誰もが知る文豪、夏目漱石
『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『三四郎』『こころ』などの代表作を世に生み出し、
特に高校現代文で『こころ』を読んだという経験のある人も多いのではないでしょうか。
人間味の溢れる展開は、時代を超えて、自分の生き方を見直すきっかけを与えてくれます。
「人を信じるとは」
「人を裏切るとは」
「人生を全うして生きるとは」
…と限りなく深い問いを投げかけてくれます。
そんな作品を生み出した夏目漱石はどのような人生を歩んだのか?
この記事を読めば、現代でも通用する漱石の「生き様」が浮かび上がってきます。
漱石の「生き様」が現状を打開するヒントを教えてくれるかもしれません。
それではさっそく見ていきましょう!
壮絶な少年時代
夏目漱石は、壮絶な子ども時代~壮年期を過ごしています。
漱石は1867年2月9日(慶応3年1月5日)「夏目金之助」と名付けられ、生まれました。
しかし漱石が生まれた時、父親は50代、母親は40代で、当時では超高齢出産でした。
また、母親が違う父の連れ子の姉1人、兄が4人もいたこともあり、誕生はあまり祝福されず、生後すぐに、古道具屋に養子に出されます。
けれど、すぐに夏目家に戻ってきます。
店先のカゴに入れてぞんざいな育てられ方をしているのを見かねた連れ後の姉が、漱石を連れて帰ったとという逸話もあるぐらいなので、あまりよい里親ではなかったのでしょう。
夏目家に戻ったとはいえ、子沢山な夏目家ではやはり育てるのが厳しく、漱石はすぐに別の家に養子に出されてしまいました。
今度は「塩原家」という名家に養子に出されます。
夏目家の実父と塩原家の養父間に交流があり、塩原家の養母がかつて夏目家に奉公していた過去があったことから、縁組が決まったのでした。
しかし漱石が7歳のころ、塩原家の養父は別の女性と不倫関係になり、養母とトラブルになります。
塩原家夫妻は離婚、養父はその不倫相手と結婚しますが、女性側に連れ子がおり、漱石にとっては過ごしづらい家庭環境になってしまいました。
実家に戻ってはきたけれど…
再び夏目家に戻された漱石ですが、養父が漱石のことを戸籍上の養子としてではなく、実子として届け出ていたために、夏目家に戻っても塩原の苗字が取れず、どっちつかずの不安定な状態を送ります。
結果、夏目家にいるのに「塩原金之助」として、歓迎されていない生活を10年以上続けることになります。
漱石が夏目の苗字を取り戻して、夏目家に戸籍の上でも戻れたのは21歳。
その際、塩原家と夏目家は「家に戻るなら養子として育てたこれまでの養育費を払ってくれ」と、漱石をめぐって金銭トラブルになったようです。
漱石は幼少期から青年期まで周りの環境に振り回される人生を歩んできたのでした。
苦い経験が作品に投影されている
まだ世の中の厳しさを知らない20代そこそこの年齢で、自分が愛情だと信じていたものをお金でなかったことにされる出来事を経験したことは、漱石の価値観や人格にどれほどの影響を及ぼしたかはわかりません。
この壮絶な経験は、作家としてデビューした後の漱石の作品にも色濃く現れることとなりました。
実際、漱石の作品の『道草』には、自身がモデルになっているであろう留学帰りの主人公と、塩原家がモデルになっているであろう、金をせびる男性が描かれ、漱石自身の自伝と言われています。
また、ほかの作品も、読み進めるとずっしり心に来るものがあり、
時代を超えて普遍的な「自己愛」や「猜疑心」といったテーマが横たわっているのを感じます。
弟子への愛情
しかし、そうした逆境にも関わらず、厳しくはあっても来るもの拒まずの姿勢で、漱石は弟子を迎え入れました。
信頼している弟子はどんなに問題児でも、まっとうにしてやりたいと何かと手助けをしたり、頻繁に手紙を出したりと面倒見がよかったといわれています。
その漱石の弟子に向けるまなざしの温かさから、弟子は誰もが「自分こそが一番の愛弟子だ!」と信じるほどだったか。
そんな漱石の弟子には、教科書にも出てくるような、誰もが知る文豪や偉人が沢山名を連ねています。
漱石の面倒見の良さが、その後の日本の文学や文化を創ったと言っても過言ではありません。
例えば、寺田寅彦。
今でいう東京大学大学院を卒業した漱石は、愛媛県の尋常中学校を経て、現在の熊本大学に当たる熊本第五高等学校で教鞭を取りましたが、そこでの教え子が寺田虎彦でした。
英語教師としてスパルタだった漱石も、優秀な寅彦には優しかったようです。
寅彦はそんな漱石に傾倒し、最も古く、最も信頼された門下生となりました。
そんな寅彦は、文学だけではなく、なんと物理学でも大きな功績を残しています。
俳句や随筆を執筆する傍ら、X線の研究にも携わった、まさにエリート。
漱石も弟子とはいえ寅彦をリスペクトしており、物理学のことを寅彦に尋ねては、それを題材に小説を書いたりしていたそうです。
また、『羅生門』『蜘蛛の糸』で有名な芥川龍之介も、漱石の門下生でした。
芥川もかなり漱石に傾倒しており、『鼻』という作品が乗った同人誌『第四次新思潮』は、そもそものコンセプトが「漱石に読んでもらいたい!」だったといわれており、その同人誌に寄稿した芥川の熱量が伝わります。
そんな情熱が無事漱石の目に留まり、当時無名の学生である芥川の『鼻』を、有名作家の漱石が褒めた、と話題になりました。
他にも、日本で初めての児童書雑誌『赤い鳥』の刊行に携わった鈴木三重吉など、有名な門下生は多くいます。
漱石の生き様から学べる事
人生の大切な時期である青年時代に実家から虐げられ、十分な愛情を受けることがなかった漱石。
普通の人間だったら、生まれ落ちた環境を憎み、人生を悲観し、歪んだ人格が形成されてもおかしくないのではないでしょうか。
しかし、漱石は違いました。
自身の壮絶な幼少期で、病んでしまうほどに不安定な心でいながら、その境遇に不貞腐れることなく、逆にその精神を歴史に残る「文学」という形で昇華させました。
また、自らの不遇を人に押し付けず、周りの門下生には愛情を注ぎ、その後の文化の発展に寄与したことは、漱石の作品そのものと同じぐらい、素晴らしい功績といえるのではないでしょうか。