偉人解説

梶原景時の生涯 文武両道の優秀な武将は御家人たちの嫌われ者に

梶原景時

今回は、石橋山の戦いで敗北した源頼朝を見逃し、のちに頼朝に仕え、13人の合議制の1人にもなった梶原景時について紹介します。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、中村獅童さんが演じる梶原景時。

頼朝に重く用いられ活躍しますが、御家人たちには嫌われ、やがて自分の身を滅ぼしてしまいます。

荒くれ者揃いの鎌倉武士の中では珍しく文武両道で教養もあった梶原景時、その波乱万丈の生涯を紹介します。

絶体絶命の頼朝を救う 平家方から頼朝の重臣に

梶原景時

梶原景時は、坂東八平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族の家に生まれました。

石橋山の戦いをともに戦う大庭景親も梶原氏とは同族の関係にあります。

源平合戦前後の梶原氏は、大庭氏と行動をともにしており、一時期は源頼朝の父、源義朝に従っていましたが、平治の乱で源義朝が敗北した後は、平家に従っていました。

相模国の平家方勢力は、平清盛と近い関係にある大庭景親が主導権を握っており、梶原景時も景親に従い行動するようになります。

平清盛

やがて、伊豆に流されていた源頼朝が北条氏らとともに打倒平家のために挙兵し、伊豆国目代の山木兼隆を襲うと、景時は、大庭景親に従い頼朝討伐に向かいます。

わずか300の兵しかいない頼朝軍に対して、大庭景親らは3000もの軍を率いて攻撃、頼朝軍は大敗し、土肥の椙山に逃げ込みました。

平家方は頼朝を厳しく追い詰め、頼朝軍は頼朝自ら弓矢をもって戦うほどの抵抗を見せますが、次第に追い詰められ洞窟の中に身を隠します。

景時は追討軍として山中の捜索に携わりますが、頼朝が潜む洞窟を発見、頼朝と顔を合わせてしまいます。

敵に見つかった頼朝は観念し、自害しようとしましたが、これを見た景時は頼朝に対し「お助けしましょう、あなたが戦に勝った時は私のことを覚えていてほしい」と告げ、頼朝を見逃します。

その後、大庭景親が洞窟を見つけ、怪しんで入ろうとするも、景時は「洞窟には誰もいなかった。私を疑うならただじゃおかない」と洞窟への侵入を防ぎ、頼朝は九死に一生を得ることとなりました。

逃げ延びた頼朝が上陸した安房国の石碑

景時によって逃された頼朝は船で安房国に渡って再起を図り、わずか1ヶ月ほどで千葉常胤、上総広常など房総半島の武士を味方につけ、あっという間に勢力を盛り返しました。

そして富士川の戦いで京都から来た平家軍を撃破、大庭景親ら関東の平家方武士も頼朝に降伏し、頼朝は関東地方から平家方勢力を駆逐することに成功します。

景時もこの時に、頼朝の配下の土肥実平を通じて頼朝に降伏しました。

土肥実平の取りなしもあり、石橋山の戦いでの恩もあったことから、頼朝によって御家人に取り立てられました。

景時は、荒くれ者揃いの鎌倉武士の中では珍しく、教養があり弁舌も立ったことから頼朝に重く用いられるようになります。

景時は鶴岡若宮の造営、北条政子の出産の奉行など様々な仕事を任せられ、やがて御家人たちをまとめる侍所の次官にまで出世します。

武勇にも優れており、鎌倉政権下で最大の兵力を有しており、謀反の疑いのあった上総広常に対し、頼朝に暗殺を命じられ、広常と双六をしている最中に殺害するという活躍を見せています。

2万の軍勢を率いて頼朝に味方した上総広常

こうして、元は平家方であった景時は、頼朝配下の有力御家人として次第に活躍の場を広げていくこととなるのです。

平家追討のために転戦 源義経と対立

木曽義仲

頼朝が関東で勢力を確立している間に、同じ源氏の木曽義仲が上洛し、平家勢力を一掃、平家の勢いは日に日に衰えていました。

一方、京都から平家を追い払った木曽義仲は、配下の武士たちの乱暴狼藉を抑えられず、後白河法皇は源頼朝に義仲討伐を命令、鎌倉政権の武士たちは義仲討伐のために上洛し、景時も義仲討伐に出陣することになりました。

義仲との戦いである宇治川の戦いでは、景時の子の梶原景季が、佐々木4兄弟の1人、佐々木高綱と先陣争いを演じ、武功を挙げています。

宇治川の戦いでの先陣争い

この戦いでは景時も、源義経ら主だった武将たちが頼朝への戦勝報告を勝利の事実程度しか伝えなかったのに対し、合戦の様子や討ち取った敵の詳細などを記し、頼朝に実務能力の高さを褒められています。

その後も一ノ谷の戦い、屋島の戦いと従軍し、一ノ谷の戦いでは平家方の大将、平知盛とのちに梶原の二度駆けと呼ばれる激闘を繰り広げ、息子の景季が敵将の平重衡を捕らえるといった活躍を見せました。

