こんにちは!レキショックです!
今回は、侍所の別当として鎌倉幕府の中心となった和田義盛の生涯について紹介します。
武勇に優れ、御家人たちをまとめる侍所の別当として活躍した和田義盛。
子孫は織田信長の重臣として信長の天下統一に大きく貢献するなど、義盛の系譜は後世にまで大きな影響を及ぼします。
その並外れた武勇によって、御家人たちの尊敬を集めた和田義盛の生涯を紹介します。
三浦一族として頼朝を初期から支える
和田義盛は、坂東八平氏の一つである三浦氏の一族として生まれました。
義盛の父は、杉本義宗といい、三浦義明の嫡男で、杉本城を本拠地としたことから、地名を名字としていました。
杉本義宗の弟が三浦義澄で、その子の三浦義村は鎌倉幕府の有力御家人として続いていきます。
三浦党は、鎌倉時代以降、和田義盛の系統と三浦義村の系統で分裂していくこととなりました。
やがて義盛が34歳の時、源頼朝が打倒平家の兵を挙げます。
義盛は三浦党の一員として、源頼朝の挙兵に参陣しようとしますが、その途中、頼朝が石橋山の戦いで大庭景親に敗れたことを知ります。
三浦軍は居城へ引き返しますが、その帰路で平家方の畠山重忠の軍と鉢合わせてしまいました。
畠山重忠は義盛と同じく、三浦義明の孫であり、三浦方とも縁者が多かったため、双方兵を引くことで和平がなります。
しかし、義盛が畠山軍の前で名乗りを挙げてしまい、弟の義茂が畠山軍に突撃してしまったことから戦いとなってしまいます。
三浦軍は死傷者を出しながらも居城の衣笠城に帰還しますが、そこを畠山重忠率いる平家軍に攻められます。
抵抗する力が残っていなかった三浦軍は、老齢の義盛の祖父、三浦義明が敵を防ぐ中、安房国に逃げ延びました。
祖父である三浦義明を討ち取られた義盛は、のちに味方となる重忠との間にしこりを残すこととなります。
義盛ら三浦一族は、安房国で頼朝と合流し、北条時政ら頼朝軍も続々と安房国に集結します。
義盛はこの時、頼朝に対し、天下をとった暁には自分を侍所の別当に任じてほしいと嘆願し、頼朝もこれを約束したといいます。
やがて頼朝は、再起を図るために、上総広常や千葉常胤といった房総半島の武士たちに参集を呼びかけます。
義盛は一帯の大勢力であった上総広常のもとに使者として派遣され、なかなか応じない広常を説得し、2万の大軍を頼朝のもとに引き込むことに成功しました。
義盛らの活躍によって大軍勢となった頼朝軍は、富士川の戦いで平維盛率いる平家軍を破り、常陸国の佐竹氏も討伐したことで関東で勢力を確立します。
その後、頼朝は関東統治のために諸機関の整備に取り掛かります。
ここで義盛は、御家人の統制、指揮を行う侍所のトップ、別当に任命されます。
安房国での頼朝への嘆願がついに叶うこととなったのです。
侍所のNo.2である所司には梶原景時が任命されています。
御家人を統制する義盛は、頼朝の御所完成に伴う儀式にて、御家人たちの最前に立ち、御家人を代表して儀式に臨むなど、頼朝政権の中心人物として活躍していくこととなります。
戦功争いを繰り広げる 平家討伐戦、奥州合戦での義盛
平家を都から追い出した木曽義仲が、後白河法皇と対立すると、源義経らが木曽義仲追討のために上洛しますが、義盛はこの上洛戦には従軍しませんでした。
義盛は侍所の別当として鎌倉に残り、罪人の処断などに当たっていました。
義経らは宇治川の戦いや一ノ谷の戦いで、木曽義仲、平家軍を破りますが、この戦いに義盛が従軍した記録は残っていません。
一ノ谷の戦い後、平家勢力を追い詰めるために頼朝の弟の源範頼が出陣した際に、ついに義盛も軍奉行として従軍することになりました。
範頼軍は九州に向かい、平家の退路を遮断する作戦に出て、範頼は奉行である義盛と何事についてもよく相談し、慎重に軍勢を進めました。
侍所からは、別当の義盛が範頼に、次官の梶原景時が義経についていましたが、義経と景時はことあるごとに対立し、やがて義経没落につながっていきます。
義経と違い、御家人とはうまくやっていた範頼軍でしたが、飢饉の影響で兵糧の調達に苦しみ、平家軍の反撃もあり、範頼軍は思うように軍を進められません。
この状況に御家人たちの不満は高まり、軍奉行である義盛ですら、長期の戦いに嫌気が差し、鎌倉に帰ろうとしていると範頼が頼朝に宛てた手紙に記されていました。
やっとのことで範頼軍は九州に上陸し、義盛は北条義時らとともに九州の平家方を撃破、平家の退路を遮断することに成功します。
