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北条政子はなぜ尼将軍と呼ばれたのか 頼朝との対等な夫婦関係が御家人の尊敬を集めるきっかけに

北条政子

こんにちは!レキショックです!

今回は、なぜ北条政子は尼将軍と呼ばれるほどの権勢を手にすることができたのか紹介します。

源頼朝の死後、北条義時とともに鎌倉幕府を支え、承久の乱では名演説を行い、御家人を一致団結させ幕府崩壊の危機を救い、尼将軍としてその名を残しました。

鎌倉時代は、他の時代よりも女性の力が強く、夫が亡くなった後に、妻が後家として力を持つことはよくありましたが、それでも幕府の頂点に立った北条政子は異例です。

それだけ北条政子の政治力が優れていたということですが、頼朝の存命中から、幕府の共同統治者として並び立つ存在であったことが、政子が尼将軍とまで呼ばれるほどになったきっかけです。

戦国時代などでは、女性は結婚を通じて、家同士の結びつきを深めるための政治の道具として描かれることが多いですが、政子はあくまでも頼朝と対等な存在で、だからこそ頼朝の死後も、御家人たちの支持を得ることができました。

今回は、北条政子が尼将軍と呼ばれるまでに至った理由を、政子の生涯を追うことで紹介していきます。

頼朝と並び立つ存在として御家人の尊敬を集める 御台所としての政子

北条政子と源頼朝

北条政子は、源頼朝がまだ伊豆国の流人であった1177年頃に頼朝と結ばれました。

政子の父、北条時政は頼朝の監視役を務めており、頼朝と距離も近かったことから政子も頼朝と縁を持ち、やがて2人は恋仲になりました。

しかし、当時は平家全盛の世の中で、平家に仕える北条時政は、自分の娘が頼朝と関係を持つことに反対し、政子を頼朝から遠ざけようとしますが、政子は屋敷を飛び出し頼朝のもとへ向かい、時政もしぶしぶ頼朝との結婚を認めたといいます。

頼朝としても、父親の反対を押し切る政子の積極的な行動があったからこそ、北条氏と縁を持つことができ、そのおかげで、北条氏の後援のもと、のちに打倒平家の挙兵をすることができました。

北条時政

政子のおかげで頼朝は挙兵することができたともいえ、この時点で政子の立場は、一般的な夫婦よりもだいぶ強いものとなっていました。

この関係は、頼朝が挙兵し、鎌倉に拠点を構えてからも変わることはありませんでした。

この頃の政子は、頼朝の御家人たちからの尊敬も集めており、政子が妊娠して体調を崩した際には、政子を見舞いに多数の御家人が参集するなど、鎌倉殿の御台所として重んじられる存在となっています。

これは、単に政子が主君の妻だから重んじていたというわけではなく、御家人は政子や大姫も含めた頼朝一家に対して仕えており、政子自身も頼朝と並び立つ存在であったことから、御家人たちは御台所としての政子を鎌倉殿の頼朝と同列に扱っていたといえます。

政子が単なる鎌倉殿の妻ではなかったことを物語るのが、亀の前事件です。

頼朝は、政子がのちの2代将軍源頼家の出産をしている最中に、妾であった亀の前と逢瀬を重ねており、これを知った政子は怒り、亀の前を匿っていた伏見広綱の屋敷を破壊するうわなり打ちを行うなど実力行使に出て、その怒りをあらわにしました。

この一連の事件は、政子が、縁戚ながらも頼朝の御家人でもあった牧宗親にうわなり打ちを命じる権限を持ち、さらに頼朝の御家人である伏見広綱を罰する権限も持っていたことを表しており、御台所として頼朝に並ぶ権限を持っていたことになります。

事件はこれにとどまらず、頼朝による牧宗親の処分に対して、北条時政が反発し、伊豆に引きこもってしまうなど、鎌倉中を巻き込む大騒動に発展しました。

一方の頼朝は、これほどの騒動になってもなお、亀の前との逢瀬をやめず、そんな頼朝に対し政子は再び怒りをあらわにし、頼朝は政子の怒りを鎮めるために、自身の命令で亀の前を匿っていた伏見広綱を配流処分にせざるを得ませんでした。

