偉人解説

江戸時代以降の薩摩藩 島津家 徳川家に娘を送り込み、産業革命にも成功した異色の大名

島津義弘

こんにちは!レキショックです!

今回は、江戸時代以降、薩摩藩主島津家はどのように生き延び、明治維新を成し遂げるまでにいたったのか、紹介します。

一説には、源頼朝のご落胤ともいわれている島津忠久から、700年近くにわたって鹿児島を支配した島津氏。

戦国時代には、島津義弘ら勇猛果敢な武将を多数輩出し、一時は九州統一目前にまで至りました。

朝鮮出兵でも、鬼島津と呼ばれ大陸にもその名を轟かし、関ヶ原の戦いでは西軍に属すも、敵中突破という前代未聞の撤退戦を繰り広げ、島津家の武勇は全国に知れ渡ることになりました。

やがて、鎌倉時代以来の領地を守り抜いた島津家は、幕末には幕府を凌ぐほどの力を蓄え、明治維新の原動力となっていきます。

今回は、江戸時代以降、島津家はどのように力を蓄えていったのか、明治維新以降、島津家はどのような道を辿ったのか紹介します。

巧みな外交交渉で領地を守り切る 江戸時代初期の島津家

関ヶ原の戦い

島津の退き口と評される敵中突破を成し遂げ、無事に薩摩に帰還した島津義弘は、国内に温存されていた兵力で国境を固め、家康の出頭要請を拒み続けます。

当然、家康は怒り、黒田長政加藤清正など、九州の諸大名に島津討伐を命じ、約3万の軍勢が島津氏の国境付近に集結しますが、島津側にも1万人以上の兵がおり、苦戦が予想されることから、攻撃に移れずにいました。

家康としても、毛利氏上杉氏などの減封処分を行っている最中で、自ら島津討伐に赴けず、万が一、島津討伐に苦戦したら、同じく大兵力を有する彼ら西軍大名が再び反抗する可能性があり、島津討伐に時間を割けない状況にありました。

さらに島津氏は、西軍の首脳であった宇喜多秀家を自領に匿うなど、全国を巻き込んだ徹底抗戦の構えを崩さず、関ヶ原の戦い集結から2ヶ月近くが経過します。

その間に島津氏は、家康による明との貿易船を襲撃し、これを沈めるという事件を起こします。

朱印船貿易

これは、家康に、戦争となるならば海賊行為をして、貿易の妨害をすると意思表示したことになり、家康としても、国内、国外両面で不安定要素を抱えることになり、天下統一にも支障をきたすと考えたことでしょう。

こうして、島津氏は家康に圧力をかけ続けた一方、撤退戦で重傷を負わせた井伊直政を通じて和平交渉を進めており、関ケ原の戦いから3ヶ月後には島津討伐軍は撤退、そして2年後には、交渉の末、本領安堵を勝ち取ることになりました。

これと同時に、島津氏の家督は、島津義弘の子、島津忠恒が継ぎ、先代当主、島津義久の娘の亀寿を妻に迎えることで、薩摩藩が成立します。

島津忠恒

島津氏は、本領安堵を勝ち取ると、一転して、江戸幕府との関係強化に乗り出します。

幕府に対しては、諸大名に先駆けて、妻と子を江戸に留め置くことを申し出て、参勤交代のきっかけを作り、徳川秀忠に次男の徳川忠長が生まれると、島津氏の養子に貰い受けたいと申請するほどでした。

一方、この頃の島津氏は、幕府の許可を得て、関ヶ原の戦いから9年後の1609年に、琉球王国を侵略しています。

先代当主の島津義久の反対にも関わらず、島津忠恒は3000人の軍を率いて、あっという間に琉球を服属させ、対外貿易拠点や砂糖などの収入源を手に入れることに成功しました。

首里城

もっとも、江戸幕府としても、島津氏を完全に信用していたわけではなく、大坂の陣が始まる直前には、島津氏に対して起請文の提出を命じており、実際に島津氏も大阪の陣に参陣することはありませんでした。

忠恒はこれ以降も、鹿児島城の整備外城制の整備による家臣団の統制を進め、薩摩藩の藩政の基礎を固めます。

また、妻の亀寿とは不和だったようで、妻の父、島津義久の生存中は遠慮していたものの、義久が亡くなると、即座に亀寿と別居し、あてつけのように8人の側室を迎えています。

