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今回は、源実朝の和歌の師匠、藤原定家の生涯について紹介します。
藤原定家は、和歌の名人であった一方、人一倍出世に貪欲でもあり、他の貴族への嫉妬や長年出世できない不満を日記にぶちまける人間味あふれる人物でもありました。
鎌倉時代のできごとを現代に伝えてくれている明月記も、もとはといえば、定家が上級貴族を目指して書き始めたものです。
晩年には、息子の出世のために幕府の力を使おうと、牧の方の孫娘を息子の正室に迎えるなど、北条氏、鎌倉幕府とも直接関わりを持つようになりました。
今回は、後鳥羽上皇、源実朝とも深い関わりを持った歌人、藤原定家の生涯について紹介します。
中流貴族からの脱却を目指し出世レースに明け暮れる 若き日の定家
藤原定家は、藤原摂関家の全盛期を築いた藤原道長の6男、藤原長家から始まる御子左家の出身です。
藤原長家は、藤原道長の子として出世は約束されていながらも、兄たちが長命だったため思ったように出世できず、中流貴族の地位に留まっていました。
長家の曾孫で、定家の父にあたる藤原俊成が、和歌で頭角を現し、和歌の家として名を上げるようになります。
俊成は、勅撰和歌集である千載和歌集を編纂するなど和歌の道の第一人者として活躍していました。
ですが父を早くに亡くしていたことで、朝廷での出世は諦め、地方の受領などを歴任しており、和歌ではトップクラスだったものの、出世コースからは外れていました。
こうした状況下、俊成の次男として生まれた定家は、出世を目指して朝廷に仕え、父の俊成も、定家の出世を手助けするために、自分の官職を譲り、定家を後押ししています。
一方で定家は、幼い頃から、和歌集の編纂をする父の手伝いをするなど、一流の和歌に触れる機会が多く、和歌の腕前を磨いていきます。
早くから和歌を仕込まれた定家は、13歳の頃に、父の援助で侍従に任官し宮仕えをスタートし、はじめは平家政権下で院政を敷いていた高倉上皇に仕えていました。
この頃に、日記の明月記を書き始めていますが、日記はトップクラスの公家が子孫に残すためにつけるもので、定家の身分の公家は普通はつけることはありませんでした。
これは、定家が上級貴族への出世を目指しており、それにふさわしい家となるよう日記をつけ始めたものだとされます。
若い頃から野心をあらわにしていた定家は、しばしば病気に悩まされる虚弱な体質だった一方、神経質で感情的な人間だったようです。
平家が都落ちした頃には、父の和歌の弟子であった藤原季能の娘と結婚するなど、公家として順調でしたが、1185年には、殿中で暴行事件を起こして除籍処分になるという事件を起こしています。
先輩にあたる源雅行に嘲笑されたことに怒り、側にあった松明で殴りかかったもので、父の嘆願もあって何とか処分を解除される有様でした。
同時期に定家は、藤原摂関家の本流である九条家の九条兼実に仕えるようになります。
定家は、九条兼実に和歌の才能を認められ、兼実にも目をかけられ、九条家の和歌会に出席するなど、和歌の才能を周囲に披露する機会に恵まれるようになりました。
そして、九条兼実が、征夷大将軍となった源頼朝と組んで、朝廷内で権力を握ると、定家も出世を重ねていきます。
この頃には、定家はさらなる出世を目指して、妻と離縁し、承久の乱後に権力を握ることになる西園寺公経の妹と結婚しています。
ですが、朝廷内で、九条兼実に対抗して土御門通親が台頭してくると、兼実、そして定家の先行きにも暗雲が立ち込めます。
土御門通親は、娘の入内を目指す源頼朝と手を組み、九条兼実を失脚させてしまい、定家も不遇の時代を送ることになります。
そんな定家の運命を大きく変えたのが後鳥羽上皇でした。
後鳥羽上皇は、1198年に退位して上皇になったしばらくのちに、それまでは蹴鞠や闘鶏ばかりに熱中していたのが、急に和歌に興味を示すようになります。
そして、1200年には、後鳥羽上皇が百首歌の選定を始め、定家もメンバー候補になりますが、土御門通親の陰謀により、このメンバーから外されてしまいました。