その間に源義経は屋島の戦いで平家軍を撃破し、平家軍はついに追い詰められ、義経軍と合流した範頼軍と平家軍の間に壇ノ浦の戦いが始まります。
この壇ノ浦の戦いで、義盛は自慢の強弓を披露し、300mもの距離を飛ばし、平家方を驚かせます。
しかし、義盛がこの矢を返してみよと挑発したところ、平家軍も仁井親清という弓の使い手を用意し、矢を射返し義盛の自慢をあざ笑ったため、義盛は1人恥をかき、怒った義盛は平家軍に討入り、散々に敵を倒しました。
こうした義盛の活躍もあり、壇ノ浦の戦いで平家は滅亡します。
その後、頼朝と義経が対立し、奥州に逃れた義経が、奥州藤原氏の藤原泰衡に滅ぼされ、首が鎌倉に送られてくると、義盛と梶原景時によって義経の首実検が行われています。
奥州藤原氏討伐の戦いである奥州合戦では、義盛は一大決戦である阿津賀志山の戦いで藤原軍を破り、追撃戦で先陣を切って戦い、大功を挙げています。
この時に、先陣として戦いの勝敗を決めた畠山重忠と戦功を巡って論争となり、過去の諍いもあり紛糾しますが、重忠が引くことで収まりました。
やがて家臣の裏切りによって奥州藤原氏の棟梁、藤原泰衡の首が取られ、頼朝のもとへ送られ、義盛、重忠が首実検を行うことで、奥州合戦は終了。頼朝の天下統一が達成されることとなりました。。
相次ぐ御家人たちの争い 北条氏によって悲劇の最期を迎える
一連の源平合戦で戦功を挙げ、侍所の別当として御家人たちをまとめ上げていた義盛は、頼朝の上洛の際には先陣の栄誉を手にし、頼朝の推挙により官位を与えられた10人の御家人の1人にも選ばれます。
しかしこの頃になると、御家人たちの間で争いが次々と起こります。
義盛は、頼朝の信頼の厚い梶原景時によって侍所の別当の座を奪われてしまうというできごとに見舞われます。
これは、別当の座を望む景時が、領地に帰還する義盛に対し、1日だけでも別当にしてほしいと頼み込み、そのまま別当の座を奪われてしまったものだといいます。
しかし、実際のところは、御家人たちを統率する立場でありながら、戦場を勝手に離脱しようとするなど、その事務遂行能力に疑問を持った頼朝が、実務能力に優れた景時に別当の座を任せたということなのでしょう。
やがて頼朝が亡くなり、源頼家が2代将軍となると、御家人たちの争いは激しさを増していきます。
若い頼家では政治能力に不安があるとして、有力御家人達による13人の合議制が敷かれ、義盛もこの1人に選ばれました。
しかし13人の合議制のメンバーの1人、梶原景時は、頼家のもとで侍所別当として権勢をふるい、あることないことを讒言し、御家人たちの恨みを買っていきます。
梶原景時が、頼朝時代を懐かしんで「忠臣は二君に仕えず」とつぶやいた結城朝光を讒言する事件を契機に、ついに御家人たちの不満が爆発し、義盛はいとこの三浦義村などと協力し、御家人66人が連署した弾劾状を作成します。
政所の別当であった大江広元は、御家人たちの対立が激化するのを恐れ、この弾劾状を将軍頼家に提出するのを止めていましたが、これを知った義盛は広元のもとへ乗り込み詰問、広元はやむなく頼家に弾劾状を提出しました。
義盛にとっても、侍所別当の座を奪った梶原景時には相当な恨みがあったのでしょう。
これにより梶原景時は鎌倉を追われ、のちに討伐され滅亡、義盛は侍所別当の座に8年ぶりに復帰しました。
その後、将軍頼家の外祖父として権勢を振るっていた比企能員と北条氏が対立すると、義盛は侍所別当として北条政子の命令のもと、比企氏討伐に参加し、比企能員を滅亡させています。
これを知った将軍頼家は、義盛と仁田忠常に対し、北条氏討伐の命令を出し、御教書を届けます。
しかし義盛はこの御教書に従わず、北条時政にこれを届け、同じく御教書を受け取った仁田忠常は討伐され、将軍頼家も出家させられ伊豆修善寺に追放されてしまいました。
このように、侍所別当として力を持つ義盛は御家人たちの争いの中で、北条氏とともに動き、結果的に北条氏の権力拡大に貢献することとなります。
北条時政の策謀により畠山重忠討伐の兵が挙げられた際には、義盛も大将の1人として討伐に出陣しています。
義盛と重忠には個人的な諍いもあったことから、義盛も進んでこの戦いに協力したのでしょう。
しかし、北条氏の狙いはついに義盛に向けられます。
和田義盛は、所領のあった上総国司の座を望み、3代将軍源実朝に願い出ますが、北条政子によって拒絶されてしまいます。
これは、北条氏による義盛への嫌がらせ、牽制であったといわれ、以降、和田一族と北条氏の間には暗雲が立ち込めます。