そして33人の子をもうけ、これを一族や家臣に養子、妻に送り込むことで家中を統制し、藩主権力の強化に成功します。

こうして島津家は、加賀前田家に次ぐ、全国2位の77万石の大藩となり、江戸時代を生き抜いていくことになります。

江戸時代の島津家 将軍家に御台所を送り込み、独自の地位を築く

島津重豪

島津忠恒の跡は、息子の島津光久が継ぎます。

江戸時代初期は琉球経由での貿易で潤っていた薩摩藩でしたが、幕府が鎖国政策を取ると貿易収入は激減し、金山開発も幕府に妨害されるなど、一転して財政難に陥ることになりました。

薩摩藩はそれでも、琉球を通じて密貿易を続けましたが、これ以降、江戸時代を通じて財政難に悩まされることになります。

島津光久は、50年近くにわたって藩主を務め、父と同じく子にも恵まれ、38人の子をつくりました。

しかも、母の名はほとんどが伝わっておらず素性不明で、手当り次第に手をつけ、子供を作っていたものと思われ、当時としても相当異常な大名であったといえます。

光久は他にも、水戸黄門でおなじみの徳川光圀が後楽園を作り、大名たちを招待した際に、突然池に飛び込み泳ぎ回り、「よくできた池だ」と褒めるといったエピソードも残されているなど、歴代藩主の中でも特に変わった人物であったといわれています。

小石川後楽園

光久は長年藩主を務め、その間に息子の綱久は42歳で早世していたことから、光久の跡は孫の島津綱貴が継ぎました。

綱貴は名君として記録が残っているものの、綱貴の代には、洪水や火事が頻発し、幕府には上野寛永寺の建造を命じられるなど、藩財政は悪化の一途をたどりました。

綱貴の跡は、子の島津吉貴、吉貴の弟の島津継豊と続いていきます。

継豊は、長州藩毛利家の姫を妻にしていましたが、早くに亡くなっていたため、8代将軍徳川吉宗の斡旋で、5代将軍徳川綱吉の養女となっていた竹姫と再婚しています。

この竹姫は、徳川吉宗と恋愛関係にあったと噂されている人物で、薩摩藩側では嫌々ながら受け入れたといわれています。

徳川吉宗

結局は、竹姫との間に子ができても藩主にしないことを条件に受け入れ、継豊の跡は側室との子の島津宗信、弟の島津重年と継いでいきます。

島津重年の代には、木曽川の治水工事を幕府に命じられ、薩摩藩では80人以上におよぶ犠牲者、および莫大な費用をかけてこれを完遂し、藩財政はいよいよ逼迫するようになります。

重年の跡は、子の島津重豪が継ぎます。

重豪は、娘の広大院を一橋家当主であった徳川家斉に嫁がせていましたが、10代将軍徳川家治の嫡男の徳川家基が急死したことから、家斉が次期将軍となり、広大院はいきなり将軍の御台所となってしまいます。

広大院

当時、将軍の妻を外様大名から迎えるということはありえず、幕府内では大いに問題となりましたが、重豪も将軍の外戚になれる千載一遇のチャンスを逃さず、あらゆる手を尽くします。

最終的には、重豪の祖父にあたる島津継豊の代に、徳川吉宗から押し付けられた竹姫の遺言であると主張し、将軍の養女の遺言であるからと幕府も無視できなくなったため、この婚姻は成立し、広大院は無事に将軍の御台所となります。

これにより、島津重豪は、前代未聞の将軍の舅となり、高輪下馬将軍と呼ばれるほどの権勢を手にすることになりました。

また、重豪は、藩校の造士館を設立し、ヨーロッパ文化の導入も進め、華美な生活を好み、藩財政を悪化させながらも、のちに薩摩藩が発展する基礎を築きます。

重豪は、息子の島津斉宣に家督を譲って隠居しながらも、実権を握り続け、80歳を過ぎても、シーボルトと会見し、西洋の情勢を熱心に聞くなど、老いてもなお盛んに活動を続けます。

シーボルト

この頃には、ローマ字の読み書きができ、オランダ語も話すことができるようになっていたといい、シーボルトも80歳をすぎているのに60歳前後にしか見えないと記録に残しているほどでした。

