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島津氏にも受け継がれた重忠の血筋 畠山重忠の子孫のその後

畠山重忠

こんにちは!レキショックです!

今回は、畠山重忠死後の畠山氏のその後について紹介します。

畠山重忠は、北条氏の武蔵進出の野望の前に立ちはだかる勢力として滅ぼされてしまいます。

夫を失った重忠の妻は、重忠の領地を相続し、北条氏の縁戚である足利氏出身の足利義純と再婚することで、畠山氏の名跡を残す役割を任されました。

こうして、畠山氏は、のちに室町幕府を開く源氏の名門、足利氏の一族として残され、室町時代には応仁の乱の原因になるなど、有力大名として発展していきます。

一方、重忠の娘はのちに薩摩藩主となる島津氏に嫁いだといわれており、その縁もあって島津氏は、重忠の血縁者や郎等を召し抱え、有力御家人として成長していきました。

今回は、畠山重忠死後の畠山氏の変遷、室町時代以降の畠山氏、そして島津氏に受け継がれた畠山重忠の事績について紹介します。

重忠死後も続く妻の戦い 畠山重忠死後の畠山氏

二俣川の戦いで敗れた畠山重忠

畠山重忠の乱にて、重忠をはじめ、息子の畠山重保、重秀など、畠山一族はそのほとんどが命を落とすことになりました。

僧となって日光にいた重忠の末子、重慶も、重忠の死から8年後に、謀反の疑いがあるとして討ち取られてしまいます。

他にも生き残った子がいるともいわれていますが、いずれにせよ、重忠の血を引く男子が、再び畠山氏を名乗って歴史の表舞台に舞い戻ることはありませんでした。

重忠が領していた武蔵国の所領は、ほとんどが恩賞として配分されてしまいますが、本領など一部は、後家となった重忠の妻に継承されます。

大河ドラマではちえとして登場している重忠の妻は、北条時政の娘で、牧の方の血は引いていませんが、北条義時、政子の妹にあたる人物です。

もっとも、この所領が重忠の妻に正式に安堵されたのは重忠の死から5年後のことで、この5年の間に、重忠の妻は数々の困難に直面します。

その始まりは、のちに室町幕府を開く足利氏の一族、足利義純との再婚でした。

重忠を失った悲しみも癒えない頃に、新たに足利氏と縁組させられたのには、北条氏の武蔵支配が関係しています。

当時の武蔵国は、牧氏事件で、平賀朝雅が殺され、武蔵支配を進めていた北条時政も失脚したため、統治者不在の異常事態となっていました。

いくら北条義時といえども、源氏の一族筆頭であった平賀朝雅の跡を受けて武蔵の国司の座につくのは、実力、格式ともに不十分です。

こうした背景もあり、武蔵国司の座には、室町幕府を開く足利氏につながる足利義氏が任じられ、北条氏が力をつけるまでの間、武蔵の統治を担いました。

足利義氏は、北条政子の妹、時子と足利義兼の間に生まれており、北条一門、特に政子、義時に近い人物です。

足利義兼

こうして、北条氏と足利氏が手を組み、武蔵支配に乗り出していく一環で、重忠の妻は足利義氏の兄で、家督を継げない庶子扱いであった足利義純を婿に迎えます。

足利氏は、足利義氏がのちに北条泰時の娘を正室に迎えるなど、北条氏と一心同体の一族といってもよく、長年武蔵を支配した畠山氏を、足利氏の支配のもと、統治に利用しようとしたのでしょう。

