偉人解説

静御前、郷御前の生涯 義経を支えた2人の女性のその後

源義経

こんにちは!レキショックです!

今回は、源義経を支えた静御前、郷御前の2人の生涯について紹介します。

源頼朝の弟として、源平合戦で大活躍したものの、兄の頼朝と対立し、追われる身となってしまった源義経。

義経は頼朝の追手をかわしながら、各地を転々としますが、静御前、郷御前の2人も義経に従い続けました。

ともに義経の子を授かりながらも、静御前は頼朝に捕まり、子を奪われ、郷御前は義経に最後まで連れ添い命を落とすといった正反対の道を歩むこととなった2人。

今回は、義経に従って波乱の生涯を送ることとなった静御前、郷御前について紹介します。

頼朝に義経との子を奪われる 静御前の生涯

静御前

静御前は白拍子のはじまりともいわれる磯禅師の娘として生まれました。

母の磯禅師は、平清盛と組んで国政改革に取り組んだ信西が選んだ歌を、白い水干を着て、男装姿で踊り、白拍子の元祖となったといわれており、貴族の屋敷などに白拍子の派遣を行う元締めのような役割を担っていました。

そんな磯禅師を母に持つ静御前も、自然と白拍子としての道を歩むようになります。

源義経との出会いは定かではありませんが、平家追討のために京都に出てきていた義経のもとに白拍子として派遣され、そこで縁を持ったのでしょう。

義経には、正室の郷御前がいましたが、義経は静御前も同様に愛し、2人の仲は睦まじかったようです。

義経は、後白河法皇によって検非違使に任じられ、京都にいることが多かったものの、やがて平家追討のために西に向かい、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼす大活躍を見せます。

壇ノ浦の戦い

しかし、平宗盛を連れて鎌倉に凱旋しようとした義経は、頼朝に面会を拒絶され、ここから義経の運命は大きく変わります。

頼朝は義経に謀反の疑いありとして、土佐坊昌俊を刺客として送り、これを撃退した義経は、打倒頼朝を掲げ、後白河法皇から頼朝追討の院宣を受けます。

土佐坊昌俊による義経夜討

しかし、義経のもとに集まる兵は少なく、義経は西国で態勢を立て直そうと船に乗り、静御前もこれに同行しました。

この義経の船は、嵐のために難破し、家臣たちとも離れ離れになった義経は、静御前ら少数の供を連れて、吉野の山中に逃げ延びます。

この頃、頼朝は義経捕縛のために、全国各地に守護・地頭を設置することを朝廷に認めさせ、北条時政が京都守護として京都に入るなど、義経包囲網が着々と構築され、義経は吉野を離れることを決意しました。

この時に、義経は逃避行に連れ添ってきた静御前と別れる決断をします。

義経は、弁慶らわずかな供とともに吉野山を脱出し、静御前には供をつけて、京都へ逃がそうとしました。

この時静御前は義経の子を妊娠しており、義経としてはこれ以上の逃亡に付き合わせることはできない、無事に自分の子を産んでほしいという思いだったのでしょう。

こうして義経と別れた静御前でしたが、義経に付けられた供に裏切られ、持っていた金を奪い取られ、山中をさまよっている中、頼朝の追手に捕まってしまいました。

京都の北条時政の屋敷に送られた静御前は、鎌倉の頼朝のもとへ母の磯禅師とともに送られます。

北条時政

頼朝は静御前に対し、義経の行方を聞き出そうとしますが、静御前は義経の行方は知らないと貫き、頼朝も詮索を諦めています。

静御前はしばらくの間鎌倉に逗留することとなり、滞在中に、頼朝は有名な白拍子である静御前に舞を舞わせようとしました。

義経の敵である頼朝の前で舞を踊ることを静御前は何度も断りましたが、最終的には折れ、別れた義経を恋い焦がれる舞を披露します。

義経と敵対する自分へのあてつけのように舞を舞う静御前に頼朝は激怒しますが、北条政子が、「私が静御前の立場であっても、同じように舞う」と取りなし、静御前は頼朝の怒りを買わずに済みました。

