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大江広元の生涯 子孫は戦国大名 毛利氏に続く!

大江広元

こんにちは!レキショックです!

今回は、文官として鎌倉幕府の成立に大きく貢献した大江広元について紹介します。

大江広元は京都の下級貴族の出身で、のちに鎌倉へ下り、政治、財政面を一手に担いました。

幕府の実質的なNo.2として辣腕を振るう広元は、頼朝死後も幕府を支え続け、子孫はやがて日本各地で活躍していくこととなります。

今回は、大江広元の生涯、戦国大名、有力豪族として活躍した子孫のその後について紹介します。

頼朝のもとで幕府の基礎固めを行う 鎌倉時代初期の広元

鶴岡八幡宮

大江広元の出自については諸説あります。

文覚に迫られ、源頼朝のために後白河法皇から平清盛追討の院宣を引き出したといわれる藤原光能の子で、母親の再婚相手であり、現在の法務官僚の役割を果たしていた明法博士の中原広季のもとで育てられたといいます。

また、歴史や漢文学を修める紀伝道の大家であった大江惟光の子で、中原広季の養子となったとする説もあります。

その関係で、当初は中原姓を名乗っており、大江姓に改めたのは、60代後半になってからのことでした。

いずれにせよ、広元は朝廷の実務官僚の家で育ったこととなります。

広元は、こうした環境の中で実務能力をつけていきました。

そして、30代になった頃、縁あって頼朝のいる鎌倉に下り、政治、財政を担う公文所のトップである別当として幕府政治に関わることとなります。

源頼朝

これは、広元の兄である中原親能が、早くから頼朝に仕えて、京都との外交交渉を担っていた縁によるものでした。

広元は、京都で培った実務能力を鎌倉で遺憾なく発揮し、荒くれ者揃いの坂東武者たちを実務面で束ねていくこととなります。

広元ら実務官僚たちが頼朝の勢力基盤の関東を固め、統治機構を整備したこともあり、安定した頼朝政権は木曽義仲、平家を次々と打ち破り、ついに壇ノ浦の戦いで悲願の平家討伐を果たします。

平家滅亡後、頼朝が従二位の位に上り、公卿の地位を得ると、広元らの公文所は政所と名称が変更されます。

もともと政所は、公卿の家政を担当する機関で、頼朝が公卿の地位に上ったことで、その統治機構を朝廷の公式的な名称に変更したということになります。

広元は引き続き政所の別当として政権の政務、財務を担いました。

平家滅亡後、頼朝は源義経捕縛のために、朝廷に対し、全国に守護、地頭を設置する許可を求めますが、これも広元が献策したとされています。

土佐坊昌俊による義経襲撃

広元は守護、地頭の設置により全国を頼朝の影響下に置くことに成功し、以降も鎌倉幕府の確立に向けて邁進していくこととなります。

幕府のNo.2として朝廷との戦いを主導する

頼朝の上洛の様子

源頼朝は、対立した弟の源義経を討伐し、奥州藤原氏も滅亡させ、ついに日本全国をその手に収めます。

広元はこの頼朝の躍進を政治面から支え、朝廷との交渉役も担うなど、頼朝と御家人たちが各地で戦う中、その陰で大きな役割を果たしていました。

この頃の広元が、他の御家人たちから抜きん出た存在であったことは、広元の官位が物語っています。

鎌倉幕府は、将軍頼朝が正二位という高い官位にある一方、弟の源範頼、舅の北条時政らでさえも従五位下という身分に抑えられており、官位では歴然とした差がありました。

他の御家人については言うまでもありません。

そんな中、広元は、頼朝のもとへ来る前から従五位下の官位を手にしており、後に正五位の官位に上り、将軍に次ぐ地位を手に入れていました。

それだけ広元の実務能力が優れており、鎌倉幕府の屋台骨を支える人物であったということでしょう。

また、頼朝は晩年になって娘の大姫を後鳥羽天皇に嫁がせようと計画しますが、ここでも広元は独自のパイプを活かして朝廷内の有力者、土御門通親と接触するなど、外交面でも陣頭に立って活躍していました。

