偉人解説

平知康の生涯 蹴鞠の腕で生き残った後白河法皇と源頼家の側近

後白河法皇

こんにちは!レキショックです!

今回は、かつては後白河法皇に仕え、源頼家の蹴鞠の師匠としても活躍した平知康について紹介します。

鼓判官の名で知られた平知康は、後白河法皇の側近として、木曽義仲源義経と渡り合い、最終的には鎌倉に流れ着き、源頼朝、源頼家親子に仕えることとなりました。

本来ならば歴史の波に飲まれて消えてしまうはずですが、その蹴鞠の腕を買われて、頼家の蹴鞠の師匠となり、幕府に仕えるという第二の道を歩むことになります。

この当時、後白河法皇が天皇としては初めて、鞠場を用いた現代に伝わる形式の蹴鞠をするなど、蹴鞠は文化として大幅な発展を見せており、それゆえに頼朝も、朝廷とのつながりの一環として、蹴鞠の才能がある知康を厚遇することになったのです。

今回は、後白河法皇、源頼家の側近としての平知康の生涯、鎌倉時代に蹴鞠が果たした役割について紹介します。

木曽義仲と戦うも大敗北 後白河法皇の側近としての知康

木曽義仲

平知康は、院の親衛隊である北面の武士として活動していた平知親の子として生まれました。

平清盛ら平家一門とは直接の血の繋がりはなく、都にたくさんいる平氏の血を引く武士の1人でしかありませんでした。

知康も、父と同じく、当初は北面の武士として、後白河法皇に仕えることとなります。

しかし知康は、蹴鞠や鼓など芸達者であったことから、文化人であった後白河法皇に気に入られ、その側近として出世することになりました。

後白河法皇は、今様などの遊びに熱中し、毎日音楽の遊びをしており、鼓の名手であった知康も、音楽がきっかけで後白河法皇の側に仕えることとなったのでしょう。

後白河法皇は、歴代天皇で初めて、鞠場を用いた現代に伝わる形式の蹴鞠をした人物とも伝わり、蹴鞠も音楽もできる知康は、後白河法皇にとってお気に入りの側近となりました。

やがて後白河法皇は、平清盛と対立し、鹿ヶ谷の陰謀、治承三年の政変などで後白河法皇の側近たちは次々と処分されていってしまいます。

平清盛

しかし、清盛の処罰対象には知康の名はなく、この頃の知康は、芸事でのみ後白河法皇に気に入られ、政治面ではあまり関わりがなかったと考えられ、平家にも目をつけられることはありませんでした。

そして、平家によって後白河法皇の近臣たちが処罰されていってしまったことから、なし崩し的に知康が有力な側近となり、平家と協調しながら、幽閉された後白河法皇のもとに引き続き仕えることになります。

そのせいもあって知康は、源頼朝や木曽義仲らが挙兵した際には、平家一門と並んで討伐対象に指定されてしまっています。

しかし、実態としてはただの法皇の側近であったため、木曽義仲が倶利伽羅峠の戦いで平家を破り、平家一門が都落ちしても従わず、京都で後白河法皇に仕え続けます。

倶利伽羅峠の戦い

知康は法皇の最側近として、義仲への使者もたびたび務めていますが、義仲は知康をかつては敵視していたこともあり、関係は良好ではありませんでした。

知康は当時、都の治安維持を担当する検非違使を務めており、義仲の兵が食糧不足から都で乱暴狼藉をするのを取り締まるように義仲に求めたところ、「おまえが鼓判官と呼ばれるのは、たくさんの人に打たれたからか、張られたからか」と罵倒されたといいます。

