こんにちは!レキショックです!
今回は、トガクシソウの命名を巡って植物学教室のトップ 矢田部良吉と争った伊藤篤太郎の生涯について紹介します。
江戸末期を代表する本草学者 伊藤圭介の孫として生まれた篤太郎は、幼い頃から植物に触れ、10代にして植物学者としての道を歩むなど英才教育を受けます。
日本人で初めて新種の植物に学名をつけるなど、若くして日本の植物学をリードする存在となりましたが、トガクシソウの属名を巡って矢田部良吉と破門草事件と呼ばれる対立を引き起こすこととなりました。
篤太郎は植物学教室を出禁となるも、矢田部良吉も東京大学を追放されたことで出禁を解除され、その後は大植物学者として様々な研究で成果を残しました。
今回は、日本植物学史上に残る事件の当事者となりながらも大植物学者として名を残し、ナメコなど植物以外の研究でも多大な功績を挙げた伊藤篤太郎の生涯について紹介します。
偉大な祖父の後継者として英才教育を受ける。 伊藤篤太郎の出自
伊藤篤太郎は1866年、名古屋にて、江戸時代末期を代表する本草学者 伊藤圭介の娘の小春と婿養子の延吉の間の子として生まれ、祖父の圭介によって篤太郎と名付けられました。
後に衝突することとなる矢田部良吉の14歳年下、牧野富太郎の3歳年下にあたります。
祖父の伊藤圭介は、若い頃に長崎で植物研究者としても知られるオランダ商館医のシーボルトに学び、本草学者として名古屋だけでなく江戸でも有名だった人物です。
シーボルトから貰った『日本植物誌』を和訳した『泰西本草名疏』では、現代の我々が当たり前に使う「雄しべ」「雌しべ」「花粉」や分類の階級を表す「種」「目」「網」などが圭介による訳語として使われており、日本の植物学の基礎を作りました。
圭介は江戸幕府にも登用され、明治維新後は現在の東京大学への出仕を命じられ、矢田部良吉が留学から帰国し植物学教室の教授になるよりも前から日本の植物学に関わっていました。
篤太郎は、そんな偉大な祖父 圭介の元で育ったからか、幼くして植物に興味を持ち、圭介も孫に植物学者としての未来を期待し、名古屋から東京に引き取って、自分の手元に置いて東京の小学校に通わせようとします。
しかし、当時7歳の篤太郎は学校生活に馴染めず不登校になってしまい、名古屋に戻って親元から再度学校に通うこととなります。
9歳の時に愛知英語学校に入り、2年余り通学し、篤太郎の身を助けることとなる英語力を身に着けたもののこちらも退学し、圭介はじめ家族を心配させてしまいます。
その後圭介は再び篤太郎を東京に呼び、東京大学の員外教授として小石川植物園へ出勤する自分に同行させるようになり、篤太郎は植物園に出入りし、一流の環境と日本一の植物学者である祖父の元で植物について学ぶこととなりました。
この頃は、植物学教室が正式に始まり、矢田部良吉や松村任三といった教室の中心メンバーも揃い始めた頃で、篤太郎は10代前半にして早くも因縁の相手 矢田部良吉と顔を合わせることとなります。
篤太郎は圭介から、植物学だけでなく昆虫、菌など博物学全般を学び、さらにわずか14歳にして、江戸時代の古書の翻刻作業や書物の編纂を圭介の元で行い、学者としての道を着実に歩み始めていました。
同時期には、篤太郎の叔父にあたる圭介の三男 謙も圭介の後継者として研究に携わっており、1875年には、長野県の戸隠で、篤太郎の運命を左右するトガクシソウを採集し、小石川植物園に植えて翌年には開花させることに成功しています。
謙は本も出版するなど植物学者としての道を順調に歩んでいましたが、1879年に29歳の若さで亡くなってしまい、残る圭介の男子は父の跡を継ぐ気はなく、篤太郎は圭介の跡継ぎとして期待されるようになります。
篤太郎は圭介の元で植物学者としての実力をつけていき、1883年、17歳の時には、自らの手で、圭介と交流のあったロシアの大植物学者 マキシモヴィッチをはじめとした海外の植物学者と手紙のやり取りをしており、篤太郎宛に海外から問い合わせが来るほどでした。
同年には、篤太郎によって、小石川植物園で開花させていたトガクシソウを、キイセンニンソウとともにマキシモヴィッチのお墨付きを得るために新種として送っています。
篤太郎の成長を見て、圭介の弟子で、牧野富太郎にも影響を与えた博物館の父 田中芳男が、師匠の圭介に対し、圭介の全時代的な家業の伝授のような植物学の教え方を批判したことで、篤太郎の留学話が持ち上がりました。