晩年には、重豪は、曾孫にあたる島津斉彬の才能を見抜き、斉彬を手元に置いて大事に育てたといいます。

西洋事情に明るい重豪のもとで、幼い頃から西洋文化に触れたことで、のちに斉彬は西洋文化に明るい名君に成長することになり、幕末維新の薩摩藩の躍進の基礎が整えられることになります。

こうして、財政問題や跡継ぎ問題を抱えながらも、外国との交流を通じて実力を蓄えていった薩摩藩は、動乱の幕末で、一気に中央政局に乗り出していくことになります。

幕末の島津家 他藩を圧倒する実力をつけ、動乱の世の中心に

島津斉興

島津重豪が89歳で大往生を遂げると、孫の島津斉興が藩政の実権を握り、調所広郷を中心とした藩政改革に取り組みます。

借金を250年払いにし、密貿易、偽金作り、奄美諸島などを犠牲にした砂糖の専売など、なりふり構わない財政再建策を行い、幕府に責任を問われ、調所広郷が切腹するなどの犠牲を払いながらも、薩摩藩の財政事情は飛躍的に好転しました。

一方、斉興は嫡男の斉彬ではなく、弟の島津久光を溺愛したことから、お由羅騒動と呼ばれるお家騒動も起きますが、最終的には息子の斉彬に実権を奪われる形で世代交代が行われます。

島津斉彬

島津斉彬は、集成館事業と呼ばれる、反射炉や造船など西洋技術の導入による富国強兵策を実施し、薩摩藩の実力を高めていきます。

薩摩藩は洋式軍艦の昇平丸を建造し、蒸気機関の国産化にも黒船来航以前から取り組み、日本初の国産蒸気船雲行丸を建造するなど、他藩を圧倒する技術力を身につけることに成功しました。

また、斉彬は幕政にも積極的に介入し、広大院の前例を用いて、13代将軍徳川家定の正室に養女の天璋院篤姫を送り込むなど、幕府とのつながりを深めます。

天璋院篤姫

そして家定の跡継ぎをめぐる将軍継嗣問題では、一橋慶喜を推し、慶喜のもとで公武合体、武備開国を進めようとしました。

しかし、井伊直弼ら南紀派に敗れ、安政の大獄により一橋派は次々と弾圧されてしまいます。

斉彬はこれに抗議するために藩兵5000人を率いて上洛することを計画しますが、その途中に急死してしまいました。

この突然の死には、斉彬に反発する父の斉興らの陰謀であるとの噂も立っています。

斉彬の死後は、弟の島津久光の子、島津忠義が継ぎますが、実権は祖父の島津斉興、斉興の死後は島津久光が握ります。

島津忠義

島津久光は、小松帯刀大久保利通などを登用し、藩の若手勢力を抜擢することで、薩摩藩は幕末の動乱に機動的に対応できるようになりました。

しかし、久光は西郷隆盛とは反りがあわず、流罪にするなど、生涯に渡って微妙な関係であったといわれています。

やがて久光は、亡き兄、島津斉彬と同じく、藩兵を率いて上洛し、一橋慶喜を将軍後見職に就任させるなどの文久の改革を成功させ、薩摩藩はただの外様藩ではなく、中央政局の中心に立つ藩として、政局を左右する存在にまでになります。

一方、この帰りに、イギリス人を切り捨てる生麦事件を起こし、イギリスの報復を受けた薩英戦争では鹿児島が火の海にされるなど、外国の脅威も身を持って体感し、これ以降、イギリスに近づきその技術を積極的に取り入れるなど、薩摩藩は以前にもまして開明的な藩となっていきます。

薩英戦争

その後の薩摩藩は、幕府と朝廷を結びつける公武合体運動を推進し、会津藩などと協力し、長州藩など過激な尊皇攘夷勢力と対峙しますが、薩摩藩に政治の主導権を握られることを嫌った一橋慶喜と次第に対立を深めていきます。

一方、かつて激しく敵対していた長州藩とは、坂本龍馬などの奔走もあり、一橋慶喜、会津藩への対抗として、薩長同盟を成立させるなど、徐々に倒幕へと舵を切っていきます。

やがて、将軍となり、独自路線を貫く慶喜と、列侯会議路線を進めたい薩摩藩は対立し、四侯会議の決裂で対立は決定的となり、薩摩藩は長州藩などとともに倒幕運動を進めることになります。

