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源頼政の生涯、子孫のその後 源氏なのになぜ平清盛に従っていた?

源頼政

今回は、以仁王とともに平家に対して挙兵した源頼政について紹介します。

平清盛と近い関係にありながらも、平家に対して挙兵し、敗れた頼政。

頼政は自害したものの、子どもたちの中には生き残ったものもおり、源頼朝に従って源平合戦で活躍戦国時代、江戸時代まで頼政の血を伝えることとなりました。

今回は、源頼政の生い立ちからその生涯、生き残った頼政の子どもたちのその後について紹介します。

源氏の長老として平家全盛の世に生きる

源頼政は京都にて、朝廷や摂関家に仕える摂津源氏の家に生まれました。

摂津源氏とは、大江山の酒呑童子退治などで知られる源頼光の子孫の一族のことを指します。

源頼光の酒呑童子退治の様子

ちなみに、源頼朝ら河内源氏は、頼光の異母弟にあたる源頼信の子孫の一族のことを指します。

彼らが生きていたのは平安時代中期、950年から1050年頃なので、源頼政と源頼朝は、約150年前に別れた遠い親戚ということとなります。

源頼信

頼朝ら河内源氏が関東など地方に勢力を伸ばしていったのに対し、頼政ら摂津源氏は、畿内を中心に勢力基盤を持ち、皇室を警備する近衛兵のような存在である大内守護を務めていました。

頼政は1104年に源仲政の子として生まれ、鳥羽法皇に仕えていました。

治天の君として実権を握っていた鳥羽法皇

そして、鳥羽法皇のお気に入りの妃である美福門院や、藤原家成らと交流を持つようになります。

頼政は和歌にも通じており、武士でありながら貴族たちにも気に入られ、朝廷のトップであった鳥羽法皇は亡くなる間際に、愛する妃である美福門院に対し、頼りにするべき武士として頼政の名を挙げるなど、信頼を勝ち得ていきます。

やがて、後白河天皇と崇徳上皇の争いである保元の乱が起こると、源氏の中でも、後白河天皇側の源義朝と、崇徳上皇側の源為義、源為朝と別れて争いました。

保元の乱

しかし頼政は源氏としてどちらにつくかというより、あくまでも美福門院に従う姿勢を見せ、美福門院が支持する後白河天皇側に与して勝利します。

その後、頼政の与する美福門院は、合戦に勝利した後白河天皇と対立し、後白河天皇の子である二条天皇に譲位するように迫ります。

後白河上皇は院政を開始し、朝廷は後白河院政派と二条親政派に分裂、さらに当時後白河上皇のもとで権勢を振るっていた信西に反発する藤原信頼ら反信西派も合わせ、複雑な対立構図が出来上がり政治は混乱します。

そして藤原信頼らは反信西で利害の一致する美福門院ら二条親政派と結び、クーデターを起こし信西を攻撃、平治の乱が始まりました。

美福門院に従う頼政二条親政派としてクーデターに参加します。

クーデターは成功し信西は殺害されるも、藤原信頼と二条親政派は対立、そこに藤原信頼と対立する平清盛が京都に帰還し、二条天皇は平清盛のもとに走り藤原信頼を攻撃します。

当時京都で最大兵力を有していた平清盛

頼政も二条天皇に従い、平清盛のもと藤原信頼、そして源義朝と戦い、これに勝利しました。

この結果、源氏の中心であった源義朝ら河内源氏はその勢力を失い、歴史の表舞台から姿を消します。

そして、平清盛のもとで勝者となった源頼政が事実上の源氏のトップとなるのです。

源氏の長老的立ち位置となった頼政でしたが、以前と変わらず大内守護として二条天皇、そしてその後を継いだ六条天皇、高倉天皇に仕え、御所を守る武家として活動しています。

この頃には頼政と近い関係にあった美福門院は亡くなっていました。

鳥羽法皇の愛妃 美福門院

延暦寺の僧兵が強訴のために京都に攻め寄せてきた際には、平重盛とともに御所の警備にあたっていたことが記録に残っています。

和歌に優れていた頼政は、この頃になると歌人としても積極的に活動するようになっており、勅撰和歌集にも取り上げられたほか、自らの歌集である源三位頼政集も残されています。

やがて、平治の乱から20年近く経った1178年に、頼政は清盛の推薦により従三位に昇進、公卿の立場を手に入れました。

この昇進も、晩年になり、一門の栄誉として、特に権威のある公卿の立場を望んだ頼政が、その気持ちを和歌に詠み、それを聞いた清盛が頼政の官位のことを失念していたとして昇進させたといわれています。

この昇進は当時としても相当異例なことで、それだけ頼政が清盛に信頼されていたことがわかるエピソードとなります。

このように良好な関係にあった両者ですが、なぜ以仁王の挙兵に参加することとなったのか、見ていきます。

平家への恨み? 朝廷の私物化への反発? 平家に対し挙兵する

平清盛

元は朝廷と近い関係にあった頼政でしたが、平清盛が朝廷と協力関係を築いている間は、清盛とも良好な関係を築いていました。

しかし、段々と清盛と後白河法皇の蜜月関係は崩れていき、1177年の鹿ヶ谷の陰謀で対立が顕在化、そして1179年の治承三年の政変では清盛は兵を率いて京都へ乱入、後白河法皇を幽閉し、自身の娘が産んだ安徳天皇を即位させるクーデターを起こします。

