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大姫の生涯 父親の頼朝によって許嫁の源義高を奪われた悲劇の姫君のその後

大姫

こんにちは!レキショックです!

今回は、源頼朝の娘、大姫の生涯について紹介します。

頼朝と北条政子との間に初めて生まれた子として大事に育てられた大姫は、やがて木曽義仲の子の源義高と結ばれました。

しかし父の頼朝と義仲の関係が悪化し、義仲の死後に義高が殺されると、大姫の運命は暗転していきます。

義高を想いながら病に伏せる大姫に対し、権力者への道を駆け上がる頼朝は、大姫をなおも政治の道具にしようと企みます。

今回は、権力争いの犠牲となった大姫の悲劇の生涯について紹介します。

頼朝と政子の初めての子として生まれる。 大姫の生い立ち

源頼朝 北条政子

大姫は、当時流人として伊豆に流されていた源頼朝と、伊豆の豪族北条時政の娘、北条政子との間に生まれました。

頼朝と政子が結婚したのが、頼朝が平家打倒の兵を挙げる3年前の1177年頃であると言われており、その翌年に大姫は誕生したと言われています。

一説には、結婚前から頼朝が政子のもとへ通う間に、政子が大姫を身ごもっていたとも言われています。

当時は流人の身分であった頼朝と娘の政子が結婚することに対し、政子の父、北条時政は強く反対し、政子は雨の降る夜に頼朝の元まで走り、時政も渋々両者の結婚を認めたといいます。

こうして結ばれた2人の間に初めて生まれた子が大姫だったのです。

しかし、大姫が生まれた2年後、以仁王の令旨を受け取った父の頼朝は、打倒平家の兵を挙げ、伊豆の目代、山木兼隆を急襲。

相模国の平家方であった大庭景親らの軍勢とも戦いますが、石橋山の戦いで敗れ、安房国へ命からがら逃げ延びます。

この間、政子や大姫らは、戦火を逃れるために伊豆山神社方面に隠れていたといいます。

伊豆山神社

一時は頼朝の生死すらわからず不安な日々を送っていた親子でしたが、頼朝が鎌倉を拠点に勢力を盛り返すと、政子は御台所として、大姫は鎌倉殿の娘として鎌倉に迎えられることとなりました。

鎌倉に移り住んでから1年ほど経った頃、大姫にとっては4歳下の弟となる源頼家が生まれています。

この頼家の出産の時に、頼朝は亀の前と密通しており、これに激怒した政子が亀の前の屋敷を破壊する亀の前事件が起きました。

多少の事件はあったものの、良好であった頼朝一家でしたが、頼朝の権力拡大の過程で、家族の仲は崩壊していくこととなるのです。

源義高との出会い 悲劇の始まり

源義高

頼朝が関東で勢力を確立する一方、信濃国では木曽義仲が勢力を伸ばし、北陸方面への進出を目指していました。

義仲は、かつて頼朝と敵対していた叔父の志田義広、源行家らを保護していたことから、頼朝と対立していましたが、義仲の子、源義高を頼朝のもとへ人質に出すことで和議を結びました。

義高は、義仲の重臣であった信濃国の豪族の子弟である海野幸氏望月重隆らを伴い、鎌倉にやってきます。

この時、当時6歳であった大姫の婿に義高を迎えることとなり、大姫は幼いながらも、当時11歳であった源義高と結ばれることになりました。

かつて木曽義仲の父は、頼朝の父、源義朝と兄、源義平と戦い敗れ、討死しており、義仲と頼朝との間には浅からぬ因縁があったのですが、義高と大姫の婚約により両者は同じ源氏として手を結び、打倒平家を目指すこととなったのです。

