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北条泰時の生涯 身内 御家人に反発され、安泰ではなかった得宗家の苦難の歴史

北条泰時

こんにちは!レキショックです!

今回は、執権として幕府の全盛期を築いた北条泰時の生涯について紹介します。

御成敗式目を制定し、武家政権の基礎を固めた日本史上でも特筆すべき人物ですが、その背景には、北条氏は幕府の正当な支配者ではないゆえに、生き残りをかけて良い政治をする必要がありました。

また、泰時自身も、母の出自が低く、正統な後継者でないゆえに、弟たちに遠慮しなければならなかったという複雑な事情を抱えていました。

そんな背景があったからこそ、武勇第一の武士たちのなかで、法令をもとに社会を統治し、800年にわたり続く武士による政権の土台となる御成敗式目を作ることができたともいえます。

今回は、そんな日本屈指の大政治家、北条泰時の生涯、得宗家として幕府を支えた子孫のその後について紹介します。

頼朝にも気に入られ、北条の後継ぎとして成長する

源頼朝

北条泰時は、源頼朝が挙兵してから3年後、平家一門が木曽義仲によって都落ちさせられた頃に生まれました。

父は北条義時で、母は阿波局と伝わっていますが、出自や年齢など、詳しいことは分かっていません。

一説には、伊東祐親の娘で、源頼朝の最初の妻となった八重の子であると伝わりますが、あくまでも可能性の一つとされています。

当時は、年長者であっても、母親の身分が低ければ、年下の正妻の子が跡を継ぐのが一般的で、母の身分すら明らかになっていない泰時は、本来ならば義時の後継ぎとはなりえない存在でした。

ただし、正妻、姫の前の子、北条朝時が生まれるのは、泰時が生まれてから10年後のことであり、泰時は義時の唯一の子として、大事に育てられました。

北条朝時

源頼朝にも可愛がられ、元服の際には、頼朝自身が烏帽子親を務め、頼朝から一字もらい、当初は北条頼時と名乗っていました。

泰時は10歳の頃に、自分の前で御家人が下馬の礼をしなかったことで、頼朝がその御家人を咎めた際に、御家人を頼朝からかばったというエピソードが残されています。

本来ならば、幕府内でも有力な地位を占める北条家の跡取りとして、多少傲慢な態度を見せても良いものですが、正統な後継者たりえない泰時の出自が、泰時に控えめな態度をとらせる要因となったのでしょう。

また、元服の際には、三浦義村の娘の矢部禅尼との婚約が頼朝の命令によって決められており、頼朝の死から3年後に正妻に迎え、翌年には嫡男の北条時氏が生まれています。

北条時氏

頼朝の死の直後であるこの頃、理由は不明ですが、頼朝からもらった頼時の名を捨て、泰時に改名しています。

泰時は、北条一門として、御家人間の争いに身を投じ、比企能員の変和田合戦などに参陣し、特に和田合戦では北条軍の主力として活躍しています。

こうした活躍もあり、北条の後継者として認められ、和田合戦の5年後には、義時の跡を継いで侍所の別当に任じられています。

一方、弟で、正妻の姫の前の子であった北条朝時は、3代将軍源実朝の妻の女官に手を出したことで実朝の怒りを買い、義時によって義絶されていました。

源実朝

姫の前の実家の比企氏も北条氏によって滅ぼされており、本来ならば嫡流となりうる朝時を優遇する必要がなくなり、実績も十分な泰時が、母の出自は低いながらも、義時の後継ぎとされたのかもしれません。

泰時は、承久の乱でも幕府軍の総大将として上洛し、朝廷軍を破る活躍を見せています。

この時泰時は、軍勢が十分に集まってから出陣することを主張しましたが、大江広元らが団結が崩れる前に即時出兵することを主張し、泰時は僅かな兵で出陣したところ、御家人たちは次々と集まったため、のちに自分の考えを恥じたといいます。

