こんにちは!レキショックです!
今回は、源頼家の妻となったせつ、つつじの2人の女性について紹介します。
せつは若狭局として、つつじは辻殿として歴史上は名前が残っており、若狭局は頼家との間に長男の一幡を、辻殿は、次男の公暁をもうけました。
彼女たちが産んだ2人の子の存在は、将軍家、御家人たちの争いの火種となっていき、やがて源氏将軍家の運命を握る存在となっていきます。
比企氏と源氏という異なる出自を持つ2人の生涯、彼女たちが産んだ子どもたちのその後について紹介します。
若狭局の生涯 北条と比企の争いの原因となった悲劇の姫君
若狭局は、比企一族の棟梁、比企能員の娘として生まれました。
比企能員は、源頼朝の乳母を務めていた比企尼の甥にあたり、その縁もあって、能員は頼朝の嫡男、源頼家の乳母父として、後見役を任されていました。
能員の妻も頼家の乳母を務めており、頼家も比企氏の館で育ったことから、母が同一人物とは限りませんが、若狭局も幼い頃から頼家とともに育ったのかもしれません。
当時、乳母は実の母以上に母としての役割を果たしており、木曽義仲と巴御前の関係のように、幼い頃からともに過ごすことで固い絆で結ばれる傾向にありました。
こうした縁もあり、比企氏自体も比企尼に連なる系譜として源氏を支える役割を期待されたことから、若狭局は源頼家と結ばれることとなります。
そして、頼家が17歳のときに、長男の一幡をもうけています。
源頼朝にとっては初孫で、一幡の誕生により、源氏将軍家は安泰かにみえました。
しかし、一幡が生まれた翌年に、源頼朝は急死してしまい、頼家が2代将軍として跡を継ぐと、2人の運命は大きく動いていくこととなります。
頼家は将軍になったのちに自ら政治を執り行なおうとしますが、若い頼家では御家人たちを抑えられず、北条氏や比企氏ら有力御家人を中心とした13人の合議制が発足し、頼家の権力は抑えられてしまいます。
さらに、比企能員と並んで頼家を支えていた梶原景時が、御家人たちの反発を買い、失脚させられてしまうなど、頼家の将軍就任からわずか1年足らずで、頼家をめぐる環境は大きく悪化してしまうことになりました。
また、この頃の若狭局は、頼家の長男、一幡を産んではいたものの、頼家の正室という立場ではなく、一幡も頼家の後継者としての地位を確約されていたわけではありませんでした。
これが原因で、比企能員も将軍の外戚としての地位を手に入れていながら、その地位を笠に着て独断専行をするということができず、このことはかえって頼家の政治基盤を不安定なものにしていました。
また、一幡の存在は、北条氏と比企氏の対立の原因にもなってしまいます。
北条氏は、北条時政の娘の北条政子が頼朝の妻となることで、将軍の外戚の地位を手に入れ、その力を伸ばしてきた一族でした。
しかし、頼家が将軍となると、北条氏の特権であった将軍の外戚の立場は比企氏に移ってしまいます。
頼家と比企氏の娘との間に生まれた一幡が次期将軍となってしまっては、北条氏の復権はもはや望めず、北条時政は相当焦っていました。
時政にとっての救いは、若狭局が頼家の正室でないことから、一幡が正式な後継ぎとして確定していないことで、頼家の跡継ぎとして一幡が決定する前に、別の者を跡継ぎとして擁立すれば、逆転の可能性はありました。
そんな折に、頼家は急病にかかり、ついには危篤状態にまで陥ってしまいます。
時政はこれに素早く反応し、全国を東西に二分し、頼家の子、一幡と頼家の弟、源実朝に分割相続させることにし、若狭局の子、一幡が頼家の完全な後継者となることを防ぎました。
これに対し、比企能員は強く反発し、娘の若狭局を通じて、病床にある頼家に事の次第を知らせ、時政追討の許可を得たとされています。
時政は機先を制するべく、比企能員をあえて自邸に呼び出し、丸腰で時政のもとに向かった能員をだまし討ちし、その首を取ります。
棟梁を失った比企一族は、若狭局と一幡が住む屋敷に立てこもりますが、北条義時が率いる軍勢はこの屋敷を大軍で攻め、比企一族は壊滅し、屋敷も炎上しました。
若狭局は、燃え盛る屋敷の中で、一幡とともに焼死したといわれています。
一説には、一幡を抱いて屋敷から逃げ出すことに成功したものの、北条勢に見つかり、親子ともに刺し殺されたとされており、比企一族の滅亡とともに、若狭局親子も命を落とすこととなってしまいました。
辻殿の生涯 源氏の血を引いた姫君が源氏の運命を握る子を産むことに
辻殿は、三河国の武士であった足助重長と、源為朝の娘との間に生まれました。
源為朝は、源頼朝の叔父にあたる人物で、鎮西八郎として九州で暴虐の限りを尽くし、その腕前をもって、保元の乱では兄の源義朝と戦うも敗れ、伊豆大島に流罪となっていた人物です。
また、足助重長も、尾張源氏の浦野重直の子で、源氏の血を引いている人物でした。
