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竹中半兵衛の子孫のその後 関ヶ原の領主 竹中家は幕末の陸軍奉行に!

竹中半兵衛

こんにちは!レキショックです!

今回は、豊臣秀吉の名軍師として活躍し、黒田官兵衛とともに両兵衛と呼ばれた竹中半兵衛の子孫のその後について紹介します。

竹中半兵衛は、美濃国の斎藤氏に仕え、織田信長に攻められる中、酒食に溺れていた主君の斎藤龍興を戒めるために、わずかな軍で稲葉山城を占拠し、斎藤龍興を追放するといった活躍を見せた武将です。

その後は、故郷に帰り隠遁生活を送っていましたが、その才能に惚れ込んだ豊臣秀吉に仕え、織田信長家臣として各地を転戦する秀吉の快進撃を支えました。

半兵衛は、その類まれなる才能で、軍師として秀吉軍の戦略を担当します。

黒田官兵衛が荒木村重の有岡城で捕虜になった際は、機転を利かせて、織田信長が官兵衛の子の黒田長政の殺害を命じる中、これを保護する活躍を見せます。

しかし半兵衛は病がちで、秀吉の天下統一を見ることなく、1579年の播磨三木城包囲中に病に倒れ、36歳の若さで亡くなってしまいました。

半兵衛は若くして亡くなったものの、竹中家は幕末まで続き、幕末維新の動乱の中で再び歴史の表舞台に舞い戻ることになります。

今回は、天才軍師、竹中半兵衛死後の竹中家のその後について紹介します。

関ヶ原の領主として関ヶ原の戦いを迎える 半兵衛の子 竹中重門

関ヶ原の戦い

竹中半兵衛の死後、竹中家の家督を継いだのは息子の竹中重門でした。

重門は、美濃三人衆の1人で、半兵衛とともに稲葉山城乗っ取りを行ったこともある安藤守就の娘と半兵衛の間に生まれました。

重門が生まれたときは、豊臣秀吉も信長家臣として中国地方の攻略を任せられる立場となり、その縁もあって重門は黒田官兵衛の子の黒田長政と幼馴染として育ったといいます。

重門は、父の半兵衛が亡くなったときにはわずか6歳で、父の従弟にあたる竹中重利の後見を受けることになりました。

重門は幼かったため、本能寺の変後に秀吉が天下人に成り上がっていく過程の戦いで活躍することができず、他の大名たちのように大きな領地を得ることができませんでした。

従叔父の竹中重利は、秀吉の直臣として活躍し、文禄の役後には1万3千石の大名となっています。

それでも、重門は小牧・長久手の戦い小田原征伐などに参陣し、半兵衛の子ということで、従来からの領地である美濃国の菩提山城周辺の5千石を与えられました。

重門は朝鮮出兵では軍目付として渡海し、その功績によって1千石を加増され、計6千石の領主となっています。

朝鮮出兵

重門の名が歴史の表舞台に出てくるのは、関ヶ原の戦いです。

そもそも関ヶ原は重門の領地で、重門は東西をつなぐ交通の要衝を抑えていることとなっていました。

重門は当初は他の美濃国の大名たちと同じく西軍につき、尾張国犬山城の石川貞清の支援に回っていました。

しかし家康家臣の井伊直政や、幼馴染の黒田長政の仲介により、合戦前に東軍に鞍替えします。

そして本戦では黒田長政の軍に属して石田三成らの軍勢と戦いました。

黒田長政

この戦いで重門は自分の領地ということもあり地理に明るく、黒田軍の活躍に大いに貢献したといいます。

戦いは東軍の勝利に終わったものの、重門に残されたのは数多の死体が転がり、荒れ果てた自分の領地でした。

徳川家康は重門に対し、領地に迷惑を及ぼしたことを謝罪し、復興費用として米千石を与えたといいます。

そして重門に戦死者の供養や首塚の建設、寺社の復興を命じ、大坂へ帰還しました。

そのため、重門は戦後も領地にとどまり、復興事業に邁進することになります。

このことから、関ヶ原にとどまった最後の東軍勢力となり、その縁もあって西軍の主力武将、小西行長の捕縛にも関わることとなります。

小西行長

小西行長は西軍の主力として戦うも敗れ、伊吹山に逃れていました。

行長は自分の運命を悟ったものの、キリシタンであったため自害することができず、自分を匿ってくれていた近隣の庄屋の林蔵主に東軍に引き渡して褒美をもらうように勧めます。

