偉人解説

日本と満州国の友好のために翻弄された流転の夫婦 愛新覚羅溥傑 嵯峨浩

突然ですが皆さん、

『ラストエンペラー』という映画をご存知ですか?

この映画は清朝最後の皇帝で、後に満州国皇帝になった、愛新覚羅溥儀(あいしんかぐら・ふぎ)の生涯を描いた歴史映画です。

復辟時の溥儀(Wikipediaより引用)

こちらは知っている方が多そうですね。

では、この愛新覚羅溥儀がいたことはご存知ですか?

名前は「愛新覚羅溥傑(あいしんかぐらふけつ)

実は彼、兄以上に日本に深く関係した人物だったのです。

どういうことでしょうか…?

それではさっそく参りましょう!

愛新覚羅溥傑とその妻・嵯峨浩(さがひろ)

婚礼時の溥傑と浩(Wikipediaより引用)

結論から言いますと、愛新覚羅溥傑が日本に関係する理由、

それは彼の妻が日本人だったからです!

名前は「嵯峨浩」といい、侯爵嵯峨家の長女でした。

祖母が明治天皇の母方の従兄弟という皇室との縁もあって、

満州国皇帝溥儀の弟、溥傑の縁談相手として白羽の矢がたったのです。

この結婚はいわゆる「政略結婚」でした。

日本と満州国との関係強化を目論む関東軍による画策で、ほぼ強制的な結婚だったようです。

当時の浩はまだ22歳で、

「死んだつもりで結婚した」

「もっと平凡な結婚がしたかった」

と吐露しており、この政略的な結婚に消極的だった様子がうかがえます。

結婚式は東京軍人会館(現九段会館)で行われ、その後の夫婦は満州国の首都新京に住むことになりました。

夫婦仲は良好、しかし突然の流転の日々

長女慧生を囲む一家(Wikipediaより引用)

望まない結婚であったものの、夫婦関係は円満だったようです。

長女の慧生、次女の嫮生と2人の女の子にも恵まれ、幸せな時間を過ごしていました。

しかし、そんな安泰な日々も長くは続かず、日本の敗戦とともに満州国の関係者も大変な日々を送ることになります。

終戦後すぐ、愛新覚羅溥儀・溥傑の兄弟は日本へ亡命するために共に飛行機に乗り、一方の浩は陸路で朝鮮に向かい、そこから海路で日本への帰国を試みました。

しかし、溥傑は途中でソ連軍に捕まったため、浩は溥傑と合流できず、あちらこちらへ逃亡を余儀なくされます。

1946年、浩は中国共産党軍に捕らえられてしまい、長春・吉林・延吉などを転々とし、拘束されてから約半年後にようやく釈放されました。

その後、浩は日本への引揚船に乗って帰国しようとしたものの、今度は国民党軍に身柄を拘束されてしまいます

国民党軍によって北京・上海へと身柄を移されましたが、上海の拘束場所で元日本軍の田中徹雄大尉に助けられ、最後の引揚船に乗ることができ、1947年にようやく日本に帰国できました。

浩が帰国できた一方で、夫の溥傑はまだ中国の労働改造所に収容されており、長い間連絡を取ることさえできませんでした。

帰国した浩は父が経営する町田学園の書道講師として生計を立てながら、2人の娘を育てました。

1954年には長女の慧生が中国共産党の周恩来に「父に会いたい」と手紙を送ったことで、溥傑と浩らは手紙で連絡を取りあえるようになります。

周恩来

一方で、1957年には学習院大学在学中の慧生が、交際していた同級生、大久保武道とピストル自殺する天城山心中が起こり、長女を失うという悲劇にも見舞われています。

そんな中、1960年にようやく溥傑は開放され、1961年、中国を訪れた浩はようやく溥傑と再会を果たすことができました。

離れ離れになってから16年の歳月が流れていました。

1938年、愛新覚羅溥傑と嵯峨浩(Wikipediaより引用)

再会 その後の生活

紅衛兵の歓呼に答礼する毛沢東(Wikipediaより引用)

再会後、浩は溥傑と共に北京に住むことになります。

しかし、その平和な生活は続かず、文化大革命により自宅が襲われるという悲劇に見舞われています。

自宅の襲撃後も危険と隣合わせの日々を送っていましたが、文化大革命が下火になるとようやく生活も安定し、浩は1974年・1980年・1982年・1983年・1984年の5回にわたり、日本に里帰りしていました。

そして、1987年6月20日、73歳でその人生に幕を降ろしたのです。

自伝のタイトルにもなった「流転の王妃」という言葉そのものの波乱万丈の人生でした。

浩の遺骨は、山口県下関市の中山神社の境内に建てられた摂社愛新覚羅社に納骨されています。

溥傑は、浩の死から7年後の1994年にその生涯を閉じました。

中国では、結婚しても姓が変わらないので、本来「嵯峨」浩のままでよかったのですが、

わざわざ「愛新覚羅」浩と最後まで名乗ったことから、この戦略結婚への決意とそれを上回る溥傑への愛を感じることができるのではないでしょうか?

私たちは、政略結婚と聞くと悪いイメージを持ちがちです。

浩の場合、波乱万丈の人生でしたが、溥傑から愛され子宝にも恵まれました。

ほとんど日本史上にあがることのない嵯峨浩ですが、実は日本と清(満州国、中国)との架け橋として重要な役割を果たしていたのです。

日中友好の架け橋として

二人の出会いについて、このような文献があります。

記事冒頭で、この政略結婚に対する浩の諦め具合を紹介しましたが、実際、溥傑に初めて会ったときの印象は

「整ったお顔立ちに眼鏡の奥からのぞく聡明な眼差しが印象的でした。私はうれしい驚きに包まれていました。」

とのことです。(自伝より)

まんざらではなかったようですね。

一方、溥傑の方も浩に対して

「おっとりして美しく淑やかな感じを受けた。写真で見たよりもさらにあでやかで心ひかれた。」

と自伝で述べており、最初から相思相愛の仲だったようですね。

浩は、婚礼の列に歓喜する国民を見て、日本と満州国の架け橋として生きることを決意したようです。

とはいっても、浩の義理の兄にあたる皇帝・溥儀は、浩を「スパイなのではないか?」と常に疑っていたので、自由な行動は許されず、出かけるときは必ず見張りがつくという監視下に置かれていたため、日満親善の理想とはかけ離れた現実でした。

Puyi-Manchukuo.jpg
溥儀(Wikipediaより引用)

それでも、浩を溥傑が支え続け、多くのしがらみの中でも二人の絆は深いものとなっていきました。

溥傑も優しい心を持ち合わせており、非常に家族想いの人物でした。

子煩悩な父親でもあり、一家4人で過ごす時間は楽しくささやかながらも幸せな生活だったようです。

まとめ

政略結婚という望まない形で「日満の架け橋」を背負うことになった嵯峨浩。

最初は非常に苦しいものだったでしょう。

しかし、この中でも強く生き、夫である溥傑を献身的に支えました。

さらに、最後まで、「愛新覚羅」という姓を名乗り続けた浩は十分、

「日満の架け橋」を体現したといってもよいのではないでしょうか。

日本史上、嵯峨浩に焦点が当たる事はほとんどありませんが、

「こんな強い女性が、日本にいたんだな」

と、少しでも思っていただけたら幸いです。

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