和歌の道で再起を図る定家は、父の俊成の尽力もあって、なんとかこのメンバーに入ることができ、後鳥羽上皇に自分の歌をアピールする機会を手に入れました。
これをきっかけに、定家は上皇に気に入られ、後鳥羽上皇の和歌の会にも呼ばれるようになります。
上皇の近臣として新たな出世の道を見つけた定家は、昇進を目指してさらに貪欲に出世レースに邁進することになります。
後鳥羽上皇に認められ和歌の第一人者に 後鳥羽上皇の近臣としての定家
藤原定家は、後鳥羽上皇が設置した和歌所の寄人の1人に任じられ、新古今和歌集の編纂メンバーにも選ばれます。
定家は、後鳥羽上皇に和歌で仕えながら出世を目指し、土御門通親や後鳥羽上皇の乳母の藤原兼子に昇進を頼み込む日々を送りますが、なかなか出世できず、悶々とした日々を過ごしていました。
1202年に、土御門通親が亡くなり、定家が仕える九条家が復活しますが、主家の九条良経が30代で亡くなるなど運に恵まれず、定家の出世はなかなか思うようには行きませんでした。
1206年には、定家は正式に院近臣になり、後鳥羽上皇の側で仕えるようになります。
ですが、後鳥羽上皇が建立した最勝四天王院の障子に描く歌を定家が撰んだ際には、全て別のものに変えられてしまうなど、後鳥羽上皇の絶大な信頼を得るまでにはいきませんでした。
定家が源実朝との交流を持ち始めたのは、後鳥羽上皇に和歌の才を認められながらも出世しきれないこの頃でした。
定家の弟子である内藤朝親が、鎌倉の実朝のもとへ定家が編纂した新古今和歌集を献上し、これをきっかけに実朝は和歌に興味を持ち始めます。
そして、朝親を通じて、師匠の定家に自作の和歌の添削を求めるようになり、実朝と定家は交流を持つようになりました。
ですが、この頃の後鳥羽上皇は、和歌は続けつつも、蹴鞠の方に興味は移っていたといい、それに伴って定家の存在感も薄くなってしまいます。
それでも、後鳥羽上皇のお気に入りであったことには変わらず、1211年にはついに、公卿になれる地位の従三位に出世を果たしました。
この時定家は50歳に達しており、人生も後半になり、ようやく一つの目標地点に到達したことになります。
ですが、後鳥羽上皇は同時期に、定家のような一芸に秀でたお気に入りを揃って従三位の位に引き立てており、人数は倍近くにまで増えたといいます。
そのため、位は上がっても職に就けず、定家が目指していた参議の職を手にし、公卿になったのは、それから3年後のことでした。
この頃の定家は、出世のために権力者に取り入る日々を送っており、特に、後鳥羽上皇の乳母で、当時の権力者であった藤原兼子へアピールを続けていました。
参議になれたのも、兼子に2ヶ所の荘園を寄進したことが功を奏したともいわれています。
定家は、主家の九条家に頼るだけでなく、兼子をはじめ、独自に権力者へ出世アピールを続けていたため、九条家や縁戚の西園寺家が後鳥羽上皇と距離ができていく中でも出世することができました。
定家は播磨守に任じられるなど、父の官職を越える出世を果たしますが、それ以上の昇進はなく、ここにきて出世が停滞してしまいます。
承久の乱に至るまでの政治は、後鳥羽上皇と藤原兼子らが中心となって行われており、定家の出る幕が少なかったことも、昇進に影響を与えたでしょう。
やがて、源実朝が公暁によって暗殺され、実朝をコントロールして幕府を支配しようとしていた後鳥羽上皇の政治方針が挫折してしまうと、後鳥羽上皇は倒幕を目指すようになります。
そんな後鳥羽上皇の姿勢に危機感を抱き、慈円などは愚管抄を著して挙兵を諌めたりもしていますが、後鳥羽上皇はそうした反対派を次々と遠ざけていきました。
定家も、直接挙兵に反対したわけではありませんが、この頃に、大宰府に左遷された菅原道真に自分をなぞらえて歌を詠み、それに怒った後鳥羽上皇によって歌会への出入りを禁じられてしまいます。
定家は挙兵には何の関心もなく、ただ昇進できない恨みを歌に込めて、それを後鳥羽上皇に咎められただけともされます。
結果的に、定家は政治の中心から追い出され、承久の乱を外から眺めることになります。
承久の乱で後鳥羽上皇は幕府軍に敗れ、朝廷が大変革しますが、承久の乱は定家の道が開けるきっかけにもなります。