しかし林蔵主もそのようなことはできず、近隣の領主の重門の家臣に相談した結果、重門が小西行長を捕縛し、家康のもとへ届けることとなり、家康から恩賞として行長の持っていた名刀を与えられています。

こうして関ヶ原の戦いでは活躍を見せたものの、小勢で黒田長政の軍に属して戦っていたため、本領安堵にとどまり、加増とはなりませんでした。

重門は交通の便を考え、父からの居城であった菩提山城から麓の屋敷に拠点を移しており、以降、この屋敷は竹中氏陣屋として代々竹中氏の拠点となります。

重門は大阪の陣へも参陣し、1631年に58歳で亡くなりました。

旗本として江戸時代を生き抜く 江戸時代の竹中氏

岩手陣屋

重門の死後、跡を継いだのは子の竹中重常でした。

重常は豊臣秀吉の家臣であった加藤光泰の娘と竹中重門の間に生まれた子でした。

加藤光泰は、秀吉のもとで甲斐国24万石を領していた大名でしたが、朝鮮出兵で病死し、息子の加藤貞泰は伊予大洲6万石の大名となっていました。

重常自身は、但馬国豊岡藩主の杉原長房の娘を妻としています。

杉原長房は豊臣秀吉の一門衆で、秀吉の正室である北政所の従弟にあたる人物です。

北政所

長房の姉は小早川秀秋の母にあたるなど、豊臣家とは深いつながりがあり、秀吉ゆかりの家である竹中家もその縁により杉原家から妻を迎えることとなりました。

竹中家は江戸時代を通じて、交代寄合という家格を維持しました。

交代寄合とは、江戸時代における旗本の家格の一つで、旗本でありながら領地に住み、参勤交代を行っていました。

徳川家の譜代の家臣も多くいましたが、山形の最上家など、元は大名であったにも関わらず、減封などにより大名の地位を失い、上級の旗本の身分に落ち着いた家も多くありました。

一方、豊臣秀吉の家臣で賤ヶ岳の七本槍の1人でもある平野長泰の平野家のように、1万石以下の領地をずっと維持していたため交代寄合の家格に収まった家もあり、竹中家も同様でした。

竹中重常の跡は、竹中重高、竹中重長と続いていきます。

しかし、重長には子がおらず、伊予大洲藩主加藤家の一族の加藤重貞の子である重栄を養子に迎えます。

大洲城

これは、竹中重門が伊予大洲藩の藩祖にあたる加藤光泰の娘を妻に迎えていた縁によるものでした。

竹中重栄の跡は、竹中元敏、竹中元儔と続いていきます。

元儔には子がなく、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで活躍した鳥居元忠の子孫にあたる、下野壬生藩の鳥居忠意の子である竹中元恭を婿養子として迎えています。

竹中元恭の妻は、竹中元敏の娘で、兄である元儔の養女となる形で元恭を迎えることとなりました。

しかし、元恭の子である竹中厚之進が急死したことで、竹中家に無嗣断絶の危機が訪れます。

厚之進は、元恭の実子として竹中家を継いでいましたが、幕府へ当主として届ける前に亡くなってしまい、竹中家は急遽当主不在となってしまいました。

そこで急遽、備中国鴨方藩主の池田政方の10男である竹中重寛が、厚之進の代わりとして迎えられ、家督を継ぎます。

幕府に対してはこの入れ替わりも無届けであったため、重寛は系譜上は実子として取り扱われています。

備中鴨方藩主池田家は、岡山藩主池田光政の次男、池田政言から始まる家で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ともゆかりが深い池田輝政の子孫にあたります。