この亀の前事件は、政子の嫉妬が爆発した事件というよりも、共同統治者である政子が、嫡男の誕生という重要な節目にも関わらず女性に現を抜かす頼朝を諌め、それでも態度を改めない頼朝に怒り、頼朝の信用を失墜させるような不利な仕置を行わせることで、頼朝を罰した事件であるといえます。

政子の仕置が亀の前本人には向いていないことからも、政子は亀の前ではなく、頼朝に怒っていたことがわかります。

この数年後に頼朝は、側室となった大進局との間に3男となる貞暁をもうけてしまいますが、この時にも政子は怒りをあらわにし、頼朝は大進局親子を鎌倉から追い出さざるを得ませんでした。

一方政子は、木曽義仲の子で、大姫の許嫁であった源義高が討伐された際には、非情な命令を下した頼朝を非難し、実行犯を獄門に処すなど、感情第一の行動を行ったり、木曽義仲の妹の宮菊を救うなど、情に厚い一面を見せていました。

源義高

源義経の愛妾の静御前が、義経を恋い慕う舞を舞って頼朝を怒らせた際も、静御前をかばい頼朝をなだめるなど、政治感覚に優れ冷徹な頼朝と、人情に溢れ御家人たちの尊敬を集める政子がお互い支え合うことで、初期の鎌倉幕府は成り立っていました。

このように、もともと頼朝の妻として御家人が忠誠を誓う存在であった上に、夫婦間の関係も対等であったことで、政子は頼朝の存命中からその力を発揮することができ、頼朝の生前から御家人たちの尊敬を集めていたことから、頼朝死後にその指導力を発揮していくこととなるのです。

源氏、北条氏の長老として鎌倉殿を支える 後見役としての政子

源頼家

源頼朝の死後、鎌倉殿の地位を継いだのは頼朝の嫡男、源頼家でした。

しかし政子も、頼朝の死後は、後家として源氏将軍家の家長となり、頼朝の跡を継いで鎌倉殿となった頼家よりも立場としては上になります。

当時は、夫が死亡した後は、妻は後家として一家を束ねる役割を担うこととなっており、領地を相続し、子どもたちへの配分を行ったり、後継ぎが幼少だった場合は当主として振る舞うこともありました。

また、頼朝の持つ膨大な所領も、当時は主流であった分割相続が行われていれば、頼家と実朝に分け与えられるはずですが、その形跡もないことから、後家である政子の手に渡っていたものと考えられます。

ただし、嫡男がしっかりしていれば、嫡男を差し置いてまで後家が表に出るということはそうそうなく、遺産整理後は、亡き夫の菩提を弔い続け余生を送るか、他の男性と再婚するかが一般的でした。

しかし、頼朝の跡を継いだ源頼家は、頼朝時代の功績を白紙撤回するような人事を行い、裁判制度も改定するなど、頼朝時代の否定に走るような政治を行います。

これに御家人たちの不満は高まり、その不満を抑えるために宿老たちによる13人の合議制が発足し、頼家の政治を補佐することで御家人の不満を抑えることとなりました。

いかに宿老たちといえども、鎌倉殿である頼家の政治に割って入るようなことを勝手にはできず、この13人の合議制を発足させたのは、後見役であった政子だと考えられます。

頼家による頼朝時代の否定は、御家人たちの反発が大きく、頼朝と並ぶ共同統治者であった政子が軌道修正を行ったというところです。

これ以降も、頼家が安達景盛の妻を奪おうとした事件や、阿野全成の討伐および妻の阿波局の救出など、重大事件が起きるたびに政子は表へ出て、事態の沈静化を図る役割を果たします。