こうした因縁もあり、後白河法皇と義仲の関係も悪くなっていたことから、知康は法皇に義仲討伐を進言し、兵を集めて法住寺合戦が始まります。

後白河法皇は義仲に対し、都から退去することを求めましたが、義仲はこれに怒り、法皇のいる法住寺を襲撃しました。

一応は武士でもあった知康は、法皇側の大将として合戦の指揮を執りますが、力の差は歴然で、あっけなく義仲軍に敗れてしまいます。

後白河法皇は義仲によって幽閉され、義仲に歯向かった知康は解官されてしまいますが、やがて義仲討伐のために源頼朝の大軍が上洛し、知康は窮地を脱することになります。

弁明のために鎌倉に行ったら17年も滞在してしまう 平家滅亡後の知康

源頼家

後白河法皇の要請に従って鎌倉からやってきた源義経、範頼率いる大軍は、宇治川の戦いなどで義仲軍を破り、京都へ入りました。

義仲は粟津の戦いで討死し、幽閉されていた後白河法皇は救出され、知康ももとの検非違使の地位に復帰することができました。

これ以降、知康は、新たに都の治安維持を担当することになった源義経との関わりが多くなっていきます。

義経は、平家追討の最中でありながら、後白河法皇に検非違使に任じられるなど、のちの頼朝との不和の原因をこの時に作ってしまいますが、これらの仲介をしたのも、側近であった知康であると考えられます。

源義経

都の治安維持を通して利害の一致する知康と義経の蜜月関係は変わらず、義経が壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼして京都に帰還した後も、知康は側近として義経と後白河法皇の間を取り持つ立場にありました。

しかし、義経が頼朝と対立すると、義経は後白河法皇に対し、頼朝追討の宣旨を要求し、知康は法皇の側近としてこれらのやり取りにおいて主導的な役割を担ってしまいます。

そして義経が挙兵に失敗し逃亡すると、後白河法皇は今度は逆に義経追討の宣旨を頼朝に出し、知康は義経に与していたとして解官されてしまいます。

知康としても、あくまでも後白河法皇の意志に従って、義経に便宜を図っていたので、頼朝に歯向かう意志はないことを示すために、鎌倉へ下り、直接頼朝に弁明を試みました。

この時に知康は、蹴鞠や和歌など、その卓越した文化スキルを頼朝に気に入られたのか、鎌倉に留め置かれ、以後17年にわたって鎌倉に滞在することになります。

源頼朝

頼朝としても、後白河法皇と渡り合っていくためには、長年法皇のもとで仕えていた知康を手元に置いておくことは有効な一手だと考えていたのでしょう。

知康は、一般的には頼家の蹴鞠の師匠として鎌倉に留め置かれたといわれていますが、知康が鎌倉に来た頃には、頼家はまだ4歳で蹴鞠をできる年齢にはなく、当時の鎌倉にはまだ少なかった、京都の文化に精通した人物として、頼朝に使われていたと考えられます。

やがて頼家が成長すると、蹴鞠をはじめ、京都の文化を伝授する家庭教師のような役割を担うようになり、頼家の側近として第二の人生を歩むことになりました。

当時は、後鳥羽上皇をはじめ、京都の貴族たちはこぞって蹴鞠を愛好しており、頼家も鎌倉を文化面で盛り上げるために、頻繁に蹴鞠の会を開催しており、知康は蹴鞠の第一人者として、頼家の文化面を支えることとなります。

後鳥羽上皇

頼家たちの蹴鞠のために、自分の着ている服で濡れた地面を拭き取ったとの逸話も持つほど、献身的に頼家に仕えていた知康は、北条時房の改名のきっかけも作っています。

蹴鞠後の宴会で、酔っ払った知康は、当時は北条時連と名乗っていた時房に対し、「あなたは見た目も立ち居振る舞いも、群を抜いて素晴らしいが、時連の連の字は、銭を貫くという意味で卑しいから変えたほうがいい」と時房に訴え、知康の訴えを聞いた時房はすぐに改名したというエピソードが残されています。

こうして、頼家の側近として活躍していた知康でしたが、主君の頼家は、政治面では、北条氏ら宿老たちと対立を深め、やがて比企能員の変をきっかけに将軍の座を追われ、最終的には伊豆の修善寺に幽閉されてしまいます。

この時に、頼家の側近たちは、比企能員に連座したとしてことごとく失脚させられており、知康も鎌倉での居場所を失い、17年ぶりに京都へ帰ることとなりました。

しかしこの頃には、後白河法皇丹後局など、知康が京都にいた頃の権力者たちは、すでに第一線から去っており、京都にも知康の居場所はなく、その後の動向ははっきりしていません。