清盛の娘 平徳子が産んだ安徳天皇

公卿となっていた頼政はこの頃に出家し、息子の源仲綱に家督を譲っていました。

しかし、あくまでも朝廷に従っていた頼政にとって、この清盛の行動は許しがたいものだったのでしょう。

一説には、頼政は自身が代々仕えてきた天皇家を、清盛が自身の娘を嫁がせ私物化しようとするのに相当反発していたといいます。

また、平家の傍若無人な振る舞いにも我慢の限界が来ていたともいいます。

平家全盛の中では源氏の立場は弱く、清盛の後継者の平宗盛が頼政の嫡男の源仲綱の愛馬を奪い、仲綱と名付け鞭を打つといった屈辱を与えるなど、平家に対する不満は溜まっていました。

清盛の後継者 平宗盛

さらに、平家と対立する園城寺など寺社勢力を清盛が討伐しようとした際に、出家の身である頼政は反発したため、両者の関係もギクシャクしていました。

そこに、平家によって皇位継承の道を絶たれ、打倒平家を目指す以仁王が現れ、頼政と以仁王は協力し平家討伐の兵を挙げることとなります。

以仁王が挙兵に際し頼政の協力を求めたとも、頼政が以仁王に挙兵を持ちかけたともいわれており、挙兵し園城寺に匿われた以仁王に頼政が合流する形で乱が始まります。

園城寺(三井寺)

園城寺に逃げた以仁王討伐の大将の1人に頼政が選ばれていたことから、頼政の関与は平家に対し最後までバレていなかったこととなります。

しかし、頼みの園城寺も親平家と反平家で分裂しており、近隣の比叡山延暦寺も平家の調略にかかってしまったことから、頼政らは奈良の興福寺に移動しようと南に向かいました。

奈良へ向かう途中、宇治平等院でついに平家の大軍に追いつかれ、頼政らは宇治川を挟んで少ない手勢で果敢に平家と戦います。

宇治川の戦い

さすがの頼政も平家の猛攻を支えきれず、平等院に籠もってなおも抵抗を続けるも、嫡男の仲綱をはじめ一族が次々と討死、追い詰められた頼政も自害して果てました。

源頼政の子孫のその後

源頼政の一族の多くは、頼政とともに討死しましたが、頼政の孫の源有綱、そして頼政の末子の源広綱は、頼政の知行国であった伊豆にいたことから生き延び、源頼朝の挙兵に従うこととなりました。

彼らは同じ源氏の一族として頼朝に重く用いられ、一族の仇である平家討伐に尽くすこととなります。

源有綱はやがて頼朝から、頼朝の弟である源希義を殺した蓮池家綱ら土佐国の平家方討伐を命じられます。

土佐国の平家勢力を一掃した有綱は、源義経の軍に組み込まれ、さらに西へと平家を追い詰め、ついに平家を滅ぼすに至りました。

源義経

有綱は義経とあまり官位にも差がなかったことから、義経の部下というよりも、同じ源氏の同盟者という立ち位置だったといわれ、一説には義経の娘婿、妹婿となったといわれています。

義経に忠実な武将となった有綱は、やがて頼朝と義経が対立すると義経と行動をともにし、義経の逃避行に同行、武蔵坊弁慶らと義経を守りながら吉野に逃げ込みます。

しかし吉野で義経と別れ、宇陀に潜んでいたところを追手の北条時定に見つかり、自害して果てました。

頼政の末子で、源仲綱の養子となっていた源広綱も頼朝に従って平家と戦い、広綱の子孫は、やがて江戸を開いたことで知られる戦国武将、太田道灌につながることとなります。

戦国時代初期に活躍した太田道灌

広綱も源氏の一族として重く用いられ、義経に従った義兄の源有綱とは違い、頼朝に従い続け、奥州合戦にも従軍します。

しかし頼朝に従って上洛している途中に突如逐電し、歴史の表舞台から姿を消してしまいました。

やがて広綱の子の源隆綱が丹波国に領地を持ち、その子孫の源資国が地名を名字として太田氏を名乗りました。

太田資清の代に、武蔵国を拠点とする扇谷上杉家に仕え、その子の太田道灌が江戸城を築いて扇谷上杉家の繁栄を支えることとなりました。

しかし太田道灌は上杉定正によって殺されてしまい、子孫は江戸、岩槻など武蔵国内で分裂、北条氏、佐竹氏などに従いながら戦国時代を生き抜き、子孫の一つが遠江掛川藩主として大名となり、老中も輩出するなど、明治までその血を残しています。

また、頼政の嫡子である仲綱の嫡男、源宗綱の孫である源宗重は、浄土真宗の開祖である親鸞の弟子となり、その子孫が戦国時代に一向一揆を率いた本願寺の重臣である下間氏となりました。

浄土真宗の開祖 親鸞

さらに下間氏の一族からは江戸時代に入り下間頼広という人物が出てきました。

頼広は東本願寺を率いる教如に仕えていましたが、出奔し、姫路藩52万石を領していた池田輝政のもとに身を寄せます。

やがて池田姓を与えられ、池田重利と改名し、大坂の陣で戦功を挙げ、一万石の大名となります。

途中無嗣断絶となり廃藩となりながらも、3000石の寄合として明治時代まで続きました。

まとめ

以仁王とともに平家に反旗を翻し、源平合戦のきっかけを作った源頼政。

頼政は志半ばで命を落としたものの、息子、孫たちは源頼朝に従い平家を滅ぼし、頼政の無念を晴らすこととなりました。

その後の頼政の子孫たちは様々な道をたどりますが、戦国時代初期の英雄、太田道灌をはじめ、各地で活躍し、その血を明治時代まで伝えています。

一説には、武田信玄の重臣である武田四天王の1人、馬場信春も頼政の子孫であるといわれています。

馬場信春(馬場信房)

摂津源氏の名門として歴史に爪痕を残した源頼政。

源頼朝の影に隠れがちですが、大きな歴史の転換点を作った頼政にも注目が集まることが期待されます。

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