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西郷隆盛の子孫のその後 子孫は野球選手、法務大臣に!

西郷隆盛

今回は、西郷隆盛の子孫はその後どうなったのかについてご紹介します。

幕末、薩摩藩の指導者として明治維新の中心となり、最期は西南戦争を起こして散っていった西郷隆盛。

死後は賊軍の将として扱われるも、その人柄から明治天皇をはじめ多くの人に慕われていた西郷は、大日本帝国憲法発布に伴い赦され、名誉を回復しました。

上野には西郷隆盛像が造られ、今も東京のシンボルとして多くの人が訪れています。

上野の西郷隆盛像

そんな西郷は子供も多く残しており、明治時代以降、様々な道で活躍していました。

今回は、そんな子どもたちの中から、西郷菊次郎、西郷寅太郎の2人の家系のその後を詳しく紹介します。

西南戦争を父とともに戦う 京都市長にも!奄美大島で生まれた西郷菊次郎

西郷菊次郎は、西郷隆盛愛加那の長男として生まれました。

西郷隆盛の長男 西郷菊次郎

当時、西郷隆盛は尊王攘夷派として幕府に追われていた月照と入水自殺を図り、生き延びたものの、幕府の目をごまかすために奄美大島に送られていました。

ここで地元の名家の娘であった愛加那と結婚し、生まれたのが菊次郎です。

西郷隆盛の妻 愛加那

やがて西郷が藩から許され鹿児島に戻ることになると、菊次郎も西郷家の子供として鹿児島で育てられることとなりました。

この時に、母の愛加那、妹の菊草とは別れて、1人で鹿児島に渡っています。

やがて明治に入り、12歳の時に菊次郎はアメリカに留学しました。

約2年6ヶ月アメリカで過ごし、帰国しています。

菊次郎が帰国した頃、父の西郷隆盛は征韓論をきっかけに政府を去り、故郷の鹿児島に帰郷し、私学校を開き鹿児島の士族たちの指導者となっていました。

やがて政府の政策に不満を持った鹿児島士族たちは西郷を担ぎ上げ反乱を起こし、ここに西南戦争が始まります。

菊次郎も西南戦争に参加し、九州各地を転戦しました。

しかし次第に薩摩軍は劣勢となり、鹿児島に撤退する途中の延岡、和田越の戦闘で菊次郎は右足に銃弾を受け、膝から下を切断する大怪我を負ってしまいました。

大きな被害を受けていた薩摩軍は山越えをして鹿児島に戻ることに決定、菊次郎は西郷家の家人であった永田熊吉とともに戦線を離れ、熊吉に背負われて西郷従道の元へ投降し、命を助けられました。

西南戦争で父の隆盛は命を落としましたが、菊次郎はその後しばらく経って外務省に入っています。

幼い頃からアメリカに留学していた経験を買われたもので、アメリカ公使館などで勤務した後、1887年に再びアメリカ留学に向かいました。

新渡戸稲造から情報を得て、新渡戸が通っていたジョンズ・ホプキンス大学に入学し、政治学を学びます。

しかし西南戦争で失った右足の状態が芳しくなく、留学生活は2年ほどで中断してしまいました。

帰国後は宮内省、外務省で働き、日清戦争後は台湾に転勤、基隆支庁長、宜蘭長官など台湾北部の地域の統治を担当しました。

台湾で約5年ほど務めた後、日本に戻った菊次郎は京都市長に就任します。

菊次郎は京都市長として、京都百年の大計と呼ばれた第二琵琶湖疏水開削、上水道整備、道路拡築および市電敷設という3つの大事業に取り組みます。

工事は数年間におよぶ大規模なもので、財源が大きな課題として立ちはだかりましたが、菊次郎は三井銀行の協力を得て、フランスで約1000億円の外債を調達し、工事を進めました。

菊次郎はこれらの大工事の完成を見ることなく、1911年に病気を理由に京都市長を辞任しますが、現在の京都につながる大工事を進めた菊次郎の功績を讃えて、京都市は菊次郎に多額の慰労金を贈っています。