篤太郎は祖父から現在価値で1千万円ほどの支援を受け、両親が不動産を売却した資金も合わせ、1884年、18歳のときにイギリスへ留学を果たします。
渡英当初は学校すら決まっていませんでしたが、キュー王立植物園の紹介を受けケンブリッジ大学へ入学が決まり、3年半に渡って植物学全般を修めることとなりました。
この留学の最中の1886年に、篤太郎から標本を受け取っていたマキシモヴィッチの手で、ロシアの学術誌にトガクシソウ、キイセンニンソウが新種として発表されます。
マキシモヴィッチが篤太郎の代わりに発表したということでマキシモヴィッチの名も入っているものの、篤太郎によってこの瞬間、日本人による初めての新種としての学名の命名がなされることとなりました。
篤太郎は叔父の謙、祖父の圭介とともに、伊藤家の総力を挙げて日本の科学史上に輝く金字塔を打ち立てたこととなり、篤太郎の名は2つの植物に刻まれます。
これに続き、篤太郎は、圭介、謙親子がかつて『日本植物圖説』に記載していたユキワリイチゲも、マキシモヴィッチに新種として発表することを提案します。
この時は篤太郎は留学中で標本を送れず、マキシモヴィッチは、牧野富太郎が1885年に土佐で採集し鑑定を依頼していた標本を拝借する形で、篤太郎の帰国後、1888年になって新種として発表しており、篤太郎は3種続けて日本人として新種の命名を行いました。
他にも篤太郎は、留学中にイギリスの学術団体 リンネ協会に出入りし、やがて自ら研究成果を演者として発表し、ラテン語での論文執筆も行い、遂には協会の会員に推薦されるまでになりました。
篤太郎は植物以外に菌類についても発表を行い、ここでも新種として自分の名前をつけることとなり、菌類の研究でも確かな実績を残しています。
こうして、矢田部良吉や牧野富太郎のはるか先を行く、伊藤圭介の孫として申し分ない留学生化を残した篤太郎は、1887年11月、21歳の時に帰国しますが、ここから篤太郎の人生は波乱の連続となるのです。
伊藤家の誇りをかけてトガクシソウを巡り矢田部良吉と衝突する 破門草事件での伊藤篤太郎
篤太郎は私費留学だったため、帰国後に研究職のポストが用意されているわけではありませんでした。
それでも、植物学教室に顔を出しながら、植物学雑誌で新しい分野 植物生理学に関する論文を続けざまに発表するなど、日本の植物学をリードする活躍を見せます。
ところが、篤太郎が帰国して間もなくの1887年頃から、前年に篤太郎が伊藤家の威信をかけて発表したトガクシソウを巡って破門草事件が始まってしまいました。
植物学教室のトップ 矢田部良吉は、既に伊藤家により採集されていると知らずに、1884年に長野でトガクシソウを採集し、小石川植物園に植栽して1886年になって開花させることに成功します。
間の悪いことに、トガクシソウを知る篤太郎は留学中で、圭介はこの頃には植物園を訪れることもなくなっていたため、良吉に既に発見されていると指摘できる人物がいませんでした。
そのため良吉は、マキシモヴィッチに新種として鑑定を依頼したところ、マキシモヴィッチは新属にあたると判断し、花の標本を確認次第、良吉の名が新しい属の名として付けられる手はずとなります。
篤太郎自身も、留学中からトガクシソウが今までとは違う新属にあたる可能性を考えていたものの、1888年7月になって助教授の大久保三郎から、良吉とマキシモヴィッチのやり取りを聞き事態を知ることとなりました。
大久保からは先回りしないよう厳命されていたものの、伊藤家が総力を挙げて研究したトガクシソウの属名に矢田部の名が付けられることは篤太郎の誇りが許さず、独自に論文発表に動き出します。
篤太郎はイギリスで得た論文発表能力を活かし、大久保から話を聞いた3ヶ月後、約2ヶ月の船便の時間を差し引いてわずか数日で論文をかき揚げ、急ぎで不完全な内容ながらイギリスの雑誌で発表し、22歳にして日本人初の新属発表という快挙を成し遂げました。
篤太郎の行為に矢田部、大久保の二人は激怒し、大学の面目を潰したとして篤太郎は即刻教室を出禁となり、騒動の原因となったトガクシソウは破門草と呼ばれるようになります。
篤太郎はそもそも植物学教室の所属ではなかったものの、日本最高峰の植物学研究機関から締め出されることは、篤太郎の日本での植物学者の道を奪われたも同然でした。
ただし、篤太郎は意に介さず、伊藤圭介の後継者として圭介主宰の博物会を取り仕切るなど独自に活動し、論文も出すなど学者として確固たる地位を築いていきます。
