こんにちは!レキショックです!
今回は、13人の合議制のメンバーの1人、梶原景時が追放された梶原景時の変について紹介します。
源頼朝の腹心として仕え、一の郎等と称され、頼家にも忠実に仕えていた景時は、御家人たちの恨みを買い、鎌倉から追い落とされてしまいます。
そして、鎌倉を出て上洛する途中に、北条時政の領地の駿河国で、在地の武士たちに討ち取られ、その生涯を終えることとなりました。
梶原景時の変は、頼朝の死からわずか9ヶ月後のできごとで、絶大な権力を握っていた頼朝の死によって、御家人たちのパワーゲームが始まり、鎌倉殿第一の景時は、御家人たちにとって邪魔な存在となり、排除の対象となってしまいました。
今回は、梶原景時の変が起きた原因、なぜ景時は京都を目指したのか、そして、一連のできごとから透けて見える北条時政の陰謀説について紹介します。
御家人たちから1人で鎌倉殿を守り続けた? 景時が排除された理由
源頼朝の死後、源頼家が鎌倉殿となり、それから約3ヶ月後、13人の合議制が発足します。
この13人の合議制は、頼家の権力を制限したものとも、頼家を補佐する役割にすぎなかったともいわれていますが、偉大なカリスマだった頼朝がいなくなったことで、頼朝時代よりも彼ら13人の宿老たちの発言力が増したのは確かでしょう。
頼家は若いながらも、宿老たちが中心となって、頼朝時代の政治を粛々と進めていけばいいはずですが、頼朝の死と同時に前面に出てくるあたり、彼らは将軍による独裁政治に不満を持っており、御家人たちの権力拡大を目指していたと考えられます。
そんな御家人たちの障害となったのが梶原景時でした。
梶原景時は、源頼朝に忠実に仕え、一の郎等と称されるほどで、鎌倉殿の座を継いだ源頼家にも変わらず忠実に仕え、頼家の政治を支えていました。
私利私欲なく源氏将軍家に仕える景時は、当時としては異色で、だからこそ、将軍独裁政治に不満を持ち、権力拡大を図りたい他の御家人たちにとっては、鎌倉殿第一の景時は邪魔な存在となったのでしょう。
こうした背景のもと、多くの御家人たちの支持を得て作られたのが、梶原景時の弾劾状です。
この弾劾状には、畠山重忠や千葉常胤ら有力御家人が揃って名を連ね、13人の合議制のメンバーの家からも、北条氏と文官を除いて全員が署名しており、将軍親政路線を維持しようとする景時は鎌倉で孤立していたことがわかります。
景時弾劾に、比企能員が名を連ねている理由も、景時が推し進める将軍親政路線に反発していたからだとすると筋が通ります。
梶原景時と比企能員は、妻が頼家の乳母を務めており、ともに頼家の後見役の立場となっており、頼家政権のもとでは両者の利害は一致するはずです。
むしろ、源実朝を擁する北条時政が、頼家排除に動く可能性も、当時としてはすでに考えられ、同じ頼家派である景時が危機に陥っている中では、能員は景時擁護に回るのが普通です。
にも関わらず、比企能員が景時弾劾に名を連ねているのは、比企能員はあくまでも頼家をお飾りとして実権を握ることを目指しており、ともに頼家の後見役という立場でありながらも、御家人の立場を制限する景時が邪魔だという点では他の御家人と同様だったのでしょう。
比企氏と北条氏の激しい権力争いは、この一件で景時が排除されたことで、権力の座への道が開けたことにより、このあと本格的に始まっていくことになります。
この弾劾状が大江広元を通じて頼家に提出され、頼家は最終的には景時を鎌倉から追放することに同意してしまいました。
頼家としても、仮に景時を救う判断をするとなると、他の御家人全員を敵に回すこととなり、景時が頼家に尽くしていたのがわかっていながらも、景時を救うだけの力は頼家にはなかったといえます。
こうして、鎌倉で居場所をなくした景時は、京都の後鳥羽上皇のもとへ向かう決断をすることとなるのです。
景時はなぜ京都へ向かった? 朝廷に再就職を目指す景時
梶原景時は、鎌倉を追放処分になったのちに、自分の領地に帰り、その後一族を率いて京都を目指します。
鎌倉殿第一の景時にとって、自分が権力を失ったことで、御家人たちが源氏将軍家をないがしろにしていくのが目に見えており、景時自身が鎌倉に見切りをつけたというところでしょう。
景時が京都を目指した理由は、朝廷に武士として仕えることで、新たな居場所を見つけようとしたからだといわれています。
景時は、頼朝時代から朝廷との交渉役を務めており、後鳥羽上皇や徳大寺家など、京都の有力者たちとも太いパイプを築いていました。
景時が守護を務めていた国の一つである美作国は、有力貴族の徳大寺家の知行国でもあり、このつながりをもってすれば朝廷に取り入ることは容易です。
この時代、武士は全員が鎌倉幕府に仕えていたわけではなく、幕府の支配領域は一部に留まり、朝廷や寺社と主従関係を結ぶ武士も多くいました。
後鳥羽上皇は当時、朝廷の軍事力の強化を目指しており、多数の荘園からの資金力を背景に、院の親衛隊である北面の武士を増員し、西面の武士も新設するなど、富国強兵策に取り組んでおり、景時がもし京都へ行けば間違いなく厚遇されていたでしょう。
