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義経の子孫は続いていた?義経の子 中村朝定の子孫のその後

こんにちは!レキショックです!

今回は、源義経の子孫として続いたとの伝説がある中村朝定の家系について紹介します。

源義経は、静御前郷御前との間にそれぞれ子どもをもうけていましたが、静御前の子は生まれた直後に源頼朝に殺され、郷御前の子は、義経が藤原泰衡に攻められた際に両親とともに命を落としています。

しかし、吾妻鏡には、源義経が奥州に入った際に、男女2人の子を伴っていたとの記述がある一方、衣川で死んだ記録があるのは女子だけで、男子が行方不明になっていることから、義経の子が生きているとの伝説が生まれました。

今回は、義経の隠された子の正体、義経の子といわれている中村朝定の生涯、戦国時代まで活躍した子孫のその後について紹介します。

義経の子は3人いた? 静御前、郷御前との間に生まれた子どもたち

義経の妾 静御前

源義経は静御前との間に男子を1人、郷御前との間に女子を1人残しました。

子どもたちは、義経が壇ノ浦の戦い後、追われる身となってから生まれたものとされており、子どもたちも幼いながら時代の波に飲まれていくことになります。

静御前は子どもを身ごもりながら頼朝に捕まってしまい、生まれてきた子が男の子であったことから、将来に禍根が残らないようにと殺されてしまいます。

一方の郷御前との間に生まれた女子は、同じく義経が逃亡生活に入った頃に生まれており、義経夫妻とともに奥州へ逃げ延び、奥州で成長します。

しかし、奥州到着から1年半後に、奥州藤原氏の当主、藤原泰衡に衣川の館を攻められた際に、義経の手によって郷御前とともに殺されてしまっています。

この女子のほかに、郷御前との間にもう1人男子がいたというのです。

千歳丸、経若と名が伝わっている男子は、吾妻鏡には、義経の奥州入りの際に、正室と男子、女子の子供を連れていたと記述されており、それ以降の記述は見られないものの、郷御前との間に2人の子をもうけていた可能性は十分にあると考えられています。

仮に男子がいた場合、自身の血筋を残すために子供は落ち延びさせるという話はよくあることで、義経も自身の子を逃すことで自身の血脈を伝えようとした可能性はあります。

そもそも存在が疑問視されている上に、衣川で3歳で亡くなったと記述している書物もあることから、可能性はかなり低いのですが、義経の子の生存伝説は、藤原秀衡を巻き込む形で存在しています。

奥州藤原氏3代目当主 藤原秀衡

藤原秀衡は、生前に義経の子を義経の縁者にあたる常陸入道念西に託すように指示し、義経の子は、義経の家臣である常陸坊海尊によって平泉から連れ出されたといいます。

常陸坊海尊は、もとは園城寺の僧であった人物で、衣川で義経が藤原泰衡に討たれた際も、ちょうど外出中で討死せず、後世まで生き延びた人物とされています。

常陸坊海尊が衣川で死んでいないことは、義経の子を伴って事前に平泉を脱出していたとすると、義経の男児が衣川で死んだ記録がないこととあわせて、辻褄が合うのではないでしょうか。

弁慶と並び義経を支えた常陸坊海尊

こうして、義経のもとを離れて常陸入道念西のもとに送られた男児が、常陸入道念西あらため伊達朝宗の養子となり、中村朝定として後の世を生きていくことになります。

中村朝定の生涯 伊達氏とつながりを持ち、鎌倉幕府の御家人に

中村朝定は伊達政宗の祖先 伊達朝宗に匿われた?

義経の子とされている中村朝定の幼少期ははっきりとしていません。

義経が平泉にいたころに、常陸入道念西の養子になったと伝わっています。

この常陸入道念西は、独眼竜伊達政宗の祖先である伊達朝宗と同一人物であると伝わります。

伊達氏の祖 伊達朝宗

伊達朝宗は、もともとは中村の姓を名乗っていましたが、源頼朝による奥州合戦で、頼朝側として奥州藤原氏と戦い戦功を挙げ、現在の福島県の伊達郡、信夫郡を恩賞として受けたことから、伊達を名乗るようになりました。

伊達氏は朝宗の実子が継ぎ、後世へと続いていきますが、朝定も朝宗の養子として、朝宗の娘を妻に迎え、大事に養育されます。

朝定は、特に武術に優れ、弓の達人であったと伝わります。

そして、朝宗が亡くなると、朝宗の遺言に従って、下野国の中村城(現在の真岡市付近)に入ります。

当時、中村城は朝宗の三男の中村資綱の領地でしたが、資綱は鎌倉に常駐しており領内の仕置をほとんどしなかったため、中村の地は荒れ果てていました。

朝定は用水路の開削など、領民のために尽くす良い領主となり、朝定を慕う領民たちは、のちに朝定が亡くなったのち、よそ者であった朝定を中村の地で生きた人という意味の土人として祀り、中村大明神を建立するほどでした。

このように、領民に慕われる良き領主として活躍していた朝定でしたが、3代将軍源実朝の時代に、突如として鎌倉に預けられ、幕府の監視下に入れられてしまいます。

3代将軍 源実朝

朝定に何かの罪が問われたわけではありませんが、朝定の本家にあたる伊達朝宗の子、伊佐為宗に対し、幕府は朝定を屋敷で預かるように命じ、以降朝定はその生涯を鎌倉で過ごすこととなります。