足利氏の力を借りて、北条氏主導の武蔵支配が軌道に乗ってきたところで、畠山重忠の乱から2年後、北条時房が武蔵守護に就任しました。

そしてその3年後には、足利氏に代わって武蔵国司に就任し、名実ともに武蔵国は北条氏のものになります。

時房の国司就任から数カ月後に、土地の所有者の整理などが改めて行われますが、その後、重忠の妻の所領は、一度は没収の決定がされてしまいました。

北条氏の認知していなかった不都合なことがあったのかもしれませんが、重忠の死から5年経っても、重忠の妻は、実家によって振り回されていたことになります。

最終的には所領は改めて安堵され、重忠の妻は、足利義純との間に生まれた息子の畠山泰国に所領を相続し、以降、足利氏一門として畠山氏は続いていきます。

この頃には、まだ重忠の血を引く重慶などが生きていましたから、北条、足利の血を引く泰国への相続を条件に所領が安堵されたのかもしれません。

泰国、時国と続いていく畠山氏は、かつて頼朝のもとで先陣を多く務めた重忠の末裔としてではなく、あくまでも北条の血を引く一門の一つとして扱われました。

ですが、足利氏の分家的な立ち位置でもあったため、扱いはそこまで高くなく、幕府でも重要な地位につくことなく鎌倉時代の終焉を迎えます。

この後、畠山氏の本家にあたる足利氏の世になると、畠山氏は一躍脚光を浴びることになります。

室町時代以降の畠山氏 大大名に成長し、応仁の乱の原因にもなる

応仁の乱

鎌倉幕府が滅び、足利氏が天下をとっても、畠山氏がすぐに繁栄したわけではありませんでした。

畠山氏は、足利一門として足利尊氏に従って活躍し、当主の畠山国氏が奥州管領に任じられ、父の畠山高国とともに奥州支配を任せられますが、反対勢力に攻められ自害し没落します。

この一族は、二本松氏として細々と残り、戦国時代には、伊達政宗の父、伊達輝宗を拉致したことで知られる二本松義継などが出ますが、勢力は振るわず、滅亡してしまいました。

足利氏の世になっても、当初は振るわなかった畠山氏を一躍有名にしたのが、奥州に行った畠山高国の弟の家系出身の畠山国清です。

畠山国清は、奥州に移った宗家とは別に、足利直義に従うなど、独自の勢力を築き、室町幕府が関東を統治するための鎌倉公方を設置すると、公方を補佐する関東管領の職に抜擢されます。

国清は、かつて畠山氏と縁のあった河越氏ら秩父平氏の一族を率い、武蔵守護にも任じられるなど関東で権力を振るいました。

のちに国清は、京都での活動で失敗し、関東でも他の武士たちの反感を買い、最終的には鎌倉公方に対し挙兵し没落してしまいました。

ですが、国清の活躍により畠山氏の名は一躍広まり、室町時代の繁栄に繋がっていきます。

国清の弟の畠山義深が幕府に許され、関東を離れ京都に活躍の場を移し、近畿や北陸地方の守護の地位を獲得するなど、2代将軍足利義詮のもとで復活を果たします。

足利義詮

義深の子の畠山基国は、楠木正成の子、楠木正行を打ち破り、現在の大阪府にあたる河内国を支配下に収め、畿内に確固たる勢力を築きました。

基国は、山名氏や大内氏といった大大名との戦いにも主力として参加し、将軍を支えるトップの役職である管領にも任じられます。

足利氏の一門で有力大名であった細川氏、斯波氏と並んで三管領と呼ばれた畠山氏は、室町幕府誕生から50年近く経って、ようやく幕府のトップの地位にたどり着いたのです。

畠山氏は、基国の子、畠山満家、孫の持国の代に、3代将軍の足利義満や6代将軍の足利義教に、たびたび干渉を受けます。

そのたびに一族で結束し、内部分裂を起こすことなく、細川氏や山名氏といった大大名に並ぶ勢力を維持します。

ですが、持国の子の畠山義就と、甥でもともと跡継ぎにしていた畠山政長が家督を巡って激しく争い、両者の争いは将軍、有力大名を巻き込み、応仁の乱のきっかけになってしまいました。

応仁の乱ののちも、畠山氏は完全に2つに割れてしまい、両者の争いは室町幕府衰退の原因になっていきます。

畠山氏自体も、内戦を続ける中で疲弊していき、全国に拡大していた領地は、次々と家臣たちによって下剋上されていき、戦国時代には畿内の一勢力にまで力を落としてしまいました。