やがて、知康が仕えていた頼家も暗殺され、鎌倉での復帰の可能性もなくなり、後白河法皇の側近として、平家、木曽義仲、源義経らと渡り合ってきた知康の激動の生涯は、ここに幕を閉じることとなりました。

なぜ蹴鞠は重要視されたのか 京都と鎌倉をつなぐ重要な共通文化としての蹴鞠

蹴鞠の様子

平知康が歴史の表舞台に再登場するきっかけとなった蹴鞠は、和歌とともに、当時の日本を代表する文化の一つでした。

蹴鞠は、プレーヤー8人が円になって、鞠を落とさずに蹴りあった回数を競うもので、平安時代から貴族の遊びとして広まっていました。

ただの貴族の遊びの一つであったのが、後白河法皇が天皇としては初めて自らプレーしたことで、遊びから晴れがましい儀式としての芸能に引き上げられ、和歌と並ぶ幽玄の道と呼ばれるようになります。
(正式には天智天皇が初だが、現代に伝わる形式での蹴鞠は後白河法皇が初)

後白河法皇の孫にあたる後鳥羽上皇も蹴鞠を愛し、3代将軍源実朝の代には、後鳥羽上皇を中心とした京都とのつながりを持つための共通文化の一つとして、蹴鞠は重要視されるようになります。

源実朝

さしずめ、現代でいうところの、ゴルフを通じたビジネスのつながりといったところでしょう。

また、この頃の鎌倉でも、頼家だけが蹴鞠に熱中していたわけではなく、有力御家人たちの間でも、自身はプレーしないながらも、邸宅に蹴鞠の設備を整えるなど、京都の文化への対応はしていました。

頼家も、和田義盛比企能員大江広元の屋敷で蹴鞠の会を開催したとの記録が残っています。

御家人たちも京都の朝廷とは無縁ではなく、一族の中から京都滞在要員を出し、京都とのつながりを持つようになっており、だからこそ、こぞって京都の文化を吸収しようとしていました。

この頃の京都と鎌倉は対立していたわけではなく、むしろ鎌倉の目は常に京都に向いていたといえます。

こういった世の中だからこそ、鎌倉殿である頼家は、先頭を切って京都の文化を吸収し、東国における文化の第一人者になる必要があり、それゆえこれほど蹴鞠に熱中し、側近にも蹴鞠の達人を多数置くようになりました。

もっとも、蹴鞠をただの遊びとし、武芸をないがしろにして遊びにふけっているという批判は当時から一部の武士たちの間ではあり、吾妻鏡にもそういった陰口が記録されています。

ただし、朝廷とのつながりは、幕府にとって、権威、権力の源泉となっており、京都の公家社会とのつながりこそが、幕府の権力基盤にも関わっていました。

源頼家も、蹴鞠の達人である紀行景を後鳥羽上皇の許しを得て、鎌倉に派遣してもらっており、蹴鞠は鎌倉と京都をつなぐ一つの手段となっていたことがわかります。

蹴鞠が政治と密接に関わった例としては、北条時房が、後年、源実朝が暗殺され、皇族将軍を迎える交渉のために京都に向かった際に、蹴鞠を通じて後鳥羽上皇の信頼を得て、交渉の足がかりにしたエピソードがあります。

北条時房

そんな時代だからこそ、平知康は源頼朝にとって、これからの武家政権の発展のために重要な人物となり、蹴鞠の達人として鎌倉幕府内で居場所を確保することになったのです。

¥1,210 (2022/06/12 20:51時点 | Amazon調べ)
ABOUT ME
RekiShock レキショック
教科書には載っていない「そうなんだ!」と思わず言ってしまう歴史の話を発信する日本史情報サイトです。 YouTubeでは「大名家のその後」「大河ドラマ解説」 Twitterでは「今日はなんの日」「明治、大正時代の日本の風景」を発信しています。 Twitterフォロワー34,000人 YouTube登録者24,000人
こちらの記事もおすすめ!

コメントを残す