北条政子

また、工藤祐経や、梶原景時の子の梶原景茂らが、酔った勢いで静御前のもとへ行き、宴会をし、梶原景茂が静御前を口説こうとしたこともありました。

これに対し静御前は、本来であれば頼朝の弟である義経の妾の自分に対面することすらできない身分なのに、義経が落ちぶれたからといって、男女の仲を持ちかけるなどもってのほかと一蹴しています。

義経はまだ死んでおらず、お腹の中に義経の子を宿していた静御前にとっては当たり前のことだったでしょう。

しかし、頼朝は静御前の子を奪い取ろうと画策していました。

女子であれば生かそうとしていましたが、男子であれば、将来の災いのもととなるため、生まれた直後に殺そうとしていました。

木曽義仲の子の源義高と同じことをここでも繰り返そうとしていたのです。

源義高

静御前もそのことは察しており、静御前と連絡を取り合っていた北条政子、大姫親子も、生まれたばかりの子が殺されるなんてことをさせないように動いていたといいます。

しかし、生まれてきた子は男の子で、頼朝は子を取り上げようとします。

静御前はこれに激しく抵抗しますが、最終的には、連れ添っていた母の磯禅師によって頼朝の家来に子は引き渡され、子は鎌倉の由比ヶ浜に沈められてしまいました。

鎌倉

義経の子の抹殺に成功した頼朝にとって、静御前は用済みとなり、子を奪われ絶望の淵に突き落とされた静御前は京都に帰されることとなります。

北条政子は頼朝に何度も静御前の子を救うように嘆願していましたが叶わず、憐れみの意味を込めて、静御前にたくさんの宝物を持たせました。

京都に戻った後の静御前のその後については、確かなことはわかっていません。

ただし、他の男性に嫁ぐこともなく、若くして亡くなったようです。

一説には、義経の後を追って、奥州に向かったとされています。

しかし、途中で義経が衣川で討たれたことを聞き、移動で無理がたたったのもあり、現在の宇都宮のあたりで亡くなったといいます。

他にも、全国各地に静御前の伝承は残されており、墓も各地に残っています。

義経生存伝説に関連して、静御前が東北で義経と再会し、2人目の子を身ごもったという伝説も残されています。

岩手県宮古市には、義経が平泉を抜け出し、静御前とともに立ち寄ったとされる鈴ヶ神社が残っており、静御前はここで義経の子を出産しようとしますが、難産の末、母子ともに亡くなり、のちに静御前を祀ったのが神社として残っているというものです。

正室として最期まで義経に付き従う 郷御前の生涯

衣川

郷御前は、源頼朝の御家人である河越重頼の娘として生まれました。

河越重頼は、現在の埼玉県川越市のあたり一帯を領しており、武蔵国でも有数の勢力を誇っていました。

重頼の妻である河越尼は、頼朝の乳母である比企尼の次女で、のちの2代将軍源頼家の乳母を務めるなど、源氏一族、比企一族ともつながりの深い家となっています。

比企一族と源氏の結びつきを強めたい頼朝の意向で、郷御前は16歳の時に京都にいた源義経のもとに嫁いでいます。

河越重頼は、子どもたちを伴って義経の戦いに従軍しており、義経は頼朝によって、武蔵国の大勢力である河越氏を勢力基盤としてもらったことになります。

義経はその後も屋島の戦い壇ノ浦の戦いと快進撃を続け、ついに平家を滅ぼす大活躍を見せました。

屋島の戦い

こうして、源氏と河越氏の結びつきの象徴となった郷御前でしたが、平家滅亡直後から、その運命は暗転していきます。

義経は捕虜として平宗盛らを伴って鎌倉に凱旋しようとしますが、頼朝は無断での任官や専横な振る舞いを咎め、鎌倉入りを許しませんでした。

義経もこれに怒り、頼朝との断交を宣言し、頼朝も義経に謀反の疑いありとして刺客を差し向け、義経も後白河法皇から頼朝追討の院宣を受けるなど、両者の仲は決裂してしまいます。

