江戸幕府の初代将軍、徳川家康がのちに「生涯第一の艱難」と語った、日本史において最も名高い逃亡劇といわれる神君伊賀越え。
もしも家康が伊賀越えの道半ばで命を落としていれば江戸幕府が開かれることもなく、現在までの日本の歴史も大きく変わっていたに違いありません。
そんな神君伊賀越えですが、近年になって「伊賀だけでなく、甲賀も大いに関係しているのだから甲賀・伊賀越えだ!」という声が上がっています。
本記事ではそんな『甲賀越え』の新説について、ご紹介します。
そもそも、神君伊賀越えとは?
天正10年6月2日、家臣である明智光秀の謀反により追いこまれた織田信長が、本能寺に火を放って自害した本能寺の変を発端として、徳川家康の逃亡劇の火蓋が切られました。
当時家康は、甲斐武田氏を滅ぼした甲州征伐の戦勝祝いとして、織田信長に安土城に招かれていました。
安土城での接待を受けた帰りに、のんびりと堺(現在の大阪府)での観光を楽しんでいた家康の耳に、突如として「信長、本能寺で死す」との知らせが飛び込みます。
1万3000人の大軍勢を擁する明智軍に対して、家康のお供はわずか30人余り。
さらに悪いことに、この明智光秀こそが安土城で家康を接待した張本人ですから、当然、家康一行の足取りはだだ漏れだったはず。となると、明智軍に追いつかれ、討たれるのも時間の問題…。
「万事休す。」
家康は、敵に討ち取られるくらいならば、と知恩院にて自ら腹を切る覚悟を決めてしまうほどでした。
しかし、本多忠勝・井伊直政ら従っていた家臣たちに「まずは三河へ戻り準備を整えて信長様の弔い合戦を!」と説得され、なんとか自刃を思い留まるのでした。
これは単なる逃亡ではなく、弔い合戦のための戦略的撤退である、という大義名分を得たことが家康の心の支えになっていたのかもしれません。
かくして始まった逃亡劇、もとい伊賀越えですが、資料に残されたルートや日程には諸説があり、未だに正確なルートは解明されていないといいます。
のちに天下統一を果たすこととなる家康にとって一世一代の逃亡劇ですから、ゆかりの地として「本当は通ってないけど、うちも通ったことにして記録しちゃおう…」などということもあったのでしょうか。
ともあれ、大まかには河内から山城を経由して峠を越え、伊勢を抜けて船で三河へと帰還したのが神君伊賀越えの顛末とされています。
大阪から京都南部を経由して、三重県、愛知県へと東に向かったという感じですね。
『甲賀越え』と主張したい理由
さて、冒頭の「伊賀越えは甲賀越えでもある」と唱える新説の根拠としては、以下の事実が挙げられています。
1つ目は、家康一行は伊賀を越える前に、甲賀一帯に影響力を持つ多羅尾氏に助けを求めたことです。
多羅尾氏の支援のもと、甲賀の信楽にある妙福寺で一夜を過ごしており、さらに翌日、多羅尾氏の取り計らいで従者50人と甲賀忍者200人余りが家康の道中の警護についたとする記録が残っています。
2つ目は、伊賀者の支援者より甲賀者の支援者の方が多いことです。
伊賀者の功労者として服部半蔵が挙げられますが、それ以外の伊賀者は拓殖氏など少数しか見当たりません。
一方で甲賀へは、三河帰着後の家康から数多くの礼状が届いていたことから、実際には数多の甲賀者が支援していたとされています。
よって、『神君伊賀越え』改め、『神君甲賀・伊賀越え』と呼ばれても不思議ではないのです。
『伊賀越え』として世に広まったのはなぜ?
それでは、このように甲賀を越えてきたという事実がありながらも、『伊賀越え』という言葉だけが定着したのはなぜなのでしょうか。
その背景には、家康一行が伊賀を越えることがいかに危険なものだったか、アピールしたいという事情がありました。
この当時、伊賀は家康にとって非常に危険な土地だったのです。
この逃亡劇の前年、織田信長が伊賀国に攻め込んで殺戮の限りを尽くした天正伊賀の乱が起きていました。
非戦闘員を含めて、9万人いた伊賀の人口のうち、3万人が殺害されたともいわれています。
皆殺しから逃れた伊賀衆の残党にとって、信長は仲間の仇であり、恨みを抱いていたに違いありません。
そして、家康は直接的に天正伊賀の乱には関与していないと言えど、信長の同盟者。伊賀衆からは同じく敵とみなされ、伊賀の地はまさに四面楚歌の状況だったのです。
一方の甲賀は、上ノ郷城の戦いでの活躍以来、長きにわたって徳川家と強い結びつきがありましたから、味方だらけの甲賀を越えることはさほど困難ではなかったのでしょう。
そのため、比較的安全な甲賀越えに比べ、敵陣突破たる伊賀越えは「あの危険な伊賀をくぐり抜けて生還された!」として人々に強烈なインパクトを与えることになりました。
事実としては甲賀者の支援が大きかったものの、『伊賀越え』の名が後世に語り継がれることになったのだと推測されます。
最後に
要するに、マーケティング的な側面もあって『神君伊賀越え』としてその事件は広まっていったのでした。
とはいえ、道中でしっかりと甲賀を通っており、また甲賀衆が大いに貢献していたという事実を鑑みると『甲賀・伊賀越え』と呼ばれたい甲賀側の気持ちも理解できますね。
歴史の解明とともに教科書の内容が変更されることも珍しくありませんから、いつか『神君甲賀・伊賀越え』がスタンダードになる日がやってくるかもしれません!