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三善康信の生涯 子孫は問注所を名字に大友氏に仕える

こんにちは!レキショックです!

今回は、問注所執事として鎌倉幕府の裁判事務を担当した三善康信について紹介します。

康信は源頼朝が伊豆国の流人であった時代から、頼朝の味方として京都の情勢を逐一伊豆に送っていました。

頼朝の挙兵にも一役買っており、鎌倉幕府創業の最大の功労者の1人といっても過言ではありません。

頼朝が平家を滅ぼしたのちも、大江広元らと並んで問注所の執事として鎌倉幕府の政治を担当し、武家政権の確立に努めました。

子孫は問註所氏として豊後国の戦国大名大友氏に仕えたほか、各地でその文官能力を発揮した三善康信の生涯、子孫のその後について紹介します。

京都から頼朝の挙兵をアシスト 三善康信の出自

三善康信は朝廷で代々算道を司っていた下級貴族の三善家に生まれました。

三善家は、中国の漢王朝の諸侯王である東海王の末裔の波能志氏が祖先にあたり、渡来人として日本にやってきて、代々算術を研究する算博士として朝廷に仕えていました。

後白河法皇の曽祖父にあたる白河法皇の頃の当主であった三善為長は、実子がいるにも関わらず、優秀な門人であった三善為康を養子に迎えており、この為康の孫が三善康信にあたります。

三善康信も若い頃から朝廷の実務官僚として、書記官の役割などを担っていました。

一介の下級貴族にすぎなかった康信が源頼朝と縁を持ったのは、康信の母が頼朝の乳母の妹という関係にあったためです。

源頼朝

そのため、母の縁もあって、平治の乱によって伊豆に流人として流された頼朝を支える役割を担うことになりました。

具体的には、康信は京都の情勢をまとめて月に3回ほど頼朝に送っていたといいます。

この康信の長年に渡る地道な支援によって、頼朝は中央政局とは隔絶した地域にいながらも、政局の移り変わりを把握することができていました。

康信の支援がなかったならば、日本史上屈指の大政治家である源頼朝は誕生していなかったでしょう。

康信の情報提供は、頼朝の挙兵時にも大いに役立ちました。

以仁王の挙兵を鎮圧した平清盛は、以仁王が諸国の源氏に打倒平家の令旨を送っていたことを知り、各地の源氏追討を決断します。

以仁王

この情報を手に入れた康信は、頼朝のもとにいち早く知らせ、何もしなくても追討されるだけと悟った頼朝は、打倒平家を掲げて挙兵し、伊豆国目代の山木兼隆の屋敷を襲撃するに至りました。

康信の連絡により機先を制することのできた頼朝は、石橋山の戦いでの敗戦を経験しながらも勢力を拡大し、東国に一大政権を築くこととなるのです。

問注所の執事として幕府の裁判制度を確立

鶴岡八幡宮

三善康信は、頼朝の挙兵以降も、京都の情勢を逐一頼朝に送っていました。

その間にも頼朝は、富士川の戦いで平家の大軍を破り、京都に先に進軍していた木曽義仲との対決も制するなど、源氏の棟梁としての地位を不動にします。

朝廷からも東国の支配権を認められた頼朝は、後の鎌倉幕府につながる統治機構の整備に乗り出しました。

政治全般を司る公文所の長官には京都から大江広元が招かれ、裁判事務を行う問注所の執事には三善康信が京都から招かれます。

大江広元

康信は頼朝が木曽義仲を破った直後に京都から鎌倉に招かれ、頼朝から鶴岡八幡宮にて直々に鎌倉に住んで武家政権の確立に手を貸してほしいと依頼されました。

康信にとっても、長年支援してきた頼朝が東国で立派に武家の棟梁として活躍する姿を見て万感の思いがあったでしょう。

当時の武士たちは大小様々の所領争いを抱えており、頼朝は武家の棟梁としてこれらの争いを収める役割を期待されており、円滑に裁判事務を行うことは鎌倉幕府の至上命題となっていました。

当初の裁判は、基本的には将軍である頼朝自らが決断を下しており、問注所は持ち込まれた訴訟を整理し、頼朝に伝達する役割を担っていました。

そのため、創設当時の問注所は頼朝の邸宅内に設けられたのですが、訴訟の数があまりにも多く、問注所の役人たちが毎日訴訟について討議する声をうるさく思った頼朝によって移転させられています。

やがて、頼朝が亡くなり、2代将軍に源頼家がつくと、頼家は将軍権力を強化しようと独裁性を強めていくこととなります。

源頼家

裁判事務についても、頼朝時代の末期には、将軍の手から離れつつあったものを頼家は自分が取り扱おうとしますが、当然大量の訴訟を一手に処理することはできず、御家人たちは不満を募らせることとなりました。

こうした頼家の独裁を抑えるために13人の合議制が発足し、康信も文官としてこの合議制に参加します。

13人の合議制は早々に瓦解してしまいますが、その後も、康信は幕府の文官のトップとして大江広元とともに幕府で重きをなし、承久の乱では広元とともに北条義時を支え、即時出兵を主張し、幕府軍の勝利に貢献しています。