池田輝政

竹中重寛の跡は、竹中重英、竹中重知、竹中重明と続いていきます。

重明と、養子の竹中重固の代に、竹中家は幕末の動乱を迎えることとなります。

戊辰戦争を幕府方として戦い抜く 陸軍奉行 竹中重固

竹中重固

ペリー来航により、日本中が揺れ動く中、幕末の当主、竹中重明は、旗本として、井伊直弼の安政の大獄の実行部隊として活動します。

重明は水戸藩の垣根伊予之助の取締りなどで活躍しましたが、程なくして隠居し、一族の竹中重固に家督を譲りました。

重固は、幕府の軍隊の中でも最も規模の大きい大番組に入り、軍事部門で頭角を現していきます。

この頃は、ペリー来航で危機感を抱いた幕府が、安政の改革で軍制改革を積極的に進めており、井伊直弼の頃に一時ストップはしたものの、西洋軍備の導入を推進していました。

そして桜田門外の変の後、ついに西洋式軍隊である幕府陸軍が創設されることとなります。

幕府陸軍

幕府陸軍はフランス式で整備され、陸軍奉行を長として、歩兵、騎兵、砲兵を擁する近代的な軍隊となっていました。

竹中重固は、幕府陸軍のトップである陸軍奉行に就任します。

重固は、幕府陸軍の指揮官として、水戸の天狗党征伐長州征伐に出兵し、活躍しています。

この活躍もあってか、1867年には若年寄の地位にまで昇進しています。

大政奉還の直前には24000人規模の日本最大の西洋式軍隊となっていた幕府陸軍は、薩長新政府軍との戦いである鳥羽・伏見の戦いにも参陣します。

鳥羽・伏見の戦い

竹中重固は強硬な開戦派だったといい、挙兵決定時には、朝廷に対し薩摩藩を討ち果たす意思表示である討薩表を提出しようとし、薩摩側と問答になったといいます。

そしてついに戦闘になり、薩長軍を上回る圧倒的な兵数で挑んだ幕府軍でしたが、狭い地形で兵力の差を活かせず、指揮系統も混乱し、劣勢を強いられます。

重固は伏見方面の指揮官として伏見奉行所を本陣に戦っていましたが、数に劣る薩長軍の猛烈な銃撃を支えきれず、ついに重固は部隊を放置したまま淀まで撤退してしまいました。

指揮官を失った幕府軍は次々と敗北し、鳥羽・伏見の戦いは薩長軍の勝利に終わります。

重固は幕府軍とともに江戸に逃げ帰りますが、敗戦の責任を問われ、陸軍奉行を罷免され、出家します。

それでも迫りくる新政府軍に対し一矢報いようと、純忠隊を結成し、上野を本拠地とする彰義隊の支部隊として新政府軍と戦います。

彰義隊の敗北後は、旧幕府軍とともに北上し、各地で新政府軍と交戦、ついには榎本武揚とともに蝦夷地へ渡ります。

榎本武揚

一方、幕府軍の指揮官として新政府軍から逆賊とされた竹中家の領地では、隠居していた先代当主の竹中重明が、大垣藩を通して新政府に恭順の姿勢を見せていました。

重明は、竹中家として重固を勘当し、縁を切り、新政府側へ抵抗の意志がないことを示します。

新政府によって所領は没収とされてしまったものの、重明の懸命な恭順の姿勢により、わずかながら300石の領地を新政府から与えられ、竹中家は存続を果たしました。

一方の重固は、蝦夷地に成立した蝦夷共和国で裁判所の頭取に就任し、蝦夷共和国政府の重鎮となります。

そして箱館戦争を戦いますが、養父である竹中重明の勧めにより戦場を離脱し、イギリス船に乗って東京へ行き、新政府に投降しました。

幕府陸軍の指揮官であった重固への処分は重く、領地没収、士族の身分も剥奪され、戦国時代から竹中家と縁のある黒田官兵衛の子孫である福岡藩黒田家預かりとされます。

福岡城

後に竹中家の預かりとなり、1871年には一族を挙げて北海道へ入植することとなりました。

その後の重固は、北海道の開拓に邁進し、1872年には困窮する士族のために北海道殖産事業に関する建白書を政府に提出するなど活躍しています。

この政府への活動の縁もあり、一時は東京府へ出仕したりもしましたが短期間で辞職し、1891年に64歳で亡くなるまで、殖産事業に従事しました。

また、竹中家自体は、先代当主の竹中重明が北海道から故郷の美濃に戻った際に、士族の地位に復帰を果たします。

重明はのちに一族から竹中重時を養子に迎え、竹中家を継がせました。

重時は、岐阜県議会議員を務めるなど、地元のために活動し、その名を後世に残しています。

豊臣秀吉が天下人になる前に竹中半兵衛が亡くなったため、大名の地位は得られなかったものの、幕末に再び歴史の表舞台に舞い戻った竹中家。

戊辰戦争では旧幕府軍敗北のきっかけとなってしまったものの、軍制改革が進むなかで陸軍のトップにまで上り詰めたことは、竹中家の面目躍如といってもいいでしょう。

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