土御門通親

こうして、幕府政治を一手に担っていた広元は、頼朝の死後も引き続き活躍し、13人の合議制のメンバーにも名を連ねます。

やがて、御家人たちの対立が激しさを増していくと、広元は北条氏と行動を共にし、争いには直接関わらず、統治機構の維持に尽力していきます。

この頃になると、息子の大江親広長井時広が、幕府の次世代として活躍していくようになります。

特に長男の親広は、執権として幕府で重きをなしていた北条義時の娘を妻とし、3代将軍源実朝の信任も得て、寺社奉行や政所の役職などを歴任しました。

北条義時

さらに親広は、かつて朝廷の実力者の源通親の猶子にもなっており、京都とのつながりも深い人物で、源実朝が暗殺され、京都と鎌倉の関係が動揺すると、京都守護にも任じられ、関係改善に取り組んでいました。

そんな中、後鳥羽上皇が北条義時打倒を目指して承久の乱を起こします。

義時が朝敵とされる中、北条政子の演説もあり、何とか御家人は一丸となっている状態でした。

そんな中、広元は他の御家人たちが箱根での迎撃を主張する中、御家人が一丸となっている今のうちに、積極的に京都へ進撃することを主張します。

息子の大江親広が上皇方につき、親子で敵味方となる中、広元は兵が集まらない中でも打って出ることが大事と強硬に主張し、幕府側を勝利に導きました。

こうして、鎌倉幕府最大の危機を乗り切った広元は、承久の乱から4年後の1225年に78歳で亡くなりました。

大江広元の子孫のその後 毛利氏をはじめ、各地で活躍した一族

毛利元就

大江広元には、著名な人物だけでも5人の子がいました。

長男の大江親広は、北条義時の娘婿として幕府内でも活躍していたものの、承久の乱で上皇側に味方し敗れ、妻とも別れ、自身の領地であった山形県の寒河江に隠棲しました。

上皇側についたものの、父の広元や、息子の大江佐房が幕府側で活躍したことから追及の手はゆるく、北条泰時による御成敗式目制定により正式に罪を赦免されます。

親広の所領の寒河江は、親広の次男高元、その弟の広時と受け継がれていきます。

また、親広の長男で、承久の乱では親広と戦った大江佐房は、信濃国の上田を領し、上田氏を名乗りますが、元寇後に行われた北条氏と有力御家人の最後の勢力争いである霜月騒動に巻き込まれて没落しています。

寒河江を領した親広の子孫も、幕府の要職を務めていたことから、鎌倉に居住していましたが、霜月騒動を機に、連座を恐れて寒河江に移住。以降、寒河江に根付くこととなりました。

寒河江の大江氏は、南北朝時代には南朝方として足利尊氏と戦い、最終的には鎌倉公方の軍に降伏。この時に寒河江氏を名乗るようになります。

その後は、伊達氏や最上氏など、東北地方の有力大名と領土争いを演じますが、最終的には、1584年に時の当主の寒河江高基最上義光に敗れ自刃、寒河江氏は400年の歴史に幕を閉じました。

最上義光

広元の長男の親広が隠棲した後、大江氏の惣領の座を継いだのが、広元の次男、長井時広です。

時広は備後守護を務めたほか、のちに伊達氏、上杉氏の本拠地となる出羽米沢も領し、米沢城を築いたといいます。

時広の子、長井泰秀の代に、三浦氏と北条氏の戦いである宝治合戦が起き、泰秀は北条方につき勢力を確立します。

一方、一族の毛利季光は、三浦方について敗れ、毛利氏は滅亡寸前となるところを、泰秀が救済に奔走したことから所領を一部安堵され、のちの毛利氏繁栄につながることとなります。

