豊臣秀吉子飼いの武将として活躍し、肥後熊本52万石の藩主にまで出世した加藤清正の子孫のその後について紹介します。
賤ヶ岳の七本槍の1人として活躍し、関ケ原の戦いでも東軍に与して活躍、現在の熊本県一帯を支配するに至りました。
築城の名手としても知られ、清正の築いた熊本城は、西南戦争で西郷隆盛の軍勢に攻められても落城せず、西郷も清正に負けたと言ったほどです。
豊臣秀頼と徳川家康の間を取り持つことにも尽力し、二条城の会見では豊臣秀頼の警護役を務めますが、その直後に急死してしまいます。
そして息子の加藤忠広の代に加藤家は改易されてしまいました。
今回は、清正死後の加藤家のその後、山形の地でつながった清正の血脈について紹介します。
重臣たちの争いに苦しむ 清正の子 加藤忠広
加藤清正が二条城での豊臣秀頼と徳川家康の会見の帰りに、49歳の若さで急死すると、加藤家は清正の三男の加藤忠広が継ぎました。
清正には、長男の虎熊、次男の忠正がいましたがいずれも幼くして亡くなっており、当時11歳の忠広が跡を継ぐこととなりました。
しかしまだ幼く、52万石もの大領を治めさせるには不安だと感じた幕府は、加藤家に対し、支城の取り壊し、家臣への負担軽減、重臣の人事は幕府が決めるなどの家督相続の条件を出し、熊本藩を押さえつけます。
また、幼い忠広に政治は難しいとして、藩政は重臣の合議制とされ、伊勢津藩の藤堂高虎が忠広の後見人を務めることとなりました。
当時の熊本藩は、重臣たちが半ば独立勢力のように力を持っており、それを清正が抑えているといった状況でした。
しかし忠広に彼らをまとめる力はなく、やがて重臣たちが争い始めます。
この争いが表面化してしまったのが、大坂の陣後に勃発した牛方馬方騒動です。
清正死後の幕府の人事介入により引き上げられた加藤正方と、かねてより家老として権力を持っていた忠広の舅の玉目丹波守らが対立し、正方派が玉目丹波守を豊臣家に内通していたとして幕府に訴訟したのです。
この訴訟には、将軍徳川秀忠自らがあたり、新興勢力の加藤正方が勝訴、熊本藩の藩政は加藤正方が主導権を握ることとなり藩内は一時安定します。
しかし加藤家は家臣の統率ができていないとして幕府に目をつけられることとなります。
そして、牛方馬方騒動から13年後の1632年、忠広は江戸に向かう途中、品川で江戸入りを止められ、突如として改易を言い渡されてしまいました。
忠広が改易となった理由はいくつかあります。
直接的に改易の理由とされたのは、嫡男の加藤光広が、諸大名の名前と花押を記した謀反の連判状を作り、家臣をからかうという度を過ぎた遊びをしていたことから謀反の疑いありとして改易されたというものです。
いくら遊びとはいえ、他家の名前も書いた謀反の連判状は、周りにもあらぬ謀反の疑いがかかることに繋がり、反乱のもとになることから、領主の資格なしと厳しく処罰されることとなりました。
同じ豊臣恩顧の大名である福島正則と同じく、豊臣氏と血縁関係にあることから、幕府に警戒されて取り潰されたともいわれていますが、豊臣家滅亡から17年もの月日が経っており、お家騒動の際に取り潰すこともできたため、疑問が残ります。
むしろ、忠広の改易の原因は、3代将軍徳川家光の異母弟、徳川忠長と親交が深かったためともいわれています。
徳川忠長は将軍の弟として駿河55万石を与えられていましたが、粗行不良で、大御所の徳川秀忠や将軍の家光と関係が悪くなっていました。
忠広はそんな状況下でも忠長と親しく交流していたため、家光の乳母である春日局の兄で、熊本藩に仕えていた斎藤利宗は忠広を見限り幕府に旗本として召し抱えられています。
忠広が重臣層を抑えきれなかったことも原因とはされています。
熊本藩で重臣たちが大きな権力を握っていたのは、加藤清正の代からのことで、清正が藩主の権力を拡大しないまま亡くなってしまったことが、忠広にとっては不幸となりました。
改易となった忠広は、出羽庄内藩の酒井忠勝預かりとなり、20年もの長い流人生活を送ることとなります。
改易後の忠広 子どもたちのその後
加藤忠広は、改易され庄内藩預かりの身となりましたが、忠広一代に限り、1万石の領地を与えられ、出羽丸岡藩が成立します。
しかし、藩政は庄内藩が行っており、忠広が政治に関わることは二度とありませんでした。
忠広は母親の正応院や、側室、20名ほどの家臣を伴い、丸岡に行き、その後22年もの長い月日を流人として過ごすこととなります。
忠広は流人の身分であっても自由に過ごすことができたようで、文学や音楽、和歌を楽しみ、神社参拝も行っていたことが記録に残っています。
忠広は特に和歌に熱中し、出羽に配流になる途中に歌日記を始め、約1年に渡り319首を詠み、塵躰和歌集に編んだのを始め、様々な歌を残しています。