辞任後は鹿児島に戻り、島津家が管理する金山の管理に携わる一方、金山で働く工員のために夜学校を開いたり、武道場を自費で建設するなど、人材育成にも取り組みました。

こうして余生を過ごした菊次郎は昭和に入った1928年11月に亡くなりました。

東京六大学野球で活躍するも戦場に散った西郷隆盛の孫 西郷準

立教大学時代の西郷準

西郷菊次郎には7男7女、計14人の子がいました。

その中の1人、6男の西郷準(さいごうひとし)は東京六大学野球の名門、立教大学で活躍した投手でした。

祖父隆盛の血を受け継ぎ180cmの長身であった準は1930年に現在の鹿児島県立甲南高校に進学し、野球部に入って活躍します。

当時の甲子園は九州で南北1校ずつの計2校しか出場できないという狭き門で、準も遊撃手、投手として活躍しますが惜しくも決勝で敗れ甲子園出場はなりませんでした。

卒業後は、立教大学に進学し、投手、野手の二刀流の活躍を見せます。

解説者は「投げてよし、打ってよしの大投手西郷」と褒めちぎるほどの活躍を見せ、通算15勝、打率3割台の成績を残しました。

神宮球場に観戦に訪れるファンの間では西郷隆盛の孫ということは知れ渡っており、打たれるたびに「犬はどうした」とのヤジを浴びていたといいます。

しかし準はそうしたヤジを本塁打を放ち黙らせ、歓声に変えていました。

卒業後は現在の朝日生命にあたる帝国生命に就職しますが、1942年に召集され、戦地に送られました。

帝国生命時代の西郷準

そして1945年にフィリピンで戦死しました。

準は戦場で常に手榴弾を10個腰に吊るし、100mは投げられると豪語していたと伝わっています。

現在でも東京ドーム内にある戦没野球人モニュメントに準の名前は記されています。

侯爵の地位に復権した西郷隆盛の嫡男 西郷寅太郎

西郷隆盛の嫡男 西郷寅太郎

西郷寅太郎は西郷隆盛と正室の糸子との間に生まれた子で、西郷家の嫡男として育てられました。

西南戦争で西郷隆盛が敗れたときはまだ11歳で、その後は鹿児島で反乱軍の家族としてひっそりと暮らしていました。

やがて勝海舟など西郷隆盛と旧知の間柄であった人物らの働きかけを受け、寅太郎は明治天皇からドイツ留学を命じられます。

ドイツのポツダム陸軍士官学校で13年もの長い間学んだ寅太郎は、帰国後は陸軍に入りました。

1902年には父隆盛の明治維新での功績から侯爵に叙されました。

この4年前の1898年には上野に西郷隆盛の銅像が建設されており、憲法発布とともに大赦された西郷隆盛は菊次郎の侯爵叙任により完全に名誉を回復したといえます。

寅太郎はその後も陸軍で活躍し、1915年には習志野俘虜収容所所長に就任しています。

この頃、日本は第一次世界大戦でドイツに宣戦布告しており、収容所はドイツ兵の捕虜を収容するために設置されたものでした。

習志野俘虜収容所は捕虜を丁重に扱っており、捕虜との交流をきっかけに日本に本格的なソーセージづくりの技術が広まったというエピソードもあります。

こうした世界の模範たる捕虜収容所を取り仕切っていた寅太郎でしたが、当時流行していたスペイン風邪によって命を落としてしまいました。

寅太郎は高熱に冒されていましたが、敗戦の衝撃に打ちひしがれているドイツ兵に帰国の知らせを届けるために無理をおして収容所に向かったところ、体調を崩し亡くなったと言われています。

寅太郎は習志野俘虜収容所で2番目にスペイン風邪の犠牲となってしまいました。

法務大臣を務めるも問題連発?寅太郎の三男、西郷吉之助

西郷寅太郎の跡は、次男の西郷隆輝が継ぎましたが、隆輝も急死してしまい、寅太郎の三男の西郷吉之助が西郷侯爵家を継ぎました。

西郷隆盛の孫にあたる西郷吉之助

この頃の西郷家は、吉之助の母の信子が浪費家で、侯爵とは名ばかりの逼迫した生活を送っていました。

そんな時に当主の寅太郎が亡くなり、いよいよ家計は破綻、邸宅を売却して当座をしのぎ、母の信子は実家に帰されることとなりました。

そんな中家督を継いだ吉之助は、東北大学を卒業後、日本興業銀行、南方開発公庫などに務めます。

その後、貴族院議員になり政治の世界に入ります。

戦後は参議院議員に当選し、自民党に所属し政界で活躍しました。

1968年に成立した第二次佐藤栄作内閣では法務大臣を務めています。

しかしこの頃の吉之助は私生活で手形を乱発し、借金が4億円近くまで膨らみ、債権者が吉之助に返済を求めて押しかけるといった問題を抱えていました。

これに対し吉之助は、国会議員という立場であるにも関わらず、在日朝鮮人、暴力団などを使って、議員会館内で債権者に暴力や恐喝を行うという事件を起こしてしまいます。

こうした国会議員にあるまじき行動は国会でも問題となり、吉之助は自民党を離党しました。

その後の選挙では、一連の問題で印象が悪くなったためか、敗北し、その後国会議員に返り咲くことはありませんでした。

後年、吉之助の秘書たちによって、入港する船舶の検査に手心を加えるように取り計らっていた、逮捕された暴力団員の刑の停止に力を貸していたなどと暴露されており、国会議員としての不義行為が問題になっている人物でもあります。

まとめ

明治維新の立役者として近代日本発展の礎を築いた西郷隆盛。

西郷の人気は天皇から民衆にいたるまで絶大で、西南戦争での死に対して明治天皇は「西郷を殺せとまでは言わなかった」と悲しんだと言われています。

その人気から西郷生存説も当時から流れており、西郷は中国大陸に逃れて生存しているという噂がまことしやかに囁かれていました。

西郷星を描いた錦絵

西南戦争が起きた1877年に火星の大接近があり、人々は急に現れた異様に明るい星の中に西郷隆盛の姿が見えたと噂し、西郷星と呼ばれ大騒ぎになりました。

ロシア皇帝ニコライ2世が襲われた大津事件の犯人の津田三蔵は、西郷がロシア皇太子とともに帰国するという噂を信じていたといいます。

津田三蔵は西南戦争に従軍し活躍しており、西郷が生きているとその栄光がなくなると思い、ロシア皇太子を殺そうと画策したと言われています。

死から長いときが経っても生存説が信じられていた西郷隆盛。

この絶大な人気もあり、反乱軍のトップの子孫としては異例の復権を果たした子孫たちに目を向けてみるのも面白いかもしれません。

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