偉人解説

以仁王の生涯 天皇への道を絶たれた男の挙兵が源平合戦の引金に

後白河法皇の第三皇子 以仁王

今回は、源平合戦の引き金となった以仁王について紹介します。

『以仁王の令旨』を出して全国の源氏に打倒平家を促したことで知られる以仁王。

挙兵したもののあっけなく平家に敗北してしまいますが、彼の挙兵は源頼朝をはじめ諸国の源氏が決起するきっかけとなり、やがて平家滅亡へつながることとなります。

彼の挙兵の背景には、平家への不満以上に、皇位継承への道が絶たれ、挙兵以外に打つ手がなくなっていた状況がありました。

今回は、なぜ以仁王は挙兵に至ったのか、平家によって邪魔された以仁王の不遇な人生を紹介します。

後白河法皇の子として生まれるも邪魔者扱い

以仁王の父、後白河法皇

以仁王は、後白河法皇と大納言 藤原季成の娘、成子の子として1151年に生まれました。

当時の後白河法皇は、まだ雅仁親王として、皇太子にもされておらず、皇位継承とも無縁で遊興に明け暮れる生活を送っていました。

後白河法皇には最初の妃である源懿子との間に後の二条天皇がいましたが、二条天皇を産んだ直後に懿子は急死してしまっています。

その後に妃となったのが以仁王の母である成子でしたが、後白河法皇から重んじられることはなく、以仁王の兄の守覚法親王は早くに仏門に入れられています。

1155年に後白河法皇は即位したものの、二条天皇が即位するまでの中継ぎとしての即位であったため、他の子供たちは当初から皇位継承候補者にする気もなかったためといわれています。

二条天皇

以仁王も兄と同様に幼くして仏門に入れられ、比叡山延暦寺のトップであった天台座主の最雲法親王の弟子となります。

しかし最雲は以仁王が11歳の時に亡くなり、以仁王は仏門を離れ還俗しました。

以仁王は幼い頃から優秀で、学問や詩歌に秀でており、周囲からも高い評価を受けていました。

また、母親の成子も天皇の外戚として権力を握った閑院流藤原氏であり家柄も良く、以仁王も仏門ではなく皇位継承を望んでいたといわれています。

この頃になると、一時のつなぎであったはずの後白河法皇は、上皇として院政を行い、朝廷への影響力を強めており、後白河法皇の子である以仁王にも、皇位継承の可能性が出てきていました。

以仁王は、人目を忍んでこっそりと元服すると、後白河法皇の前の権力者、鳥羽法皇の娘である八条院暲子内親王の猶子となります。

鳥羽法皇の娘 暲子内親王

暲子内親王は、鳥羽法皇の嫡流として八条院領と呼ばれる全国に200箇所以上ある大荘園を持っており、その権力、財力は後白河法皇や平清盛でさえ無視できない存在でした。

こうして当時の大権力者、暲子内親王の後ろ盾を得て皇位継承を目指す以仁王でしたが、その前に立ちはだかったのが平家だったのです。

当時の後白河法皇は、息子である二条天皇と対立しており、二条天皇が崩御すると、孫の六条天皇から、自身と建春門院の間に生まれた高倉天皇に皇位を移し、院政を行うことで権力を確立していました。

高倉天皇の母の建春門院は、平清盛の妻の平時子の妹で、平家とは近い存在でした。

建春門院は自身の子である高倉天皇に皇位を継がせるべく以仁王を妨害したといわれており、そのせいもあってか以仁王は親王宣下すら受けられず、王の身分のままいたずらに歳を重ねることとなりました。

一方、平家を率いる平清盛は、関係の深い高倉天皇に自身の娘の平徳子を嫁がせ、やがて2人の間には安徳天皇が生まれます。

平清盛の娘 平徳子

この頃になると協力関係にあった後白河法皇と平清盛は対立するように成っており、清盛は法皇に対するクーデターである治承三年の政変を起こし、後白河法皇を幽閉、高倉天皇は安徳天皇に譲位してしまいました。

以仁王の即位の可能性は、あくまでも後白河法皇の子という立場によるもので、弟である高倉天皇の代わりとしては可能性はありましたが、高倉天皇の子に皇位が移ることは以仁王の皇位継承の可能性が完全に無くなったことを意味しました。