乱後は、同じく上洛した叔父の北条時房とともに六波羅探題として朝廷の監視、西国の統治にあたり、北条義時の後継者としての地位を確立させていきます。

執権就任後の泰時 御成敗式目を制定し、武家政治を確立する

北条政村

承久の乱から3年後に北条義時が亡くなると、義時の3番目の妻である伊賀の方が、実子の北条政村を北条氏の跡継ぎにしようとした伊賀氏の変が起こりました。

正妻であった姫の前もすでに他界しており、後妻である伊賀の方の権力も強いものでしたが、北条政子や大江広元はこれに反対し、伊賀の方は謀反人とされ処罰され、泰時の執権就任が確定します。

これには、伊賀の方は政村擁立を考えておらず、伊賀の方や実家の伊賀光宗らの勢力伸長、および自身の権力低下を恐れた北条政子が謀反をでっち上げたとする説もあります。

事実、泰時はのちに政子が亡くなると、伊賀氏一族を赦免しており、三浦義村など企みにのったとされる御家人たちも不問に付しています。

また、泰時は、北条義時の遺領配分でも、北条朝時など弟たちに大部分を譲り、自身は執権であるからと、ほとんど取りませんでした。

これにも政子は激しく反発し、泰時が力で弟たちを制御すべきだと主張しましたが、泰時は丁重に辞退したといいます。

伊賀氏への対応や弟たちへの配慮は、母親の身分が低く、本来ならば跡継ぎにならない自分の出自の低さ、政治基盤の弱さから遠慮せざるを得なかったからとされています。

しかし、義時が亡くなってから1年後に北条政子も亡くなり、大江広元も同時期に亡くなると、いよいよ泰時は幕政の中心に立つことになります。

泰時は、北条義時の弟で、ともに六波羅探題を務めていた叔父の北条時房を鎌倉へ呼び戻し、連署に就任させ、両執権体制で政治にあたりました。

北条時房

泰時と時房の関係は良好で、ともに手を取り合って政治に対処していましたが、内実としては、時房も権力拡大を狙っており、泰時も時房の勢力伸長を警戒するなど、複雑な関係にありました。

また、泰時は、かつての13人の合議制を踏襲した評定衆を新設します。

評定衆は、三浦義村ら有力御家人、および実務官僚など計11人が選ばれ、これに泰時、時房の2名の執権を加えた13人の評定会議が、4代将軍となった九条頼経のもと、幕府の意思決定機関として機能していくことになります。

九条頼経

この13人の評定会議は、後年、得宗家の専制体制が確立すると形骸化してしまいますが、鎌倉幕府滅亡まで続き、幕府の土台となりました。

こうして、幕府の制度を固めた泰時は、各地で頻発する領地問題などの紛争を調停するための法典の制定に取り掛かります。

これまでの裁判は、主に源頼朝以来の先例に従って判断が下されていましたが、頼朝の死後40年近くが経過しており、社会情勢も変化していたことから、武士社会の基本となる統一的な法典が必要となっていました。

こうしてできた御成敗式目は、武士に分かりやすい文体で作られ、京都の公家も含めて、全員に公平な内容であったことから、鎌倉時代以降も、室町幕府の法令、戦国大名の分国法も御成敗式目をもとにされるほどでした。

こうして、800年近くにわたる武家政権の土台を作り上げた北条泰時でしたが、晩年は皇位継承問題に悩まされることになりました。

朝廷では、四条天皇の跡継ぎに、かつて承久の乱で幕府に敵対した順徳天皇の皇子、忠成王を擁立しようとしていましたが、泰時は強権をもってこの動きを潰し、後嵯峨天皇を擁立しました。

後嵯峨天皇

そして、泰時の強権的な態度に反発する朝廷を押さえつけるために、妹の竹殿が嫁いでいた土御門定通を通して、朝廷内部を統制しようとします。

しかし、朝廷問題はただでさえ執権としての激務に追われていた泰時に多大な心労を与え、ついに泰時は病に倒れてしまいます。

巷では後鳥羽上皇の祟りと噂されるほどの高熱に悩まされ、最期は赤痢も併発し、さながら平清盛の最期のようだったと伝えられるほど苦しみながら、日本屈指の大政治家は、59年の生涯を閉じることになりました。