忠広の和歌に特徴的なのは、伊勢物語や源氏物語などからの引用が多く、都から東国に下った在原業平や、流罪となった光源氏に自分の境遇を重ねていたといわれています。
こうして、改易になりながらも、母や祖母、愛妾に囲まれ、歌を詠みながら日々穏やかに暮らした忠広は、配流から22年後の1653年に亡くなりました。
忠広の嫡男の加藤光広は、父親とは別れ、飛騨高山藩主、金森重頼のもとに預かりとなりました。
光広は、配流から1年後に19歳の若さで亡くなっています。
一説には、自分が謀反の連判状を作って遊んでいたことが加藤家改易の原因になったことに堪えられなくなり、自害したともいわれています。
忠広の次男の正良は、藤枝正良と名乗り、忠広の側室で母親の法乗院と信濃松代藩の真田家に預けられました。
正良は長らく真田家のもとで暮らしていましたが、父親の忠広が亡くなると、後を追って自刃してしまいました。
正良の死によって加藤家の後継者はいなくなり、忠広に与えられていた1万石の領地も収公され、加藤清正から始まる加藤家はその領地のすべてを失うこととなりました。
加藤清正には、徳川家康の子で、紀州藩主の徳川頼宣の正室となった瑤林院がいましたが、頼宣との間に子はできず、清正の血が紀州徳川家に残ることはありませんでした。
また、清正の長女の本浄院は、徳川四天王の一人、榊原康政の子の榊原康勝に嫁ぎ、康勝の死後は加藤家に一旦戻ったのち、大阪城代を務めていた阿部正次の子、阿部政澄に嫁ぎました。
政澄との間には子の阿部正能が生まれ、子孫は代々武蔵国忍藩主として続きました。
忠広にも娘の献珠院がおり、紀州徳川家に嫁いだ伯母の瑤林院のはからいで、旗本の阿部正之の5男、阿部正重に嫁ぎましたが、嫁いでから3年後に32歳の若さで亡くなってしまいました。
清正の血筋は実は山形で続いていた 日本の女性科学者の草分け 加藤セチ
加藤清正、忠広の子孫は、女系で一部繋がりましたが、公には途絶えてしまいました。
しかし、忠広は丸岡にて密かに子をもうけており、男子と女子が一人づついたといいます。
このうち、男子は加藤光秋と名乗っていたといわれていますが、ほどなくして断絶しています。
一方、女子の方には婿を迎え、子孫は加藤与治左衛門家と名乗り5000石相当の大庄屋として江戸時代を生き抜くこととなります。
明治時代に入っても、一帯の大地主として続いていた加藤家は、明治天皇の東北巡行の際に、一帯を代表する豪農として天皇の訪問を受けるといった栄誉を受けています。
加藤家はその財力を活かし、大酪農場を作るなど、近代的な農業経営を目指していました。
しかしそんな加藤家を、1894年の庄内地震が襲います。
加藤家の土地、建物も壊滅的な被害を受け、大規模に投資していた酪農設備も全焼、当時の加藤家当主も立て直しを図るものの、道半ばにして亡くなり、加藤家は破産してしまいました。
加藤セチは、この庄内地震の1年前に生まれました。
実家が没落していく中、セチは山形女子師範学校を出て、小学校教師として家計を支えながら現在のお茶の水女子大学にあたる東京女子高等師範学校に進学、さらに25歳の時に北海道帝国大学に進学しました。
その後、セチは渋沢栄一らによって設立された国を代表する研究所、理化学研究所に初の女性研究者として採用され、40年にわたって勤め、主任研究員にまでなりました。
1931年には京都帝国大学より理学博士号を授与しており、日本人3番目、既婚女性としては日本初の理学博士となっています。
私生活では、佐藤得三郎を婿に迎え、子も生まれましたが、長男は戦争に出征し戦死、娘は嫁に出ており、セチの兄も庄内地震で亡くなっていたことから、1989年のセチの死をもって加藤本家は断絶することとなりました。
しかし、山形の豪農として江戸時代を生きた加藤家は、分家を繰り返しており、今も山形には加藤清正の血を受け継いでいる人が数多く存在しています。
熊本52万石を誇った加藤清正の加藤家。
清正以来の重臣の対立、豊臣家、徳川家との関係など様々な困難にぶつかった子の加藤忠広は、清正以来の領地を失ってしまいましたが、子孫は配流先の山形にて繁栄することとなりました。
女性科学者として活躍した加藤セチは、当時、女性が進むことを想定していなかった大学進学、科学者への道をこじ開ける役割を果たしました。
北海道帝国大学入学時も、セチが初の女子学生となっています。
理化学研究所に入所した際も、周りの男性研究員より低い給料しか与えられていない中、ひたすら努力し、女性科学者の道を切り開く役割を果たすこととなりました。
近代日本の女性活躍のきっかけにもなった加藤清正の家系。大名としては滅亡しても、日本の発展に大きな貢献をしました。
[…] 当然、家康は怒り、黒田長政や加藤清正など、九州の諸大名に島津討伐を命じ、約3万の軍勢が島津氏の国境付近に集結しますが、島津側にも1万人以上の兵がおり、苦戦が予想されることから、攻撃に移れずにいました。 […]