頼朝の死から15年後、信濃国の武将であった泉親衡が2代将軍源頼家の遺児を擁立して北条氏を打倒しようとした泉親衡の乱が起きます。
乱は未然に防がれますが、義盛の子の和田義直、甥の和田胤長らが関与していたとされ、捕らえられてしまいます。
これを聞いた義盛は息子たちの赦免を3代将軍源実朝に願い出ますが、甥の胤長だけは許されず、胤長は助命嘆願に訪れた和田一族90人の前で縄で縛られ引き立てられるという辱めを受け、陸奥国へ配流とされてしまいます。
さらに、通常ならば罪人の屋敷は一族に払い下げられる習わしにも関わらず、胤長の屋敷は和田一族ではなく、別の御家人に恩賞として渡されてしまいました。
一連の出来事は、義盛の単純さを熟知していた北条義時による挑発行動であったといわれています。
度重なる挑発にしびれを切らした義盛は、一族や反北条勢力を率いて挙兵することを決意します。
挙兵に際し義盛がもっとも頼りにしたのが、同じ三浦一族の三浦義村でした。
義村は義盛の誘いに対し、起請文を書き、ともに挙兵することを約束します。
にもかかわらず、直前になって義村は北条義時にこれを通報し、義盛と決別してしまいます。
それでも義盛は挙兵し、和田合戦が始まります。
勇猛さで知られる和田勢は、北条側を圧倒し、義時を追い詰めます。
和田勢の圧倒的な強さを目の当たりにした義時は、将軍実朝の名で御家人を集め、大軍となって和田勢に襲いかかりました。
連日の戦いで疲れ切っていた和田勢は多勢に無勢で次々と討ち取られ、子の義直も討ち取られ大泣きしていた義盛も敵に襲われ、ついに討ち取られてしまいました。
義盛67歳の時の出来事でした。
こうして、頼朝のもとで活躍した和田義盛ら和田一族は、北条一族の野望の前に滅亡することとなってしまったのです。
和田義盛の子孫のその後 織田信長の筆頭家老として活躍
和田義盛には、嫡男の和田常盛をはじめ、多くの子がいましたが、その多くが和田合戦で命を落としてしまいました。
しかし、常盛の子の和田朝盛は、戦場から離脱し、のちに承久の乱で後鳥羽上皇方として幕府軍と戦っています。
また、朝盛の子で、佐久間家に養子に入っていた佐久間家盛は、幕府側として父と戦い、その戦功から上総国と尾張国に所領を得ます。
このうち、尾張国に根付いた佐久間氏の一族が、やがて戦国時代に入り、尾張佐久間家としてに仕えることとなります。
佐久間信盛は、織田信長の筆頭家老として石山本願寺攻めなどで活躍します。
しかし石山本願寺が降伏し、信長の権力が絶頂に達しつつある中、信盛は信長から織田家を追放されてしまいます。
また、柴田勝家の配下として活躍し、鬼玄蕃と呼ばれた佐久間盛政も和田義盛の子孫にあたります。
盛政は賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉相手に活躍するも敗れ、斬首されてしまいました。
その弟の佐久間安政、佐久間勝之の家系は江戸時代に入り、信濃飯山藩主、信濃長沼藩主として大名となりますが、後に断絶してしまいました。
信濃飯山藩主であった佐久間安政の子孫には、幕末の思想家である佐久間象山がおり、勝海舟や吉田松陰、坂本龍馬らに多大な影響を与え、明治維新に大きな役割を果たすこととなりました。
また、義盛の3男に朝比奈義秀という人物がいます。
義秀は、創作であるとはいわれているものの、木曽義仲の愛妾であった巴御前を和田義盛が気に入り、2人の間にできた子であるとされています。
武勇に優れた義秀は和田合戦でも和田一族の主力として活躍、名だたる御家人を次々と討ち取り獅子奮迅の活躍を見せ、合戦後も生き残り、安房国に落ち延びたといいます。
系譜が錯綜しているものの、子孫はやがて戦国大名今川氏に仕えた朝比奈氏につながったといわれています。
また、鎌倉へ至る通り道の一つである朝比奈切通しには、義秀が一夜で切り開いたという伝説も残っています。
単純で思慮が浅いながらも、その並外れた武勇で御家人たちをまとめ、頼朝の覇業に貢献した和田義盛。
その勢力を恐れた北条氏の策謀によって滅亡に追いやられてしまいましたが、子孫は生き延び、再び歴史の表舞台に舞い戻ることとなりました。
【画像引用】 大河ドラマ鎌倉殿の13人公式サイト https://www.nhk.or.jp/kamakura13/
大河ドラマ鎌倉殿の13人公式Twitter https://twitter.com/nhk_kamakura13
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