こんにちは!レキショックです!
今回は、壇ノ浦の戦いの後も生き残っていた平家一門のその後について紹介します。
木曽義仲によって都から追い落とされて以降、平家は一ノ谷の戦い、屋島の戦いなど、各地で源氏の軍勢に敗れ、ついに関門海峡の彦島に追い詰められます。
平家を追い詰めた源義経ら頼朝軍は、平家の水軍に苦戦しながらもこれを撃破、平家水軍は壊滅し、戦いは源氏の勝利に終わりました。
平家に連れられていた安徳天皇は、平清盛の妻で、自身の祖母にあたる平時子に抱えられ入水し、平教盛、平経盛ら平家一門の多くも入水し、命を落とします。
こうして、壇ノ浦の戦いをもって平家は滅亡することとなりましたが、平家の棟梁、平宗盛をはじめ、この戦いを生き残った平家一門も多くいました。
今回は、壇ノ浦の戦いを生き残った平宗盛、平時忠、平頼盛、平徳子のその後について紹介します。
泳ぎがうますぎて生き残った? 棟梁、平宗盛のその後
平宗盛は、父の平清盛の死後、平家の棟梁として一門を率いていました。
もともとは、兄の平重盛が跡継ぎとされていましたが、父に先立って亡くなっており、次男の宗盛が家督を継ぐこととなりました。
しかし、父の清盛が亡くなった後、源頼朝ら源氏の勢いは増すばかりで、宗盛は、北陸から京都に攻め上ってきた木曽義仲の前に、京都を捨てて、西国へ落ち延びることとなってしまいました。
その後も一ノ谷の戦いなど各地で敗北を続け、壇ノ浦の戦いでも敗北した宗盛は、他の平家一門と同じく、息子の平清宗とともに入水します。
しかし、死にきれずに浮かび上がってしまい、泳ぎが達者であったことから海面を泳いでいた最中に、源氏方に引き上げられ、捕虜となりました。
宗盛が生き残った理由については、泳いでいるうちに命が惜しくなったとも、息子を生かすために自分も生き残ろうと思ったともいわれています。
平家物語では、宗盛について批判的に記述されており、一門が次々と入水する中、うろたえるばかりの宗盛を見かねた周囲によって海に突き落とされるも、得意の水泳で生き残った。父子ともに肥満体質であったため浮きやすかったとも記載されています。
こうして、源氏の捕虜となった宗盛は、京都へ帰還し、源義経とともに鎌倉へ向かうこととなりました。
この時に、義経は頼朝によって鎌倉へ入ることを禁じられ、腰越にとどまっていました。
一方の宗盛は、敗軍の将として、鎌倉で頼朝と面会します。
もっとも、頼朝は御簾の中から宗盛を眺め、宗盛は頼朝に見下される形となり、奇しくも、30年前に敗軍の将の子として捕虜となった頼朝と平清盛の立場と真逆になりました。
この時、宗盛は頼朝に対し媚びへつらい、助命を懇願したといいます。
このあられもない平家の棟梁の姿に、御家人たちは宗盛をあざ笑ったといいますが、宗盛にとっては、せめて息子だけでも生かしてほしいという思いだったのでしょう。
その後、しばらくの間は捕虜として鎌倉近くの逗子で軟禁生活を送りますが、その際に、地元の子供たちと遊ぶなど、東国の武士には見られない穏やかな性格を見せたことから、地元の人々からは好意を持たれていたといいます。
最終的には、宗盛らは源義経によって、京都に戻され、その道中の近江国で、一族もろとも斬首されてしまいました。
宗盛の子の清宗らも、父に先立って処刑され、宗盛の系統はここに途絶えることとなりました。
能登国の名家として残った 平時忠の系譜
「平家にあらずんば人にあらず」という言葉を残したとされている平時忠は桓武平氏の一族で、平清盛の妻、平時子の兄にあたります。
妹がそれぞれ平清盛、後白河法皇の妻となっていたことから、朝廷内でも権力を有し、武家である平家とは違い、文官としてでしたが、平家方の公卿として活躍しました。
やがて、源義仲に追われ、都落ちすることとなった平家一門に従い、時忠も西国へ逃れ、最終的には壇ノ浦の戦いで源氏方の捕虜となります。