平清盛の孫 安徳天皇

さらに、治承三年の政変によって以仁王自身も、長年知行してきて、経済基盤にもなっていた荘園を没収されてしまいます。

皇位継承に望みをかけ、30歳になっても仏門に入らず皇位を目指していた以仁王に残されていた道は、安徳天皇の後ろ盾として権力を握る平家の排除のみでした。

こうした背景もあり、以仁王は打倒平家を目指すこととなるのです。

打倒平家を目指し、源頼政とともに挙兵

以仁王とともに挙兵した源頼政

安徳天皇の即位からまもなく、ついに以仁王は挙兵を決意します。

以仁王は挙兵に際し、摂津源氏として平氏全盛の中、京都で勢力を保っていた源頼政と手を組みます。

当時、源頼政は平清盛の推薦により従三位に昇進し、公卿の立場を手に入れるなど、平家とは協力関係にありました。

しかし、平家全盛の中では源氏の立場は弱く、清盛の後継者の平宗盛が頼政の嫡男の源仲綱に対し、愛馬を奪い仲綱と名付け鞭を打つといった屈辱を与えるなど、平家に対し不満を溜め込んでいました。

以仁王が挙兵前から源頼政と提携していたかは定かではありませんが、不満を溜め込む源頼政らに対し、以仁王が挙兵を呼びかけたといわれています。

挙兵を決意した以仁王は、全国の源氏、および寺社に平家追討を命じる令旨を下します。

この令旨を、源氏の一族で、源頼朝の叔父にあたる源行家が源頼朝をはじめ、各地の源氏に伝えます。

源頼朝の叔父 源行家

もっとも、当時の以仁王は親王ですらなく、『最勝親王』と自称していたものの、令旨を発することのできる身分ではなく、身分を冒した行為でした。

しかし、以仁王の企ては、ほどなくして平家に露見し、以仁王は皇族の身分を剥奪され、源以光として土佐国へ配流されることが決定、以仁王を捕らえに、検非違使の平時忠が屋敷に押し寄せます。

以仁王は早くにこの動きを察知し、園城寺(三井寺)へ逃げ込みます。

以仁王が園城寺に逃げ込んだ背景には、後白河法皇、平家が寺社勢力と対立していたことが理由に挙げられます。

園城寺は、以仁王の挙兵の少し前に、後白河法皇、高倉上皇の2人を誘拐し、平家討伐命令を出させようと画策しており、反平家で利害の一致する以仁王にとってはぜひとも味方につけたい相手だったのです。

当時は仏の罰、仏罰が信じられていたこともあり、平家も園城寺に対して手が出せず、揉めながらも園城寺攻撃軍を編成している最中でした。

この攻撃軍の中に源頼政も加えられていましたが、この直後に源頼政は兵を率いて園城寺に入り、以仁王の挙兵に参加しました。

源頼政の関与は直前まで清盛にばれていなかったこととなります。

しかし、園城寺内部にも平家に近いものがおり、清盛の調略により比叡山延暦寺が切り崩されたことから、園城寺も危険になったとして、以仁王、頼政らは奈良の興福寺に移動しようと南に向かいます。

馬に乗りなれていない以仁王は、夜間の行軍で疲れて何度も落馬し、平家の追っ手に奈良入りを阻まれたこともあり、宇治の平等院に入ります。

そして宇治川を挟んで両軍は激突し、兵力に劣る以仁王、源頼政の軍は、奮戦したものの敗れ、頼政らは自害して果てました。

宇治川の戦い

以仁王はわずかな兵に守られてなんとか平等院から脱出しますが、平家の追っ手に追いつかれ、敵の矢に当たって落馬したところを討ち取られてしまいました。

以仁王のその後 息子は木曽義仲とともに皇位を狙う

平清盛

討ち取られた以仁王は首を取られ、源頼政の首級とともに平清盛の邸宅に送られます。

この両者の首級を高倉上皇が密かに見に行ったことが記録に残っています。

後白河法皇は以仁王の謀反に対し、自分が決めた後継者に代わって皇位につこうとしていたとして激しく反発しました。

以仁王は皇位簒奪を図った謀反人としての扱いを受け、平家滅亡後の1196年になっても朝廷内では刑人と呼ばれ謀反人の扱いを受けていたことが記録に残っています。

以仁王の子どもたちは平家によって次々と捕らえられ、殺されはしなかったものの出家させられました。

しかし第一王子であった北陸宮はこれを逃れ、木曽義仲のもとへ逃れます。

木曽義仲

木曽義仲は北陸宮を旗頭に京都へ進軍し、やがて後白河法皇に対し、北陸宮を皇位継承者候補として推すこととなります。

しかし後白河法皇は、以仁王のことを身分を偽り令旨を出し、皇位簒奪を狙ったとして嫌っており、その内に木曽義仲が源頼朝に敗れ勢力を失ったことから、ついに北陸宮が皇位につくことはありませんでした。

こうして、以仁王の挙兵はあっけなく失敗に終わりましたが、以仁王の顔を知る者は少なく、以仁王は東国に逃れ生存しているという噂が巷に流れます。

源頼朝

そのため、以仁王の令旨を受け取った源氏たちは各地で挙兵し、やがて治承・寿永の乱へと発展、源頼朝ら源氏によって以仁王の悲願であった平家滅亡は果たされることとなるのです。

 

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