事務能力も高かった景時は、平家の所領の接収にもあたり、播磨など中国地方5カ国の守護に任じられるなど、文武両面で活躍しています。

しかし景時は、同じく平家追討にあたっていた源義経とことあるごとに対立してしまいます。

源義経

屋島の戦いでは、鎌倉武士にとって不慣れな海戦に臨むにあたり、景時は船の前後に櫓をつけ、進退を自由にすることを提案、これに対し義経は兵士が臆病風に吹かれるとして反対します。

景時も義経の反論に対し、進むばかりで退くことを知らないのはただの猪武者だと言い放ってしまいました。

さらに、暴風雨の中、景時が出陣を見合わせていると、義経はわずかな兵を率いて屋島の平家を急襲、平家は慌てて逃げ出し、景時が出陣した時にはもぬけの殻となっており、周りから嘲笑された景時は義経に深い恨みを抱くこととなります。

屋島の戦いでの景時と義経の『逆櫓論争』の様子

平家を追い詰めた壇ノ浦の戦いでも義経と景時は対立し、先陣を希望する景時に対し、義経は自らが先陣に立つと言い、景時は「総大将が先陣なんて聞いたことがない、大将の器ではない」と義経を愚弄し、あわや斬り合いになる寸前までいってしまいます。

戦いには勝利し、平家を滅ぼした景時でしたが、義経への怒りは収まらず、頼朝への報告の中では「義経は功を誇り傲慢であり、武士たちは薄氷を踏む思いでいる、私が義経を諌めても怒られるばかりでこのままでは罰を受けかねない、早く関東に帰りたい」と訴えました。

景時と同じく義経を不快に思っている武士たちも多かったことから、義経は鎌倉への帰還を許されず、京都に追い返されています。

さらに景時は、義経が頼朝に対し謀反を企んでいると訴え、頼朝は義経追討を決意、義経は奥州藤原氏のもとへ逃れ、そこで討たれることとなりました。

一方、景時はこの頃からありもしない噂をでっち上げ、他人を陥れる讒言を行っているとして御家人たちの恨みを買うようになります。

その代表的な例が、武蔵国の畠山重忠を景時が謀反の疑いありと訴えた事件です。

実直で武勇にも優れていた畠山重忠は、頼朝の信頼も厚く、重忠が罪を冒して謹慎している最中に、罪を恥じて絶食したことで、頼朝は重忠の武勇を惜しみこれを赦免しました。

一ノ谷の戦いで馬を担いで崖を下る畠山重忠

しかし景時はこの措置に不満で、重忠が謀反を企んでいると讒言します。

重忠はこれを恥辱に感じ、自害しようとまでしますが、使者に説得され頼朝と景時の前で堂々と身の潔白を主張し、頼朝も疑いを解くことになりました。

これ以前にも景時が讒言をすることは度々ありましたが、人望の厚い重忠を陥れようとしたことで、景時は一気に御家人たちから恨まれるようになります。

それでも頼朝の景時に対する信頼は変わらず、1192年には御家人を取り締まる侍所の別当の座に和田義盛に代わって就任しています。

頼朝にとっても、字すらまともに書けない鎌倉武士たちの中で、武勇、実務能力両方に優れ、和歌も嗜むほどの教養を持つ景時はそれだけ貴重な存在だったのでしょう。

実務能力が高く主君に気に入られる一方、武勇一辺倒の者に嫌われるのは、豊臣秀吉のもとで五奉行を務めた石田三成に通ずるところがあります。

頼朝には生涯を通じて重く用いられた景時でしたが、頼朝の死後、景時の運命は大きく変わることとなります。

御家人66人に糾弾される 嫌われ者の末路

2代将軍 源頼家

源頼朝が亡くなった後も、景時は2代将軍源頼家に重く用いられました。

しかし、侍所別当として御家人の勤務評価や取締りにあたる景時は、御家人から恨みを買いやすく、景時に対する御家人たちの不満は日増しに高まっていきました。

この頃、わずか18歳であった頼家では政務に対処しきれないとして、有力御家人13人の合議制によって幕府の政治は進められることとなります。

頼家から一の郎党として重く用いられていた景時もこの13人に名を連ね、幕府政治の中枢を担うこととなりました。

この頃から幕府内でも北条氏をはじめ、御家人たちの権力闘争が活発化するようになり、ついに景時の権勢にも陰りが見え始めます。

景時転落のきっかけとなったのが、下総の有力御家人であった結城朝光による景時糾弾です。

結城朝光

結城朝光はある日頼朝の思い出話を語り、「頼朝が亡くなった時に出家すべきだった、今の世は何やら薄氷を踏むような思いがする」とぽろっと語ります。

後日、北条時政の娘で、頼家に仕える女官である阿波局が、朝光に対し、昨日の発言が景時によって謀反の証拠として将軍に讒言され、処罰されることになっていると告げます。

これに驚いた朝光は、三浦義村と相談し、他の御家人にも呼びかけて景時に対する糾弾状を作成することにしました。

これに賛同した御家人は66名にも及び、糾弾状を見た頼家は景時に弁明を求めますが、景時は一切弁明しませんでした。

景時を信頼していた頼家でしたが、景時憎しで集まる御家人の前では景時をかばうことはできず、景時は鎌倉追放を言い渡されてしまいます。

朝廷と繋がりのあった景時は、鎌倉を離れ上洛しようとしますが、その途上の駿河国で、偶然に居合わせた吉川氏ら在地の武士団によって襲撃され、一族がことごとく討たれ、観念した景時も自害して果てました。