この壇ノ浦の戦い以降、時忠は生き残りをかけて、源義経に接近します。
もともと、時忠は都落ちする際に、三種の神器の一つである神鏡を持ち出しており、平家滅亡の際も、この神鏡を保護し、朝廷の手に戻すのに一役買っていました。
この功績をもとに、時忠は減刑を願ったといい、さらに、自身の娘である蕨姫を義経の妾とすることで、義経の庇護を得ようとしました。
義経としても、後白河法皇によって検非違使に任じられている以上、それまで、長年検非違使を務めていた時忠と手を組むことは悪いことではなかったのかもしれません。
最終的に、時忠は死一等を減じられ流罪とされ、義経の庇護のもと、他の平家関係者が流刑地に送られる中、流刑地に赴かずに、京都にとどまっていました。
しかし、義経自身も頼朝との関係が悪くなっている最中であり、頼朝も義経と時忠の接近を危険視し、時忠の流罪を催促したことから、時忠はついに流刑地の能登国に赴きました。
時忠の子の平時実も、上総国に配流されていますが、奥州合戦の前に後白河法皇が頼朝に対し赦免を求めたため、のちに許され、京都で公卿として復帰しています。
一方、時忠は京都への復帰の前に、能登国で一生を終えることとなりました。
能登国にいる時忠のもとに、時忠の娘の縁を頼って源義経が逃亡途中に立ち寄ったという伝説も残っています。
時忠の死後、子の一人である平時国が、能登国の有力者としてその系譜を現代にまで伝えることとなりました。
時国の子孫たちは、現在の輪島市のあたりに移住し、地域の土豪として力を持つようになります。
鎌倉幕府全盛の世の中で平家の姓を名乗り続けることをはばかり、時国の字を名字とし、一帯の大名主として栄えました。
江戸時代初期には、300石の石高を有し、150人ほどの使用人を抱えるほどの規模だったといいます。
江戸時代には、かつての平清盛同様、海上貿易に目をつけ、北前船を自前で所有し、北海道と大坂の間を航海し、莫大な利益を挙げたといいます。
大きくなりすぎたこともあり、上時国家と下時国家に分かれた時国家は、住宅が重要文化財として今も残されているなど、現代にも続いています。
田中角栄元首相が逮捕されたロッキード事件で、東京高等裁判所裁判長として裁判にあたった時国康夫氏は、この時国家の一族であるといわれています。
また、時忠の次男である平時家は、源平合戦以前に、上総国に流刑とされていましたが、上総広常に気に入られ、広常の婿として平家と戦っていました。
広常が暗殺されたあとも、京都の文化に精通していたことから頼朝に気に入られ、幕府内でも最も高い官位を持つ者として、大江広元らと同様に、頼朝の文官として鎌倉幕府の政治に大きく貢献することとなりました。
平家に見捨てられ、頼朝の傘下に 清盛の弟、平頼盛
平頼盛は、平清盛の異母弟として生まれました。
母は、源頼朝の助命にも一役買ったことで知られる池禅尼で、この縁がのちに頼盛の運命を大きく動かすこととなります。
頼盛は、平家一門として順調に出世していきますが、兄の清盛の子の平重盛などが出世する中、出世のスピードは遅れており、徐々に平家と距離ができていきました。
清盛も頼盛の独立の動きを察していたのか、圧力をかけ、一時期、頼盛の官職を解官させるなど、必ずしも平家一門と一心同体というわけではありませんでした。
そんな中、平清盛が亡くなり、木曽義仲が倶利伽羅峠の戦いを経て京都に迫ると、頼盛を一門の重鎮として頼りとする棟梁の平宗盛は、頼盛に対し、義仲軍を防ぐために出兵を要請します。
頼盛はやむなく出兵するも、その間に宗盛は一族を率いて西国へ逃げてしまい、頼盛は最前線に一人取り残される格好となってしまいました。
この時、頼盛の心は完全に平家から離れたといっていいでしょう。
頼盛は、後白河法皇や朝廷の実力者、八条院の庇護を受け、そのもとで鎌倉の源頼朝と連絡を取り始めます。
