こんにちは、レキショックです!
日本史クイズを全7問用意しました!
皆さん、満点目指して頑張りましょう!
【問1】
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という冒頭で始まる、鎌倉時代に成立したとされる軍記物語は何?
間違っています!
正解です!
A.平家物語
鎌倉時代に成立した軍記物語の一つで、平安時代に武家貴族として頭角を現した平家の栄枯盛衰が描かれています。
ちなみに、問題文の続きは
「娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」
です。
ちなみに、問題文の続きは
「娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」
です。
【問2】
1888年に流行した「オッペケペー節」を作り、また民権思想を鼓舞するために壮士芝居を創始したのは誰?
間違っています!
正解です!
A.川上音二郎
政治的意見を表明すれば、すぐに弾圧される明治時代。
そんな時代に音二郎は、言いたいことをオッペケペーの歌詞の中で歌い上げ、不満を抱えていた民衆から大いに支持されました。
その代償といってよいのか、音二郎は政治批判で十数回入獄しています。
そんな時代に音二郎は、言いたいことをオッペケペーの歌詞の中で歌い上げ、不満を抱えていた民衆から大いに支持されました。
その代償といってよいのか、音二郎は政治批判で十数回入獄しています。
【問3】
六歌仙のうち、唯一の女性は誰?
間違っています!
正解です!
A.小野小町
他の六歌仙は、僧正遍昭・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・大友黒主です。
小野小町は絶世の美女として数々の逸話がありますが、当時の小野小町像は現存せず、後世に描かれた絵でも後姿が大半を占め、素顔が描かれていない事が多いです。
小野小町は絶世の美女として数々の逸話がありますが、当時の小野小町像は現存せず、後世に描かれた絵でも後姿が大半を占め、素顔が描かれていない事が多いです。
【問4】
玄洋社系の国家主義者である杉山茂丸を父に持ち、著書として日本探偵小説三大奇書の1つに数えられる『ドグラ・マグラ』が有名な作家は誰?
間違っています!
正解です!
A.夢野久作
「ドグラ・マグラ」は夢野久作が10年以上の歳月をかけて構想・執筆した作品で、「読破した人は精神に異常を来たす」という触れ込みで有名です。
「ドグラ・マグラ」という言葉の意味は、作中では「切支丹バテレンの呪術を指す長崎地方の方言」や「戸惑う、面食らう」や「堂廻り、目くらみ」がなまったものとも説明されていますが、詳細は不明です。
「ドグラ・マグラ」という言葉の意味は、作中では「切支丹バテレンの呪術を指す長崎地方の方言」や「戸惑う、面食らう」や「堂廻り、目くらみ」がなまったものとも説明されていますが、詳細は不明です。
【問5】
『グスコーブドリの伝記』や『どんぐりと山猫』などの作品を生み出した、岩手県出身の作家は誰?
間違っています!
正解です!
A.宮沢賢治
『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』童話集『注文の多い料理店』などを生み出した日本の童話作家で、郷里の岩手県をモチーフとしてイーハトーブ(理想郷を指す造語)と名付けたことでも有名です。
ほとんど作品が生前には一般に知られておらず、没後に作品が世に知られ広まりました。
作家の他に教師、科学者、宗教家など多岐に活躍しましたが、37歳の若さで亡くなりました。
ほとんど作品が生前には一般に知られておらず、没後に作品が世に知られ広まりました。
作家の他に教師、科学者、宗教家など多岐に活躍しましたが、37歳の若さで亡くなりました。
【問6】
GHQの 経済顧問であるジョセフ・ドッジによって立案されたドッジラインにおいて単一為替レートが設定されたが、その当時の固定レートは?
間違っています!
正解です!
A.360円
敗戦直後の日本は、大量の紙幣流通+物資の不足によるインフレの状態で、経済的に混乱していました。
ドッジはそんな日本の経済を立て直すために来日し、その政策の一つが単一為替レートの設定でした。
ドッジが来日した当時、すでに米ソ間で冷戦が始まっており、日本を経済的に復興させ、東アジアでの西側勢力の強化を図る必要がありました。
1ドル360円という設定も、大幅な円安にすることで輸出力を高め、日本の経済復興を早める意図がありました。
ドッジはそんな日本の経済を立て直すために来日し、その政策の一つが単一為替レートの設定でした。
ドッジが来日した当時、すでに米ソ間で冷戦が始まっており、日本を経済的に復興させ、東アジアでの西側勢力の強化を図る必要がありました。
1ドル360円という設定も、大幅な円安にすることで輸出力を高め、日本の経済復興を早める意図がありました。
【問7】
第2代内閣総理大臣の黒田清隆が、大日本帝国憲法公布の翌日に行った、いわゆる「超然主義演説」は、どこで行われた?
間違っています!
正解です!
A.鹿鳴館
1883年、井上馨が進めた欧化政策の一環として建設された西洋館が「鹿鳴館」です。
主に国賓や外国の外交官を接待するなど、西欧諸国との社交場として使用されました。
「政党や国民の意見に左右されず、政治を行う」といういわゆる超然主義演説を、黒田清隆がこの鹿鳴館で行いました。
次回もお楽しみに!
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