泰時死後の北条氏 泰時の意志を継ぎ、武家政権の安定に尽くす

北条時頼

北条泰時の死後は、孫の北条経時が執権として跡を継ぎました。

泰時には実子の北条時氏がいましたが、六波羅探題などを務めるも、27歳の若さで亡くなっていました。

経時は19歳で執権に就任しますが、若年であったことから大政治家であった泰時の跡を継ぐには不十分と周囲に判断されており、北条一門内での序列逆転を防ぐために、あえて連署は置かれませんでした。

叔父の北条重時らが経時を支えますが、泰時の死後、反北条勢力が将軍の九条頼経を中心に一大勢力を築くなど、北条氏の勢力基盤も不安定で、経時は将軍を強制的に引退させるなど、強硬手段を取り、執権政治の安定を図りました。

北条経時

しかし、こうした執権の激務に若い経時は耐えきれず、わずか23歳で亡くなってしまいます。

経時の跡は、弟の北条時頼が継ぎますが、三浦泰村など有力御家人たちは時頼の執権就任を支持しておらず、北条氏は危機的状況に陥ります。

時頼は、いとこの名越光時らが前将軍の九条頼経を担ぎ上げた宮騒動を鎮圧し、得宗家による政治体制の確立に取り組みます。

さらに、反北条の御家人筆頭であった三浦泰村宝治合戦で滅ぼすなど、反北条勢力を一掃し、北条得宗家による支配体制を確立した上で、祖父、北条泰時の弟の北条重時を、北条時房以来の連署に迎え、体制強化に取り組みました。

三浦泰村

一連の反北条勢力の動きからも分かるように、北条氏はあくまでも将軍の配下の御家人たちの筆頭という立場でしかなく、血統などによる支配の正当性の主張ができない立場にありました。

そのため、北条氏は、御家人、そして民衆からの支持を得るために、皆が満足いくような政治を執り行う必要があり、歴代執権たちは、善政を行うことを必須条件とされ、必死に政治に取り組むことになります。

時頼の跡は、泰時の異母弟、北条重時の嫡男、北条長時が執権に就任し、その後は、北条義時と伊賀の方との間に生まれた北条政村が執権に就任しています。

北条時頼の嫡男、北条時宗は、時頼が引退したときはまだ5歳で、執権就任には血統よりも実力が優先されていました。

北条時宗

時宗は、7歳の若さで元服し、役職にもつくなど、早くから実績を積まされ、18歳で執権に就任します。

しかし、この頃にはモンゴル帝国から臣従を求める国書が送られ、防備体制を強化するなど、対応に追われます。

元寇に対処し、御家人たちの恩賞問題、相続問題など国内外の諸問題が山積みとなる中、過労もあったのか、時宗は32歳の若さで亡くなってしまいました。

時宗の跡は、息子の北条貞時が継ぎ、12歳の若さで執権に就任します。

北条貞時

しかし、北条一族内でも貞時への反対勢力が現れ、安達盛長の子孫で、貞時を支えた有力御家人の安達泰盛も、北条得宗家の家臣である平頼綱と対立し、霜月騒動で滅ぼされるなど、貞時を支える勢力は次々と消えてしまいます。

北条得宗家の家臣である平頼綱が幕政の中心となることは、幕府制度の中ではありえず、貞時は自身の勢力を確立するために、平頼綱を滅ぼし、自身の独裁権を確立しました。

しかし、元寇以来の所領問題で御家人たちの不満はたまり、幕府内でも北条一門が貞時に反抗するなど、次第に貞時の権力は衰え、貞時の晩年には、北条得宗家ですら、将軍と同じくお飾りの状態になってしまっていました。

貞時は早くに出家しており、息子の北条高時までのつなぎとして、貞時の従兄弟にあたる北条師時が執権に就任しますが、貞時の傀儡に過ぎず、その跡は北条熙時、北条基時と一門が継ぎますが、そのうちに北条氏の指導力も落ちていき、世の中も乱れていきます。

北条高時

やがて、北条貞時の子である得宗家の北条高時が執権に就任しますが、実権は家臣の長崎高資に握られており、高時自身も病のため、24歳の若さで引退してしまいます。

高時の跡は、北条重時の子孫にあたる赤橋流の北条守時が執権となりますが、北条高時が依然影響力を持つ中、指導力を発揮できず、後醍醐天皇の倒幕勢力に対処できないまま、幕府滅亡を迎えることになるのです。

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