平家滅亡以前から、頼盛は鎌倉へ行き頼朝に面会しており、頼朝としても、後白河法皇や朝廷に深いパイプを持つ頼盛が自陣営に来たことを歓迎し、厚遇したといいます。
頼盛は、頼朝の命の恩人である池禅尼の子であったことも、頼朝が頼盛を厚遇した理由といえるでしょう
頼盛は頼朝の支援のもと、平家として没収されていた領地を取り戻し、朝廷にも復帰します。
頼盛は、平家滅亡からほどなくして、病のため死去しますが、子の平光盛は、頼朝に恩人の一族として引き続き厚遇されます。
光盛は、鎌倉幕府と京都の朝廷をつなぐパイプとして、九条兼実らと同じく、鎌倉幕府寄りの公卿として活躍します。
鎌倉幕府とのパイプは頼朝の死後も続き、1219年には、鶴岡八幡宮での源実朝の右大臣任官の拝賀の儀式にも朝廷側として参列しており、公暁による実朝暗殺の現場にも居合わせることとなりました。
光盛には娘がおり、やがて鎌倉時代前期に権勢を振るった源通親の孫である久我通忠に嫁ぎます。
当時の久我家は没落寸前であったものの、光盛の娘が頼盛以来の領地を手に嫁いできたため、その領地をもとに勢力を回復し、子孫はやがて源氏長者を独占し繁栄することとなりました。
久我家はその後も続き、明治時代には侯爵に叙せられ、現代まで続くこととなりました。
また、平頼盛には、他にも子がおり、そのうち、5男の平保業は、池を名字とし、鎌倉幕府の御家人として続きました。
池氏は鎌倉時代を通じて播磨国などに所領を有し、室町時代まで続きます。
室町時代の当主である池顕盛は、朽木経氏を養子とし、以降、朽木氏は池氏の領地を継承し、織田信長、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでの寝返りを経て、明治時代まで大名として続きました。
壇ノ浦の戦いで息子を失いながらも生き残る 平徳子のその後
平徳子は、平清盛と平時子の娘として生まれ、高倉天皇に入内し、安徳天皇を産んだ女性です。
徳子は、安徳天皇とともに、平家一門の都落ちに従い西国へ下向し、最終的には壇ノ浦まで逃れることとなりました。
壇ノ浦の戦いで平家が壊滅し、一門が次々と入水し、徳子の子である安徳天皇も、徳子の母の平時子に抱えられ、入水しました。
徳子も一門に従って入水しますが、助け上げられ、一人生き残ることとなりました。
一説には、母の平時子に、一門の菩提を弔うために生き残るように説得されたともいいます。
生き残った徳子は、同じく生き残った一門である平宗盛らとともに京都へ送られました。
徳子は罪に問われることはなく、出家し、京都の吉田の地で一門の菩提を弔う生活を送りました。
徳子のもとには、のちに後白河法皇がお忍びで訪れたといいます。
平家を恨んでいた後白河法皇でしたが、一門や自身の子が目の前で亡くなり、菩提を弔う生活を送る徳子に対し、目の前に六道を見たのだろうと涙を流したといいます。
源頼朝も、徳子に対しては礼を尽くし、平家没官領の中から一部を徳子に与えていました。
徳子が亡くなった時期については諸説残っており、平家物語では平家滅亡から6年後の1191年に亡くなったとされていますが、一般的には1213年に58歳で亡くなったとも、承久の乱後まで生き残り、68歳で亡くなったとも伝わります。
徳子は、安徳天皇や母の平時子とともに、全国の水天宮で祀られており、水難除け、漁業、安産祈願のご利益があるとして、現在でも日本各地で信仰されています。
彼ら平家一門以外にも、日本各地には平家落人伝説が数多く残されており、平家の名跡を伝えているものもあります。
もっとも、この中には平家の血を引くもの以外にも、平家に与していた勢力なども、落人として数えられている他、後年になって、平家の威光を利用しようとした地元豪族による捏造なども含まれていますが、彼らは、源氏の世の中となった鎌倉時代をひっそりと生きることとなりました。