牧の方との縁から北条氏、幕府とも関係を築く 晩年の定家
承久の乱で後鳥羽上皇が隠岐に流され、朝廷の体制は幕府主導で一新されますが、この新体制は定家に有利なものとなりました。
幕府の信任を得て朝廷を主導した西園寺公経は、定家の妻の弟にあたり、定家の主家である九条家も、親幕府派として復権を果たしたのです。
定家は、彼らに忠実に仕えることで、後鳥羽上皇の時代には不可能だった昇進を成し遂げ、公家としては2番目に高い正二位の地位にまで上りました。
定家は、九条道家の子の九条教実に主に仕えており、教実に朝廷での作法や和歌などを教えていました。
その縁もあって、教実が父の跡を継いで関白になると、定家は念願だった中納言に任じられます。
定家は、教実の父、九条道家にも昇進のためになりふり構わず猛運動を行っていたといい、70歳近くになってもなお、出世欲は衰えていませんでした。
のちに定家は、この昇進は承久の乱がなかったら不可能だっただろうと回顧しています。
年齢的にも、中納言が出世の限界と見て、中納言就任の翌年には出家し、定家は、長年に渡る自身の出世の戦いに幕を下ろすことになります。
この後の定家は、息子の為家の出世を支援し、自家の発展を図るようになります。
定家は、承久の乱からしばらく経ったのちに、息子の藤原為家の妻に、鎌倉幕府の有力御家人、宇都宮頼綱の娘を迎えています。
頼綱の娘は、北条時政と牧の方の孫娘にあたり、定家は、北条氏とつながりを持つことで、自家の繁栄につなげようとしました。
出世に目がない定家は、北条時政の七女を妻にした公家の滋野井実宣が、北条氏とのつながりを背景に昇進を遂げる姿を批判していましたが、その一方で自分も真似して、昇進につなげたことになります。
この婚姻はさっそく功を奏し、北条義時の死後、執権となった北条泰時が、定家の義理の弟の西園寺公経に、為家の官位昇進を口添えします。
2人の縁者のおかげで、為家は、かつて定家自身がなれずに悔しい思いをした蔵人頭に就任し、やがて父を超えて、大納言の地位にまで出世していきます。
こうした北条氏の支援は、泰時だけでなく、北条時政の妻で、娘を公家に嫁がせ、時政死後も隠然たる権力を有していた牧の方のおかげだったとされています。
牧の方は、娘婿たちを通じて、京都と鎌倉のパイプ役になっており、孫娘の夫である為家に対しても、出世を後押しすることで自分の勢力の拡大につなげようとしていたのでしょう。
為家の妻は、母親とともに伊豆の牧の方を訪問するなど定期的に交流しており、彼女を通じて定家、為家親子は鎌倉幕府とも関係を持つことになりました。
その関係で、牧の方が北条時政の13回忌を行うために京都に来た際には、為家の屋敷も訪問しており、定家も直接は会っていないものの、何らかのやり取りはしたことでしょう。
もっとも、為家の妻が妊娠中であったにも関わらず、祖母の寺社詣に同行させられたことに対し、定家は苦言を呈しており、定家と牧の方の関係は、必ずしも良好とは言えませんでした。
定家は引退後、政治の世界には直接関わらなかったものの、生涯にわたって和歌には取り組みつづけました。
定家は、官職を辞任する直前に、後嵯峨天皇に新勅撰和歌集の編纂を依頼され、引退後にこれを完成させています。
その後は、縁戚の宇都宮頼綱から、頼綱の小倉山荘の障子色紙用の歌を選んでほしいという依頼を受け、100人の歌人の和歌を頼綱に対して書き送っています。
これが現代に伝わる小倉百人一首となります。
最期まで和歌に情熱を注いだ定家は、1241年に80歳の生涯を閉じました。
定家の死後、跡を継いだ為家は、和歌の家として御子左家をさらに発展させていきます。
定家の死のしばらく後に、九条道家は北条氏と敵対し失脚してしまいますが、為家は九条家の庇護がなくとも、独力で朝廷での地位を確保し続けました。
ですが、北条氏と縁のある正室以外にも、十六夜日記を記したことで知られる阿仏尼との間に冷泉為相をもうけ、為家の死後、相続問題に発展してしまいました。
嫡流の二条家、庶流の京極家、冷泉家に定家の子孫は分裂していきますが、各家とも和歌の家として発展し、冷泉家は現代まで続き、定家以来の歌道を伝承しています。