しかし、東大教授の矢田部に追放されたことで、日本トップクラスの実力を持ちながらも大学の研究職などにありつくことは叶わず、1890年にようやく地元の愛知県尋常中学校の教諭の職に就きました。
篤太郎は中学校の教諭として日々勤務に励みながら、夏休みなどまとまった休みを使って信州の山々に植物採集に出かける日々を4年にわたって送ります。
その後、現在の鹿児島大学の前身の鹿児島高等中学造士館の嘱託となり、鹿児島へ移住しました。
篤太郎が教員としての道を歩んでいる間にも、1890年には牧野富太郎が矢田部良吉との対立の末に植物学教室を追放されるという事件が起きています。
篤太郎、富太郎の二人を追放した良吉も、1891年に学内対立の末に東大を追われ、松村任三が後任として教室のトップになるというように、破門草事件から始まる騒動は依然として続いていました。
松村任三は牧野富太郎を呼び戻した一方、1895年には矢田部とともに破門草事件に関わっていた大久保三郎も植物学教室から去るなど、教室の勢力図は大きく変化します。
篤太郎にとって天敵といえる矢田部、大久保の二人がいなくなったことで、篤太郎は再び植物学の世界で羽ばたいていくこととなるのです。
恵まれない境遇ながらも、圧倒的な才能で次々と業績を残す 伊藤篤太郎のその後
鹿児島への転任は、篤太郎の暖地性植物への興味から実現したとされ、勤務の傍ら採集に励み、夏休みには沖縄方面へ採集旅行に出かけていました。
篤太郎は鹿児島で教授にまで昇ったものの、1896年に造士館は、旧藩主島津家と政府の関係から突如廃校となってしまい、篤太郎は失職して東京に戻ります。
ここで篤太郎は、幼少期から植物園で付き合いのあった植物学教室の松村任三と手を組み、沖縄で採集した植物を二人の共著として、『琉球植物誌』にまとめ上げました。
同時期には、任三によって篤太郎の出禁は解除されたようで、植物学雑誌に次々と論文を発表し、1900年には南方植物の研究を元に理学博士の学位を得るまでになりました。
この翌年、師匠としても篤太郎を長年可愛がりながら育ててきた祖父の伊藤圭介が99歳で亡くなっています。
篤太郎は、理学博士となった後はしばらく論文執筆を休み、立教中学校の非常勤講師などを務めながら、教職の経験を活かし教科書の執筆に励み、1903年に『最新植物學教科書』を出版します。
同年には37歳にして、第3代名古屋市長 柳本直太郎の娘 京子と結婚し、翌年に長男が生まれたのを皮切りに計五男二女の子供にも恵まれました。
その後も篤太郎は定職には就かなかったものの、父の遺産などで生活には余裕があり、むしろ定職に就いていないことを活かし、様々な活動をしており、その一つに日本初の本格的な百科事典『日本百科大事典』の執筆があります。
植物関連の執筆を担当した篤太郎は、自分の思うがまま書くことを許され、1916年に刊行した第7巻では、矢田部良吉との競争の中で速報的に書いたトガクシソウに関する論文について28年の月日を経て詳しい記載を発表しています。
アリの研究など植物以外での功績も残していた篤太郎に、1920年になってついに、この年東北帝国大学理科大学内に新設された生物学科の講師の職が舞い込み、54歳にして念願の大学研究職の座を手に入れました。
仙台での篤太郎は、丁寧な講義とイギリス帰りの紳士的雰囲気で、男女を問わず学生に人気で、旧知の画家を招き入れるなど研究も自由に行うことができていました。
東北大の生物学科は設立間もなく、植物標本も少なかったため、篤太郎は菌類にも範囲を広げ、キノコの宝庫である東北の地の利を活かした研究を進めていきます。
その代表がナメコで、当時東北で出回っていたナメコが未記載種であることを突き止め、自身の名と日本古来のnamekoを合わせた学名を新種として命名しており、ナメコ研究は篤太郎の代表的な研究となっていきます。
篤太郎は1928年、62歳の時に講師の身分のまま東北大を定年退官し、晩年は祖父圭介と関係のあったシーボルトに関するものなど、考証的な論文も多く執筆していました。
圭介が残した膨大な資料の生理、注記にも取り組み、この作業は1939年頃になってようやく目処がつくといったほどの事業となります。
最晩年の篤太郎は、孫を可愛がりながらも、科学博物館に寄贈していたトガクシソウの解説文の訂正を行うなど最後まで植物への情熱を燃やし続け、1941年3月に75歳で生涯を閉じることとなりました。
参考文献
岩津 都希雄『伊藤篤太郎―初めて植物に学名を与えた日本人』 https://amzn.to/3pYuvMY