後白河法皇

郷御前の実家である河越氏は、この対立のあおりをもろに受けることとなってしまいました。

河越重頼は、義経の縁戚であることを理由に所領を没収されてしまい、のちに嫡男の河越重房とともに誅殺されてしまっています。

これは、義経との対決を決意した頼朝が、その後ろ盾となる可能性のある河越氏の勢力を未然に潰したものとされています。

一方の義経は、弁慶らわずかな手勢を伴って、静御前とともに西国へ落ち延びようとしますが、この逃避行には郷御前は同行しませんでした。

もっとも、これは義経が郷御前を嫌ったというわけではなく、郷御前が妊娠していたため、出産を優先したものでした。

郷御前は頼朝の追手から逃げながら京都で潜伏生活を送り、女子を出産します。

一説には、義経の母で、一条長成の妻となっていた常盤御前の手によって匿われていたともいいます。

常盤御前

やがて、吉野山で静御前と別れた義経は京都に戻ってきます。

この頃の義経の動向は定かではありませんが、親義経派の公卿など支援者の手によって各地で匿われていたといい、もしかしたら、母の常盤御前の手によって郷御前と夫婦でどこかに匿われていたのかもしれません。

やがて、義経は奥州平泉の藤原秀衡のもとへ落ち延びることを決意し、郷御前や娘を伴って、山伏姿に身をやつし、奥州へ逃避行の旅を続けました。

そして藤原秀衡の庇護のもと、約2年の月日を平泉で過ごしました。

藤原秀衡

郷御前は、義経とともに平泉へ同行していた天台宗の僧頼禅に帰依し、雲際寺を再興したと伝わります。

奥州の支配者である藤原秀衡は、義経を将軍に立て、頼朝と対立しようとしましたが、そのうちに亡くなってしまい、平泉での平穏な日々も終わりを迎えます。

跡を継いだ藤原泰衡は、頼朝によって義経の追討を命じられるなど、頼朝の離間工作に引っかかってしまい、義経と奥州藤原氏の関係は悪化してしまいます。

義経は出羽国で奥州勢を率いて頼朝軍と戦うなど活躍していましたが、頼朝との対立を避けたい藤原泰衡によって、ついに居住していた衣川の館を襲撃されてしまいました。

これ以上の抵抗はできないと悟った義経は、郷御前と4歳になった娘を殺害し、自害したと伝わります。

義経は31歳郷御前は22歳での死でした。

北条氏による創作だった?静御前と郷御前の実態

中尊寺金色堂

紹介した静御前と郷御前のエピソードは、吾妻鏡に記載されている内容をもとにしています。

吾妻鏡は、北条氏によって編纂されており、源氏一族の否定北条政子の礼賛北条氏と対立していた比企能員の一族の否定といった観点から描かれています。

特に、比企一族については、比企能員が2代将軍源頼家に娘を嫁がせ、子も産んでいたことから、北条氏とは幕府の主導権を巡って激しく対立しており、最終的には北条氏の謀略によって一族滅亡させられています。

源頼家

そのため、比企一族の詳細については多くが闇に葬られており、そのせいで、比企能員の与党であった河越重頼の娘である郷御前についてはあまり記述がなく、その存在を消すために静御前のエピソードが多用されたという面があります。

静御前のエピソードでは、源氏の否定のために頼朝が必要以上に悪く描かれている他、北条政子が静御前の子を助命しようとしていたとして、持ち上げられています。

頼朝との対比で義経が持ち上げられたこともあり、特に静御前は悲劇の女性として取り上げられ、正室の郷御前と比べて、知名度も高いものとなりました。

一方の郷御前は、母の河越尼が、比企尼の娘であり比企一族と特に関わりが深く、北条氏と比企一族の対立が本格化する前に河越氏が滅ぼされているにも関わらず、その存在感を消されてしまっています。

静御前と郷御前という義経が愛した2人の女性たちは、同じ悲劇の生涯を歩みながらも、その出自から、死後は対極的に利用されることとなってしまったのです。

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