景時失脚の一連の黒幕は北条時政であったともいわれています。

鎌倉幕府初代執権 北条時政

失脚の原因となった景時の糾弾状は時政の娘、阿波局がきっかけとなって、御家人を巻き込んで作られたものであること、景時が討たれた駿河国は時政の勢力圏であったことが理由として挙げられています。

景時を討った吉川氏ら在地武士も、時政の命を受けて景時を襲ったというものです。

景時失脚に関しては、北条氏はあくまでも黒幕として動いたに過ぎませんが、これ以降、力をつけていった北条氏は、有力御家人たちを次々と滅ぼし、鎌倉幕府の実権を握っていきます。

景時死後の梶原氏 織田信長に仕えた末裔も

梶原氏の一族は、景時をはじめ、景時の子の梶原景季、景高、景茂など、一族のほとんどが討たれてしまいました。

景時死後の梶原氏は、景時の弟の梶原朝景が跡を継ぎます。

しかし朝景も、北条氏による有力御家人討伐の流れの中で、和田義盛と北条義時の戦いである和田合戦に和田方として参戦、討死してしまいました。

和田合戦

また、景時の次男の梶原景高の子、梶原景継は、3代将軍源実朝の代になって幕府への帰参を許されましたが、承久の乱において朝廷側として幕府と戦い戦死しています。

その後の梶原氏の生き残りは、各地に散っていきます。

その中でも、武蔵国で生き延びた武蔵梶原氏は、室町時代に入り、鎌倉公方の奉公衆として活躍、戦国時代に入って断絶していましたが、梶原氏の名跡を利用しようとした戦国武将、太田資正によって再興され、古河公方の家臣として戦国時代まで生き延びています。

また、尾張の梶原氏は、現在の犬山市にあった羽黒城を本拠に織田氏に仕え、戦国時代の当主、梶原景久は、織田信長に従って各地を転戦、本能寺の変で最後まで織田信長を守り、討死しました。

本能寺の変

他にも、讃岐国に進出し、瀬戸内海の海賊として活動し、福岡藩黒田家に仕えた梶原氏など、景時の子孫は全国各地で細々とその血脈を伝えました。

宮城県気仙沼市には、梶原氏ゆかりの早馬神社(はやまじんじゃ)が現在でも残っています。

景時の兄で、鶴岡八幡宮の別当を務めていた梶原景実が、梶原氏の没落後、北を目指して逃げる途中に気仙沼に土着、一族を弔うための神社を建立しました。

その後、景時の三男、梶原景茂の子である梶原景永がこの地を訪れ、神職となり早馬神社を創建しました。

それ以来、現代に至るまで子孫が続いています。

まとめ

文武両道の武将として頼朝の厚い信頼を勝ち取った梶原景時。

しかし、荒くれ者がほとんどの鎌倉武士の中では景時は異質で、武士たちの恨みを買って自らの身を滅ぼすことになってしまいました。

景時は、嘘をでっち上げ人を陥れる悪者のように取り上げられることが多く、源義経を窮地に追い込んだ張本人でもあることから、テレビドラマなどでも悪役として描かれることが多い人物です。

ただ、北条氏に都合の良いように書かれている吾妻鏡がほとんどの出典となっており、景時が本当に讒言をしていたのか、統率の取れない武士たちを決まりに則って報告していただけなのか、真相は分かりません。

ただし、頼朝に重く用いられ、侍所の別当にまで上り詰めていることからも、ただ頼朝に気に入られていただけではなく、実務能力の面では群を抜いていたのでしょう。

かつての悪役のイメージから再評価が進んでいる最中の梶原景時。今後どのように取り扱われることとなるのか、注目されます。

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  1. […] 源頼家には、比企氏の他にも梶原景時が後見人としてついていましたが、御家人の恨みを買って失脚してしまってからは、比企能員を中心とした比企氏が頼家を支えていました。 […]

  2. […] こうした事件があった一方、盛長は、御家人66人が梶原景時を弾劾した梶原景時の変では、強硬派として景時追放を主張、13人の合議制の崩壊に一役買っています。 […]

  3. […] 政治だけでなく、武士として戦場でも活躍しており、奥州合戦では、和田義盛や梶原景時らとともに特に勲功のあった10人の1人として官位を与えられるなど、文武両道の活躍を見せていました。 […]

  4. […] さらに、武勇一辺倒で、口下手な直実は、この不利を覆すだけの答弁をすることができず、最終的には、梶原景時が直光をひいきにしているため、自分の敗訴は決まっているも同然と、髻を切り、逐電してしまいました。 […]

  5. […] また、工藤祐経や、梶原景時の子の梶原景茂らが、酔った勢いで静御前のもとへ行き、宴会をし、梶原景茂が静御前を口説こうとしたこともありました。 […]

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