康信は承久の乱で幕府が勝利し、幕府が安泰であることを見届け、乱の翌年に81歳で生涯を閉じました。

康信が心血を注いだ問注所は、その後も増加する訴訟事案をさばききれなくなり、1250年には御家人の所領争いを専門に取り扱う引付衆が新設され、問注所は民事訴訟を取り扱うといった分業制となり、引き続き幕府政治の根幹を支えていくこととなりました。

三善康信の子孫のその後 問注所を名字に九州で活躍する

大友能直

三善康信には3人の男子がいました。

そのうち、長男の三善康俊は、父の康信の跡を継いで、康信の生前から問注所の執事を務めています。

康俊の子の三善康持も問注所の執事を務め、13人の合議制の後身の組織とされ、幕府の政治全般を担当した評定衆にも名を連ねるなど、幕府政治に深く関与しました。

しかし、北条氏内部の主導権争いに端を発し、京都より迎えられた将軍であった九条頼経が反北条派と手を組んだ挙げ句、追放された宮騒動で、康持は反北条派に与してしまい、幕府の政治の中枢からは外れてしまいました。

九条頼経

康持の家系は、引き続き幕府に仕えた町野氏と、豊後国の大友氏に従って九州に行った問註所氏に分かれていきます。

康持の子の町野政康、宗康の兄弟は、鎌倉幕府の京都出先機関である六波羅探題で、主に西国の政治を担当する評定衆を務めています。

鎌倉幕府の滅亡に際して、六波羅探題は足利尊氏に攻め滅ぼされてしまいますが、町野氏は町野宗康の系統が後醍醐天皇の雑訴決断所に出仕し、室町幕府の評定衆にも名を連ねるなど、その命脈を保ち続けました。

花の御所

また、町野政康の家系は、室町幕府の関東出先機関である鎌倉公方に仕え、子孫は古河公方の筆頭重臣として、足利家に仕え続けています。

この町野氏の一族からは、戦国時代に会津若松城の城主となった蒲生氏郷に仕えた町野繁仍や、幕末の会津藩士、町野重安が末裔としているといわれています。

町野重安は、町野主水として会津戦争で活躍し、戦後は会津若松の復興に尽力し、会津若松城を陸軍から買い取り保存に貢献するなど、会津若松の発展に尽くしました。

会津若松城

一方、三善康俊は、九州にも所領を持っており、源頼朝の隠し子であるともいわれる大友能直の後見としても活動していました。

大友氏に仕える立場を、康俊の孫の康行が継承し、問註所康行と名乗り、九州に土着しました。

問註所氏は、三善康信の家系であることから家格も高く、室町時代には足利将軍家から偏諱を賜っていましたが、次第に大友氏の偏諱を賜るようになるなど、戦国時代にかけて大友氏の家臣としての立場を強くしていきます。

戦国時代の当主である問註所宗景は、筑後国の大友氏の勢力の中心となりました。

耳川の戦いで大友宗麟が大敗北を喫し、龍造寺氏や島津氏が筑後国に攻め寄せ、大友配下の勢力が次々と寝返る中、筑後国で孤軍奮闘し、大友氏の勢力を守り続ける活躍を見せています。

大友宗麟

しかし、大友氏は朝鮮出兵の不手際で豊臣秀吉によって改易されてしまい、問註所氏は小早川隆景に新たに仕えますが、宗景も朝鮮出兵で討死してしまい、跡を継いだ問註所政連は、流浪の末、かつて同じ大友家臣であった立花宗茂に仕えました。

立花宗茂が関ヶ原の戦いで改易された後は、熊本の加藤清正に仕えますが、立花宗茂が旧領の柳川に復帰すると、立花家に戻り、子孫は柳川藩士として幕末まで続くこととなりました。

三善康信の3男である三善康連は、兄の三善康俊の家系が問注所の執事の職を罷免されたのち、執事の職を継ぎ、以降は康連の家系が問注所執事の職を代々継いでいくこととなります。

康連の家系は所領であった備後国の太田の地を名字とし、康連の孫の太田時連は、吾妻鏡の主要な編者の1人として、鎌倉時代の歴史を後世に伝える役割を果たしています。

時連は、鎌倉幕府滅亡後は足利尊氏に仕え、室町幕府でも問注所の執事を務めました。

しかし、時連の孫の太田顕行は、足利尊氏と足利直義の兄弟争いである観応の擾乱で直義側についたため、問注所執事の職を失い、鎌倉公方のもとへ身を寄せ、以降は京都と鎌倉の勢力の間を行ったり来たりする形になりました。

足利直義

そのうち、6代将軍の足利義教の代に、太田氏は義教と対立し、鎌倉公方であった足利持氏のもとへ落ち延び、これを契機に両者は対立し、のちに幕府と鎌倉公方の全面対決である永享の乱へとつながっていくことになります。

一方の太田氏は、太田時直の代に中国地方に本拠地を移し、椙杜氏と名を変え、毛利氏に仕え、江戸時代には長州藩の支藩である長府藩の筆頭家老の地位に上り詰めています。

このように、三善康信の子孫は、各地に散っていったものの、代々伝わる文官としての実務能力をふんだんに発揮し、鎌倉時代以降も生き残っていくこととなったのです。

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