安達景盛

そして最終的には、将軍としての資質に欠ける頼家を見限り、比企能員の変を経て、政子は息子の頼家を出家させ、鎌倉殿の地位から引きずり下ろすことになりました。

3代将軍源実朝の時代には、実朝がまだ幼かったこともあり、頼家の時代以上に表に立つことが多くなり、実朝の執政として、実質的に鎌倉殿の役割を果たすこととなります。

畠山重忠の乱では、戦後の論功行賞を政子自らが行うなど、本来は実朝の名で行うべき将軍の業務までをも自ら執り行っていました。

源実朝

畠山重忠の乱を経て、政子の父の北条時政が失脚すると、政子は源氏将軍家だけでなく、北条氏の中でも最年長となり、両家の長老として幕府全体の勢力バランスを保つ役割を担いました。

将軍の実朝が政治に熱心でなかったこともあり、政子は弟の北条義時を中心とした重臣の合議制による政治を推し進め、和田合戦など事件はあったものの政治は安定していたことから、しばらく表に出ることはなくなります。

その間に、実朝が後鳥羽上皇に気に入られ官位の昇進を続けていたのに伴い、政子も従二位という実朝に次ぐ官位を手にするまでになります。

しかしその実朝は、頼朝の死から20年後の1219年に、頼家の遺児である公暁によって暗殺され、源氏将軍家の断絶という前代未聞の状況に陥ることとなります。

名実ともに東国の頂点に君臨する 尼将軍政子の誕生

公暁による実朝暗殺

将軍であった源実朝が暗殺され、将軍不在となった鎌倉を仕切ることになったのが政子でした。

政子は、実朝を暗殺した公暁の討伐を北条義時に指示し、実朝暗殺という非常事態を収めます。

これ以降の政子は、東国で官位が最も高い人物となり、名実ともに東国のトップに君臨することになります。

実朝死後は、朝廷から皇族将軍を迎えることとなりましたが、朝廷と交渉を行えるほどの官位を持つ人物が、この頃の鎌倉には政子しかいなかったことから、この交渉でも政子が陣頭に立つことになりました。

しかし、朝廷との交渉は難航し、最終的には、摂家将軍として九条頼経が鎌倉に迎えられることになります。

九条頼経

九条頼経はまだ3歳で、政子が後見役として、引き続き幕府を仕切ることになりました。

九条頼経は幼く、当然官位も低かったことから、幕府の政治機関である政所を開く三位以上の官位を持つという条件をクリアできず、この頃の幕府は、従二位の官位を持つ北条政子の家政機関という体裁を取ることになりました。

実朝の死によって、名実ともに政子が鎌倉殿となり、この頃の政子こそ、尼将軍と呼ぶにふさわしいといえるでしょう。

政子の主導のもと、執権の北条義時を中心に幕府政治は安定しますが、実朝の死によって後鳥羽上皇ら朝廷との関係は極端に悪化し、ついには後鳥羽上皇が義時を朝敵とし、承久の乱が始まってしまいます。

後鳥羽上皇

幕府最大の危機に対し、政子は、頼朝の御恩の大きさを御家人たちに説き、御家人たちを団結させ、政子の言葉で一つになった御家人たちは、朝廷軍を圧倒し、幕府最大の危機を見事に克服します。

この時の政子の演説では、頼朝の死から20年以上が経過しているにも関わらず、その間に将軍を務めた頼家、実朝のことは一切触れられておらず、頼朝の功績のみを強調しています。

このことからも、源頼朝が作った政治体制に御家人たちは従っており、頼朝の死後、後継者としてかつての頼朝体制を支えてきたのは頼家、実朝ではなく、政子だったというのが当時の認識だったのでしょう。

仮に政子が頼朝の妻という立場でしかなく、20年ぶりに表舞台に姿を現し、夫を思い出して頑張ってほしいとだけ演説していたら、御家人たちはここまでの団結を見せることはなかったはずです。

頼朝の死後、代替わりしても頼朝体制を守り続け、時には息子を切り捨てるといった非情な決断を下しても幕府を守ってきた政子だからこそ、御家人たちはついてきたのです。

尼将軍という言葉は例えではなく、実質的な鎌倉殿として幕府を支え続けた政子を表す言葉だったといえるでしょう。

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