それでも、畠山政長の子孫にあたる畠山高政が、三好長慶らと渡り合い、織田信長に従って三好氏と戦うなど、信長の天下統一戦にもその名を見せています。

最終的には、高政の甥の畠山貞政が、豊臣秀吉の紀州征伐で、紀伊国に残っていた勢力を滅ぼされ、大名としては完全に滅亡してしまいました。

豊臣秀吉

ですが、子孫は高家として江戸幕府に取り立てられ、江戸時代以降も続いていきます。

畠山氏は畿内を中心に繁栄した一方、一族は現在の石川県にあたる能登国でも大名として活躍していました。

能登畠山氏は、戦国時代に入ると、家臣の長氏などに実権を握られ、最終的には、上杉謙信によって居城の七尾城を落とされ滅亡してしまいます。

ですが、能登畠山氏の一族の畠山義春は、上杉氏に捕まったのち、上杉謙信の養子にもなり、能登や信濃で上杉軍の一員として活躍しました。

最終的には、豊臣秀吉のもとへ出奔し、江戸時代には徳川氏に取り立てられ、子どもたちは上杉家臣、幕府高家として続いていきます。

義春の子で高家となった畠山義真は、8歳の若さで米沢藩3代藩主となった上杉綱勝の後見として江戸城登城で付添をするなど、上杉氏とも友好関係を築きました。

赤穂事件でも上杉氏を守る役割を果たすなど、江戸時代を通じて高家として続き、本家とともに畠山氏の名跡を残しています。

島津氏に受け継がれた重忠の思い 九州に続いた畠山氏の系譜

島津忠久

のちに薩摩藩主となり、関ヶ原の戦い、明治維新で活躍することになる島津氏は、畠山重忠の真の後継者ともいえる一族です。

島津氏初代当主、島津忠久は、畠山重忠の娘を妻にしたとされており、重忠の娘との間に生まれた跡継ぎの忠時以降、脈々と現代まで系譜がつながっています。

もっとも、年齢的におかしいなど不確かな要素はあるため、現在の島津氏に重忠の血が流れているかは定かではありませんが、何らかの縁戚関係はあったようです。

島津家には、重忠が、北条時政から受けていた勘当が解かれたことを島津忠久に報告した文書などが残っており、重忠の足跡を伝える数少ない手がかりとなっています。

こうしたつながりもあり、畠山重忠の滅亡後、島津氏は重忠とのつながりを主張し、家の格式を上げていく活動を積極的に行うようになります。

創作とはされていますが、島津忠久は奥州合戦にて畠山重忠に従って副将として活躍したという話が伝わっており、武士の鑑と呼ばれた重忠と自家を結びつけることで、重忠の名誉にあやかろうとしていました。

奥州合戦

島津忠久の子、島津忠時は、承久の乱でも、畠山重忠を意識した行動をとっています。

忠時は、後鳥羽上皇の挙兵に対し、先頭を切って京都に進軍する北条泰時に従って先陣に加わっています。

忠時はわずかな兵で出陣した泰時の軍勢に加わることを願い出て、忠時の危険を顧みない申出を、北条義時も称賛したといいます。

この行為は、かつて源頼朝のもとで先陣を多く務めた重忠にあやかるもので、重忠と島津氏を重ね合わせることで、島津氏を畠山氏並の家に押し上げようとしていました。

この甲斐もあって、のちに、京都で勤務中の島津忠時に対し、北条泰時が島津氏を畠山重忠になぞらえて激励するといったことも起きており、武士の鑑、畠山重忠に関連する家としてのポジションを獲得することができました。

これほどまでに島津氏が畠山重忠を意識したのには、島津氏の出自が関係しています。

島津氏は、もともと京都の出身で武士ではなく、近衛家とのつながりなどから頼朝に取り立てられた人物です。

それゆえに、他の御家人に比べ、先祖代々の武功が少なく、わずかに縁のあった畠山重忠とつながりがある家と主張することで、武家としての格式を高めようとしたのだと考えられます。

畠山氏は、北条氏に敵対して滅ぼされたにも関わらず、謀反は間違いだったとして、北条氏によって武士の鑑と顕彰されている数少ない人物で、後継を称するにはうってつけだったでしょう。

こうした経緯もあり、島津氏は、畠山重忠の一族、郎等たちを数多く召し抱えています。

畠山重忠像

元寇の頃から、島津氏関係の文書には、畠山一族と見られる武士の名前が次々と出てきます。

島津氏の勢力があった豊後国には、畠山重末という人物がいるほか、元寇では、島津軍の中に、畠山覚阿弥という人物がいます。

また、重忠の側近として吾妻鏡にも名前が出てきている本田近常の一族とみられる本田氏も、島津氏の配下として元寇関係の資料などに多く名前が出てきています。

これらは、畠山氏没落後、重忠の縁戚であり、西国で急速に勢力を拡大し、人手不足だった島津氏に新たに召し抱えられた畠山氏の関係者だったと考えられます。

畠山氏ゆかりの武士を数多く召し抱えることで、重忠の後継者としての立場の補強にもなり、島津氏も積極的に彼らを受け入れたのでしょう。

家系図の改竄の可能性もあり、重忠の血筋が薩摩島津氏に受け継がれているかは怪しいですが、血の繋がりはなかったとしても、重忠の姿勢、思いは島津氏に受け継がれることとなったのです。

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