また、源氏の一族の御家人で、京都周辺に勢力を持っていた大内惟義は、御家人でありながら、実質的には後鳥羽上皇の部下となるなど、京都と鎌倉に両属しており、御家人から朝廷の武士へ転職することはそこまで珍しいことではありませんでした。
もっとも、頼朝は、自分の御家人たちが大内惟義のように朝廷に取り込まれるのを嫌ったからこそ、かつて源義経を処罰した時のように、御家人が勝手に官位を受けるのを禁じていました。
頼朝の先例があったにも関わらず、鎌倉幕府内では、北条氏の権力が増していくにつれて、北条氏に反発する御家人たちは、朝廷で新たな活躍の道を得ようと幕府を去っていくこととなり、承久の乱へとつながっていくこととなります。
このことからも、頼朝の死後、鎌倉幕府は御家人に対する統制力を徐々に失っていっていたことがわかります。
こうした事情もあり、景時は一族郎党を率いて、京都を目指して西へ進みますが、その途上の駿河国で、在地領主の吉川友兼らに襲撃され、一族揃って討死することとなります。
吉川友兼は、戦国時代に毛利氏のもとで活躍する吉川氏の祖先で、この一件により中国地方に所領を与えられ、のちに発展する基礎を作ります。
駿河国の守護は北条時政で、吉川友兼らは時政の命令下にあったことから、北条時政こそが梶原景時の変の黒幕だといわれています。
梶原景時の変を引き起こしたのは誰なのか、変後の動きから探っていきます。
黒幕は北条時政か? 景時追放に動いた勢力とは
梶原景時は、時政の手の者によって討伐されており、北条時政が景時排除において中心的な役割を担っていたことは間違いないでしょう。
ただし、時政が単独で景時追放を目論み、御家人たちを扇動して景時を討ち取ったわけではありません。
この頃の時政は、北条政子の父という立場はありながらも、軍事力では比企氏など、他の御家人たちには劣っており、のちに執権と呼ばれるような絶大な権力を持っていたわけではありませんでした。
時政はむしろ、力を持っていないからこそ、有力御家人たちの間を取り持ち、結果的に幕府の主導権を握るといった、政治力に長けた人物であったと考えられます。
13人の合議制についても、北条氏から親子揃ってメンバーに連なっており、御家人たちの取りまとめ役として主導権を発揮していたことがわかります。
北条時政は、景時が鎌倉を出て西に向かった際にも、弾劾状に名を連ねていなかったことから、大江広元や三善康信ら文官たちとともに御所に集まり、景時追討の決定に関わっています。
このことからも、時政の役割としては、与党である三浦氏などに景時を糾弾させ、自分は表立っては関わらず、幕府内部を、景時追放で統一する役割を担っていたのでしょう。
そして最終的には、自らの手で景時を抹殺することで、一連の計画を完遂しました。
また、景時への弾劾の原因となった結城朝光、三浦義村も、景時排除の中心的な役割を担ったと見ていいでしょう。
結城朝光は、北関東の有力武士であった小山朝政の弟で、変後には、兄の朝政は、梶原景時の旧領の播磨国の守護に任じられています。
また、同じく景時の旧領の美作国の守護には、三浦一族の和田義盛が任じられており、結城朝光、三浦義村は、ともに若手であったことから、自身が恩賞を得ることはなかったものの、一連の事件で実行部隊として中心的な役割を果たしたからこそ、一族として恩賞に預かることができたといえます。
領地配分からも、小山氏、三浦氏が景時追放に積極的に動き、北条氏が他の御家人たちをまとめ上げ、景時を亡き者とすることで、頼朝以来続いた将軍親政路線を壊そうとしたというのが、梶原景時の変の実態と考えられます。
梶原景時の持っていた力の大きさからも、御家人の多くが景時追放に賛同した理由が見て取れます。
梶原景時の死後、かつて平家方として戦って景時の庇護下にあった城長茂や、奥州藤原氏の生き残りの藤原高衡が、小山朝政を襲撃する事件を起こし、越後国でも城長茂の一族が反乱を起こしていました。
この反乱は即座に鎮圧されますが、かつて頼朝に反抗した勢力を景時が一手に引き受けていたことからも、侍所の別当も兼ねる景時の力が他の御家人たちより抜きん出ていたことがわかります。
景時を追い落とさなければ、鎌倉殿を中心とした世の中は続き、御家人たちが権力を伸ばす機会は永遠に失われると考えたからこそ、景時追放は多数の御家人の支持を得ることとなりました。
また、上総広常の時と同じく、強大な力を持つ景時がいなくなれば、その分の分け前も期待できたことも、御家人たちが景時を追い落とすのに賛同した理由といえます。
北条時政は、梶原景時の追放において、黒幕として主導的な役割を果たしたものの、時政個人の判断で動いたわけではなく、あくまでも御家人たちの総意に基づいて活動しており、時政の陰謀とまではいえません。
むしろ梶原景時の変は、時政の指導力を知らしめるきっかけとなった事件であったといえるでしょう。