鎌倉 室町

阿野全成の女系子孫 公家 阿野家のお墓は谷中霊園に!

こんにちは!レキショックです!

今回は、源頼朝の弟、阿野全成の娘の家系である公家 阿野家のお墓について紹介します。

阿野全成は、源頼朝死後の鎌倉幕府内での権力争いに巻き込まれ、甥の源頼家によって殺害されてしまいました。

阿野全成

阿野全成の子どもたちは、源氏の血を引く者として、北条氏によって殺されてしまいますが、全成の娘が公家の藤原公佐に嫁いだことで、全成の血は公家に繋がりました。

全成の娘は、駿河国の阿野の地にあった、かつての全成の領地を一部引き継いでいたことから、公佐の子孫が阿野の姓を名乗り、阿野家は公家として続いていきます。

そして、鎌倉時代末期の当主、阿野実廉の妹、阿野廉子が、後醍醐天皇の側室となり、南朝2代目天皇 後村上天皇を産んだことで、阿野全成の血筋は天皇家にまで続くことになります。

阿野廉子

その後は、南朝の終焉とともに、一公家の地位に戻り、養子を迎えたことで、源氏の血筋は途絶えてしまうのですが、阿野家は公家として江戸時代を生き抜き、幕末維新の時期には、阿野公誠(あの きんみ)が、尊王攘夷派の公家として活躍します。

公誠は、新政府でも参与などの職を歴任したことから、公誠以降、阿野家は拠点を東京に移すことになり、子爵の爵位も授けられ、お墓も東京の谷中霊園に建てられるようになりました。

阿野公誠の孫の阿野季忠(あの すえただ)は、華族銀行として知られた十五銀行で副頭取まで上り詰め、貴族院議員としても活躍しましたが、1944年に出征し、戦死しています。

阿野季忠

季忠の子の阿野季房(あのすえふさ)も、1944年に戦死しており、季忠親子の戦死をもって、阿野家は断絶となってしまいました。

そんな阿野家のお墓は、東京都の谷中霊園『乙8号8側』にあります。

断絶してしまい、墓の手入れをする方がいないのか、雑草が生え放題となってしまっています。

幕末維新の当主、阿野公誠の墓は、阿野子爵家の祖として、墓地区域の中心に堂々と建っています。

一方、阿野季忠、季房親子の墓は、同時期に戦死し、墓を建てる遺族がいなかったのか、戦時中で豪華な墓を建てるのが憚られたのか、他の墓に比べ、簡素な作りとなっています。

阿野季忠の墓には、『昭和19年8月21日戦死』との文字が刻まれています。

阿野全成の墓は、静岡県沼津市の大泉寺にあり、八田知家に誅殺された場所にも全成を祀る五輪塔が残されていますが、東京近辺在住で、全成の史跡を訪問するのが難しい方は、全成の系譜を引く公家の阿野家のお墓も訪問してみてはいかがでしょうか?

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