尾張源氏は、浦野重直の父、源重遠が尾張国に移住したことから始まり、元をたどれば、源頼朝らと同じく、清和源氏の初代、源経基に行き着きます。
源経基の長男、源満仲から、河内源氏である源頼朝らの系統が出て、次男の源満政の系統が、辻殿の父、足助重長につながることとなり、れっきとした源氏の一族でした。
足助重長の祖父、源重遠は、頼朝の祖先にあたる源義家の娘を妻にしており、河内源氏とも長年深い関係にありました。
こうした関係もあり、河内源氏は交通の要衝であった尾張国から三河国にかけて一定の勢力を有する尾張源氏と手を組み、実質的に尾張源氏は河内源氏に従う立場になります。
その結びつきを強める策の一つとして、源為朝の娘が足助重長に嫁ぎ、辻殿に至ることになります。
辻殿の父、足助重長ら尾張源氏は、源平合戦でも源氏方として戦いますが、墨俣川の戦いで平維盛率いる平家軍に敗れてしまいます。
墨俣川の戦いは、尾張源氏のほかに、頼朝の叔父、源行家や、頼朝の弟、義円らが参戦しており、義円や重長の兄、山田重満らが討死しています。
足助重長も平家方の捕虜となり、のちに殺害されるなど、墨俣川の戦いにて尾張源氏の勢力は壊滅してしまいますが、足助重長の子、足助重秀は生き残り、鎌倉幕府の御家人として続いていきます。
そして、縁あって、辻殿が頼家の妻となり、源氏の血を引く足助氏も、交通の要衝である東海道を抑える有力御家人として生き残ることになりました。
頼朝は、自身の河内源氏の系統とも深いつながりのある尾張源氏の出である辻殿をいたく気に入ったと言われており、比企氏の出身である若狭局を差し置いて頼家の正室にしたともいわれています。
辻殿は、頼家との間に公暁をもうけ、公暁は三浦義村に後見されることになります。
辻殿は、一説には三浦義村の妹であるともいわれており、実家が没落していたこともあり、三浦氏に庇護されるなど、深い繋がりがあったものと思われます。
しかし、比企能員の変で源頼家の後見であった比企能員が亡くなり、頼家も将軍職を追われ、のちに殺害されると、頼家の子である公暁も将来的には出家することとされました。
辻殿は、頼家、若狭局が亡くなったのちは、実子の公暁をはじめ、頼家の子である栄実、禅暁、竹御所など、頼家の家族を、後室としてまとめる立場になりました。
辻殿に課せられた使命は、源実朝の時代となり、もはや源氏の名跡を継ぐ必要のない頼家の息子たちを仏門の道へ入れ、争いの火種になるのを防ぐことでした。
自身の子の公暁も、公暁が12歳の時に、無事に出家させ、その前年には、自身も出家しており、これにより辻殿の役目は終わりを迎えました。
辻殿の最期は分かっていませんが、これ以降資料に名前が出てきていないことから、若くして亡くなったものといわれています。
しかし、辻殿が仏門に入れることで守った息子の公暁は、源氏の運命を大きく狂わせることとなります。
若狭局、辻殿の子どもたちのその後
辻殿の子として生まれた公暁は、父の頼家が亡くなったときはわずか5歳で、公暁も、将来の禍根にならないようにと、幼くして将来的に出家することが決められました。
そして、北条政子の計らいにより、3代将軍となった叔父の源実朝の猶子となり、実朝体制のもとでも居場所を与えられます。
その上で、12歳のときに出家し上洛し、園城寺で6年間におよぶ修行の日々を送ることになりました。
政子も公暁のことは気にかけていたようで、公暁が18歳の時に、鶴岡八幡宮の別当に任じられ、鎌倉に戻されました。
しかし公暁は、出家の身でありながら髪を下ろすこともせず、武芸の鍛錬も積む生活を送っていたといいます。
そして鎌倉に戻った2年後、源実朝が鶴岡八幡宮に参詣したところを襲い、「親の仇」と叫びながら、人々の目の前で実朝の首を取る大事件を起こします。
公暁は、かつて後見役であった三浦義村の協力を得て、将軍の地位を狙いますが、義村の協力を得られず、義村が放った追手により討ち取られ、20歳でその生涯を閉じることになりました。
一方、比企能員の変で命を落とした若狭局には、母とともに亡くなった一幡の他に、竹御所という女子がいました。
竹御所は、頼家の死後、北条政子のもとで養育され、15歳のときに、源実朝の正室、坊門信子の猶子となります。
頼家の子たちが次々と非業の死を遂げていく中、女子であったことから、政子の庇護を受け、争いからは遠ざけられて成長し、やがて、源氏の血を引くものがほとんど姿を消していく中、頼朝の血を引く数少ない1人として、御家人たちの尊敬を集めることになります。
北条政子の死後に、2代目女将軍として御家人たちをまとめる役割を果たしていた竹御所は、29歳の時に、4代将軍となった13歳の九条頼経に嫁ぎ、その4年後に33歳で頼経の子を身ごもります。
しかし当時としては高齢出産であったことから、男子は死産となってしまい、竹御所も亡くなってしまいました。
竹御所の死によって、頼家の子、ひいては頼朝の血を引く者たちは全員亡くなることとなりました。