この頃まで朝定は、義宗と名乗っていましたが、幕府の意向もあり、この時に養父の伊達朝宗の一字を取り、朝定と名乗り始めています。

これは、源義経に繋がる義の字を使用するのを禁じたと考えられています。

このことからも、幕府が朝定が源義経の遺児であることを知り、鎌倉に軟禁状態にしたと考えられます。

朝定が義経の子ではなかったにしろ、そのような噂が立ち、朝定が義経の子であると敵対勢力に担ぎ上げられ、幕府に対して反乱を起こされては面倒なことになります。

この頃の幕府は、2代将軍源頼家が排除され、他の源氏の血を引く者たちも、権力を狙う者たちの旗頭に次々と担ぎ上げられては消されており、真偽は別にしろ、朝定も十分危険な人物となっていたのでしょう。

朝定はその後は歴史の表舞台に登場することはなく、鎌倉で生涯を終えますが、朝定の子孫たちはその血を脈々と後世に伝えていくことになります。

中村朝定の子孫のその後 伊達氏とともに南北朝時代を戦う

中村朝定が鎌倉幕府の管理下に置かれてしまったことで、中村氏は領地を失ってしまい、そのまま鎌倉時代を過ごすこととなります。

中村城とその周辺の領地は、鎌倉幕府によって常陸国の小栗氏が地頭に任じられ、中村氏は手出しもできなくなってしまっていました。

中村氏は朝定の子、縫殿助、太郎と続き、太郎の孫の中村経長の代に南北朝時代を迎えます。

中村経長は、足利尊氏に従って各地を転戦し、中先代の乱で北条氏の末裔である北条時行と戦い、相模川の戦いで大功を立て、中村城を与えられ、120年ぶりに本領を回復しました。

室町幕府初代将軍 足利尊氏

しかし、足利尊氏が新田義貞に敗れ、九州に落ち延びると、中村城の経長は孤立することとなり、父の中村義元や、伊達氏の伊達行朝が南朝側として活動していたこともあり、北朝から南朝へ鞍替えしました。

その後は、伊達軍とともに足利方を攻撃し、奥州より進軍してきた南朝方の中心武将、北畠顕家に従って鎌倉攻めにも参加しています。

南朝の主力 北畠顕家

以降も伊達家のもと各地を転戦し、北畠親房が常陸国を中心に北朝方と戦っていた際には、その主力の1人として、かつての伊達氏の本拠、伊佐城を中心に戦いを繰り広げます。

しかし、情勢は南朝方不利となり、北畠親房も吉野へと帰ってしまったことから、伊達氏と経長は次第に孤立無援の状況へと陥り、ついには足利方の大軍に包囲されてしまいました。

伊達行朝と経長は、なんとかこの包囲を突破することに成功しますが、経長の宗家にあたる伊達氏は本国の東北に帰還してしまい、経長は中村城に戻ったものの、次々と頼るべき主君を失い万策尽きてしまっていました。

そんな四面楚歌の経長に手を差し伸べたのが、宇都宮の有力な北朝方勢力であった宇都宮公綱でした。

坂東一の弓取りと楠木正成にも恐れられた宇都宮公綱

宇都宮公綱は、一時期鎌倉攻めで経長と共闘しており、武勇に優れた経長を家臣に取り込みたいと申し出て、滅亡を待つのみの経長にも断る理由はなく、以降中村氏は、宇都宮氏の家臣として、引き続き中村城の城主として続いていくことになります。

宇都宮氏は、紆余曲折ありながらも、下野国の有力な戦国大名へと成長しますが、次第に家臣の芳賀氏などの権力が大きくなり、その勢力は揺らぐようになります。

中村氏はそのような状況下、宇都宮氏の有力な家臣として宇都宮氏の屋台骨を支えます。

戦国時代の当主、中村玄角は、宇都宮家臣の五指に入るといわれるほどの勇猛さを誇り、隣国の結城氏と戦いを繰り広げますが、結城家臣の水谷正村に中村城を落とされ、玄角は討死してしまいます。

跡を継いだ中村時長は、主家の宇都宮氏を頼り、旧領回復の戦いを続け、1586年に、40年ぶりに中村城を取り戻すことに成功しました。

しかし、この頃になると、畿内では豊臣秀吉が天下統一を目前に控えており、小田原北条氏を小田原征伐で降し、天下統一を成し遂げています。

天下人 豊臣秀吉

秀吉は宇都宮氏の居城である宇都宮城で奥州仕置を行い、かつて中村氏の主家であった伊達政宗中村時長はこの時に面会したと伝わっています。

その後も宇都宮氏は豊臣傘下の大名として続き、中村氏も宇都宮氏の主要家臣として2000石を領していましたが、1597年に宇都宮国綱が突如として改易されてしまい、中村時長も所領を失ってしまいました。

中村氏ら宇都宮家臣は、主君に同行することが許されず、宇都宮の地に残り、時長は宇都宮氏の改易直後に亡くなったとされています。

宇都宮家臣の多くは村役人などになったといわれており、中村氏も武士の身分を失ったものと考えられます。

こうして、源義経の血を引いているともいわれている中村氏は、主家の宇都宮氏の改易とともに歴史の表舞台から姿を消すこととなってしまったのです。

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