりました。
この言葉は、知盛ら平家一門を、その滅亡まで源氏との戦いに駆り出すこととなったのです。
清盛の跡を継いだ平宗盛は、後白河法皇との対立路線を変更し、法皇とは宥和政策を取りますが、法皇に下された源氏との和平案は拒否し、清盛の遺言通り、源氏討伐に固執します。
しかし、平家の総力を結集した平維盛ら北陸道平定軍は、倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に敗れ、平家はついに都落ちすることになってしまいました。
それでも知盛は、一門の中心として屋島に拠点を置き、瀬戸内海の水軍を武器に勢力立て直しを図ります。
都に入った木曽義仲は、兵糧不足から治安維持にも失敗し、後白河法皇の信任を失いつつあり、源頼朝とも源氏同士対立する中、知盛ら平家は、福原にまで進出し、京都奪還の機会を伺っていました。
しかし、木曽義仲を破った源義経ら頼朝軍と一ノ谷の戦いが起こり、知盛は源範頼率いる本軍と死闘を繰り広げますが、別働隊を率いた源義経の奇襲により、平家軍は敗北してしまいます。
一ノ谷の戦いで敗れた平家は、屋島に拠点を戻し、瀬戸内海を中心に勢力の立て直しを図ります。
この時知盛は、安徳天皇のいる屋島を棟梁の宗盛に任せ、自分は壇ノ浦のある彦島に拠点を置き、西国の基盤固めに奔走しました。
この知盛の活躍により、平家の退路を断とうとする源範頼らの軍勢は、九州上陸を阻まれ、兵糧不足もあり、戦線は膠着状態となります。
しかし源義経の奇襲作戦によって、本拠地の屋島が源氏に奪われ、平家は知盛が拠点としていた壇ノ浦の彦島に集結することとなってしまいました。
こうして、追い込まれた平家の最後の頼みの綱である知盛と、源義経ら頼朝軍の間に、最後の戦いである壇ノ浦の戦いが始まるのです。
義経を追い詰めるも、最期は碇を抱いて海に散る 子孫は対馬の領主にも?
源義経が屋島を奪ったのと同じ頃、源範頼率いる軍も、知盛の抵抗むなしく九州に上陸を果たし、平家はついに壇ノ浦の彦島に孤立することとなってしまいました。
それでも、知盛は源氏に数は劣るものの、500艘もの船を集め、得意の海上戦闘で源氏を討ち果たそうと試みます。
海戦を熟知していた平家は、不慣れな海戦で源氏軍が潮の流れに戸惑う中、潮の流れを味方につけ、源氏軍を圧倒します。
この時に、源義経が不利を悟って船の漕手を狙ったともいわれています。
また、潮の流れが変わり、陸で退路を塞ぐ源範頼らの軍勢の射程範囲に入ってしまったともいい、平家軍は次第に追い詰められ、敗北は決定的となってしまいました。
敗北を悟った平家一門は、入水を決意し、知盛は自ら安徳天皇や平徳子が乗る船に乗り移り、船内を掃除して周ったといいます。
そして安徳天皇は平時子に抱えられ入水し、平宗盛、平教盛ら一門の武将たちも次々と入水していきました。
平家一の剛の者である平清盛の甥にあたる平教経は、なおも敵と戦いますが、知盛は教経に対し、勝敗が決した以上、これ以上罪作りなことはするなと止め、教経はならば義経を道連れにしてやろうと義経の船を見つけ、これに飛びかかります。
しかし義経は、8艘の船を伝って逃げのび、義経を逃した教経は近くにいた源氏の武将を2人脇に抱えて入水しました。
一門の最期を見届けた知盛は「見届けねばならないことは見届けた」と、絶対に浮き上がらないように碇を担いで入水し、その生涯を閉じたといい、ここに平家は滅亡することとなりました。
知盛の長男の平知章は、一ノ谷の戦いで敗走中に父の知盛をかばって討死していましたが、次男の平増盛、三男の平知忠、4男の平知宗は壇ノ浦の戦い以降も生き残っていました。
平増盛は早くから出家しており、1195年に源頼朝が上洛した際に、縁あって頼朝に従うようになり、鎌倉の勝長寿院で暮らしました。
一方、3男の平知章は、父が死去した頃はまだ5歳で、かつて平家の根拠地であった伊賀国で育ちました。
そして17歳の頃に、突如として京都に現われ、鎌倉幕府と朝廷をつなぐパイプ役であった公卿の一条能保の暗殺を企み、平家を再興しようとしましたが、幕府に事前に察知され討たれてしまっています。
4男の平知宗は、知盛が都を追われ、西国を転々としている最中に生まれ、乳母の出身である惟宗氏に匿われ、やがて、かつて平知盛の家人で、頼朝にしたがって鎮西奉行として九州にいた武藤資頼の養子となります。
武藤資頼の名跡は実子が継ぎ、子孫は少弐氏として繁栄しますが、知宗も太宰府の官職につき活躍したといいます
対馬国の領主を代々務めた宗氏の祖先である宗重尚は、知宗の子であると伝わります。
対馬で反乱が起きた際に、鎮圧のために重尚が派遣され、そのまま対馬の領主として土着したというものです。
ただし、実際のところは、かつて知宗を匿っていた惟宗氏の出身である重尚が、平家の威光を利用しただけのようです。
宗氏は、元寇、南北朝の戦いを経て、対馬守護の地位を手に入れ、朝鮮との貿易などで繁栄し、江戸時代を通じて対馬の領主として続くこととなりました。
[…] そして、久下直光の名代として京都で働きますが、直光の家人扱いをされることに耐えられず、直光のもとを離れ自立し、平清盛の4男である平知盛に仕えました。 […]