この状況に対し、徳川慶喜は起死回生の一手として大政奉還を行い、藩主の島津忠義は藩兵を率いて上洛。

大政奉還

薩摩藩は鳥羽・伏見の戦いで快勝し、戊辰戦争へと突き進み、明治維新の主役となっていくことになります。

明治維新後の島津家 皇室にもその血を伝え、鹿児島で伝統を守り続ける

仙巌園

薩摩藩は新政府軍の主力として戊辰戦争を戦い、西郷隆盛や大久保利通はそのまま東京で明治政府の首脳となっていきますが、藩主の島津忠義は、新政府には積極的に参加せず、一定の距離を取り続けました。

島津忠義は鳥羽・伏見の戦いでの勝利の後、海陸軍総督に任じられていますが、西郷隆盛の進言を受けて1日でこれを辞退しています。

薩摩藩内では、忠義の総督就任をもって、島津幕府の第一歩と盛り上がっており、国父の島津久光も島津幕府成立を狙っていたといいます。

これ以降も、忠義は陸海軍務総督に任じられるなど、その気になれば自身が中心の政府を作ることも可能な立場にありましたが、実権は西郷や大久保らに任せ続けました。

忠義は長州や土佐などと並んで、他藩に先駆けて版籍奉還を行い、廃藩置県後は東京に移住し、藩政、国政に積極的に関わることはありませんでした。

一方、父の島津久光は、藩主から実権がどんどん取り上げられていく状況に不満を抱き、廃藩置県が行われた際には、一晩中花火を打ち上げさせ、抗議の意志を示していたといいます。

島津久光

西郷隆盛が引き起こした西南戦争の際にも、忠義は無関係を貫き、東京から動きませんでした。

こうして、政治面では鹿児島に関わらなかった忠義でしたが、かつての藩校の造士館の再興には力を注ぎ、忠義が私財をつぎ込んで再興された造士館は、第七高等学校となり、現在の鹿児島大学につながるなど、学術面から鹿児島を支えることになりました。

第七高等学校

島津忠義の跡は、4男の島津忠重が継ぎ、公爵の地位も受け継いでいます。

忠重の妹の俔子は、久邇宮邦彦王に嫁ぎ、その娘が昭和天皇の后、香淳皇后となっています。

この香淳皇后の縁から、島津氏の血は現代の皇室にまでつながることとなります。

香淳皇后

一方の忠重は、早くから海軍を志し、海軍兵学校を卒業し、最終的には海軍少将にまで出世します。

軍人としての道と並行して、島津公爵家の財産管理にも積極的に取り組み、財産管理会社であった島津興業を設立、歴代の宝物を収蔵する尚古集成館も開くなど、島津家の伝統を後世に伝える役割を果たしました。

忠重は戦後まで生き延び、一時は島津興業が破綻寸前にまで陥るなど経済的に追い詰められますが、なんとかこれを切り抜け、他の華族が戦後没落していく中、島津家を現代にまで残すことに成功しています。

忠重は1968年に亡くなり、跡を息子の島津忠秀が継ぎました。

忠秀は島津興業の会長を務めた一方、水産学者としても活躍し、水産研究所でアユの生体解明や養殖技術の確率に大きな貢献をしています。

忠秀は、戦前に総理大臣を務めた公家出身の近衛文麿の娘、昭子と結婚しており、その間に生まれた島津修久氏が現在は島津家当主を務められています。

近衛文麿

修久氏の妻は、西郷隆盛の曾孫にあたり、2人の結婚式の仲人は、大久保利通の孫にあたる大久保利謙が務めるなど、幕末の薩摩藩の英雄たちともつながりを持っています。

修久氏は、島津家の庭園、仙巌園や集成館など、島津家の文化遺産を活かした観光事業や、ゴルフ事業などを営む島津興業の会長を務められています。

修久氏の子で、次期当主となる島津忠裕氏も、島津興業の代表取締役社長を務められており、島津氏は、鎌倉時代から現代に至るまで、鹿児島の地に根付き、その伝統を現代、そして未来へつなぐ役割を担い続けています。

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