毛利季光の墓

その後も長井氏は、幕府の寄合衆など重要な職を歴任しますが、後醍醐天皇による倒幕時には、いち早く北条氏を見限り、さらに南北朝の戦い時には足利尊氏に味方するなど、時代の波にうまく乗っていきました。

しかし、長らく中央政局に関わっていた長井氏は、本拠地米沢での勢力拡大が不十分で、近隣の勢力であった伊達氏によって米沢を攻め取られ、以降は勢力を衰退させていってしまうこととなりました。

一方、備後の所領を受け継いだ長井時広の次男、長井泰重の系譜は、鎌倉時代を通じて備後守護の座を保持しますが、建武の新政で守護の地位を失ってしまいます。

その後、長井氏の当主の長井貞広が今川貞世に従って九州で戦い討ち死に。当主のいなくなった長井氏には、一族の毛利氏から養子の長井広世が送られます。

広世は備後から毛利氏の本拠地、安芸国に移住し、福原氏と改称。

以降は毛利氏の重臣として存続し、広世の孫、福原広俊の娘は毛利氏に嫁ぎ、毛利元就を産むなど、毛利氏に深く関わっていくこととなります。

また、幕末の長州藩で、航海遠略策を提唱し開国を主張した長井雅楽も、この福原氏から派生した一族の出身となっています。

長井雅楽

広元の3男、政広は、那波氏に養子に入り、那波宗元と名乗ります。

那波氏は、幕府の引付衆などを務めますが、南北朝の戦いで没落、のちに鎌倉公方、関東管領上杉氏の家臣として小規模ながら復権することとなりました。

戦国時代には、武田氏、上杉氏、北条氏の間を渡り歩き、最終的には那波顕宗上杉景勝に仕えますが、豊臣政権のもと行われた九戸政実の乱で討死してしまいました。

顕宗の子は、同じ大江一族で越後で続いていた安田能元の養子となり、米沢藩士として続いていくこととなります。

4男の毛利季光は、承久の乱で活躍し、安芸国に所領を得ますが、妻が三浦義村の娘であったことから、三浦氏と北条氏の争いである宝治合戦で三浦方につき敗れ、一族とともに自害してしまいました。

しかし季光の4男の毛利経光だけは生き残り、経光の嫡男の毛利基親が越後の領地を、4男の毛利時親が安芸の領地を受け継ぎました。

このうち、毛利時親の系譜が安芸国吉田の領主として続き、戦国時代には毛利元就、毛利輝元を輩出、中国地方の覇者へと成長していくこととなります。

毛利輝元

一方、越後の領地を受け継いだ毛利基親の系譜は、孫の毛利経高の子たちが、それぞれ北条氏、安田氏と分かれ、越後の有力国人として続いていきます。

北条氏、安田氏は、戦国時代に入り、ともに上杉謙信に仕え、北条高広、安田能元という名将を輩出しています。

北条高広は謙信のもとで抜群の武功を挙げ、関東攻略の拠点である厩橋城を任されます。

しかし謙信死後の御館の乱で上杉景虎側につき敗北、息子の北条景広も討死し、北条家は没落してしまいました。

安田能元は、御館の乱では兄の安田顕元とともに上杉景勝側につき勝利し、以降も上杉氏の重臣として大坂の陣などで活躍、安田氏は江戸時代以降も米沢藩の家老をたびたび務めるなど活躍しました。

広元の5男は海東忠成と名乗り、幕府の評定衆などとして活躍しました。

しかし兄の毛利季光が宝治合戦で敗れたことに連座し、以降は没落してしまいます。

しかし忠成の子孫は、女系ではありますが、やがて三河国酒井氏に繋がり、徳川家康のもとで活躍した酒井忠次を輩出します。

酒井氏は江戸時代以降も出羽庄内藩の大名として幕末まで続くこととなりました。

大江広元自身が北条氏に勝るとも劣らない勢力を有していたため、子どもたちも大勢力を有し、広元の末裔を主張する家は他にもたくさん存在しています。

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