頼朝としても、当時はまだ関東を抑えたにすぎず、北方には奥州藤原氏の脅威も抱えていたので、利害の一致した同盟関係でした。

しかし義仲は、倶利伽羅峠の戦いで平家を破り、破竹の勢いで平家を蹴散らし、京都に入ってしまいます。

倶利伽羅峠の戦い

頼朝は、後白河法皇からは勲功第一とされたものの、平家討伐の面では義仲に大きく遅れを取ることとなり、政治的には不利な状況に置かれました。

この状況を打開するために、頼朝は朝廷工作を行い、義仲が朝廷と不和になるように仕向けます。

この時点で頼朝と義仲の同盟関係はすでに破綻しており、両者は明確に対立するようになりました。

入京後に失策を繰り返した義仲に対し、後白河法皇はついに明確に対決姿勢を見せ、頼朝に対し義仲討伐を命じます。

源義経らに率いられた頼朝軍は、わずかな兵の義仲軍を蹴散らし、義仲は討死しました。

義仲の死により、鎌倉にいた義仲の子、源義高の立場は悪化してしまいます。

それでも頼朝はすぐには義高を殺害せず、約半年が経過します。

しかし、最終的には、頼朝は将来の禍根を断つためと義高殺害を決断します。

頼朝にとっては、義高を生かすことは、かつて自分を許した平清盛の二の舞になるという思いもあったのでしょう。

頼朝が義高を殺害しようとしていることを知った大姫は、義高を逃がそうとします。

義高と大姫が一緒にいた期間はわずか1年ほどでしたが、幼いながらも2人は仲睦まじく暮らしていたのでしょう。

義高は女房姿となり、大姫の侍女たちに囲まれながら屋敷を抜け出し、大姫の手配した足に綿を巻いた馬に乗って密かに鎌倉を脱出しました。

さらに、義高がいないことを悟られないように、側近の海野幸氏が義高の身代わりとなり、義高がいつもどおりいるように見せかけ、義高の逃亡時間を稼ぎます。

しかし、その日中に義高逃亡は露見し、怒った頼朝は義高討伐のために軍勢を派遣します。

義高を逃がすことに失敗し、明確に義高が討伐対象とされたことで、大姫は激しく動揺し、悲しみに打ちひしがれてしまいます。

そして義高は、現在の埼玉県の入間川付近で頼朝の側近であった堀親家の軍に捕まり、その郎党の藤内光澄によって殺害されてしまいました。

頼朝は義高を討ち取ったことを内密にしていましたが、すぐに大姫の耳に入り、大姫は悲しみのあまり水も飲めないほどとなり、やがて病に伏せってしまいます。

愛する娘が日に日に衰弱する姿を見た政子は、その怒りを義高を討ち取った藤内光澄に向けます。

北条政子

政子はたとえ主命といえども、事前に大姫に相談するなどの便宜を図るべき、ひとえに義高を殺害した藤内光澄が悪いと、頼朝に対し藤内光澄を斬首とするように求め、光澄は獄門にかけられました。

光澄にとってはとんだとばっちりで、頼朝にとっても、自らの命令に忠実に従っただけの者を死刑にすることは、自分の威厳を損なうことにも繋がるのですが、それほど政子の怒りが凄まじかったのでしょう。

大姫のことを気遣ってか、義高の身代わりを務めて捕らえられていた海野幸氏は、忠義の士として頼朝に御家人として召し抱えられることとなっています。

海野幸氏

幸氏は弓の名手としてその名を挙げ、信濃国に大きな勢力を築き、子孫も信濃各地で繁栄することとなりました。

義高殺害によって多くの犠牲を払うこととなった頼朝でしたが、この事件は頼朝の勢力拡大にも影響を与えることとなるのです。

最期まで政治の道具にされる 若くして悲劇の最期を迎える大姫

頼朝の上洛

義高を失った後、大姫は義高を想いながら、病に臥せる日々を送ります。

しかし権力者として台頭しつつあった源頼朝の娘として、政略結婚の駒となる運命は避けられませんでした。

源義高が暗殺された直後、後白河法皇は頼朝との関係を強化すべく、当時摂政を務めていた近衛基通と大姫の結婚を打診します。

当時はまだ義高の死の直後で、大姫も北条政子も深い悲しみの底にあった時期だったことから、頼朝はこの要請を断っています。

頼朝にとっては、九条兼実を摂政として推し、朝廷内を統制しようと考えていたことから、近衛基通との関係強化を断ったという面もあり、大姫を思っての拒絶ではなかったかもしれません。

その後、大姫は病に臥せりながら10年の時を過ごします。

この10年間、大姫はひたすら義高のことを想い、頼朝への憎しみをつのらせていたのでしょう。

10年後の1194年に、頼朝の妹の子で、鎌倉幕府と朝廷の折衝役を務めていた一条高能と大姫の婚約を頼朝が進めようとしますが、大姫はこの婚姻を拒絶します。

この時大姫は「そんなことをするくらいなら、身を投げる」と頼朝に言い放ったといい、頼朝もこれ以上事を進めるのを諦めました。

しかし頼朝は大姫をあろうことか後鳥羽天皇の妃にしようと入内工作を始めてしまいます。

後鳥羽上皇

頼朝は大姫をはじめ、北条政子や源頼家ら一家を率いて上洛し、朝廷の中心人物であった源通親丹後局に接触します。

この頼朝の行動は、それまで朝廷工作に利用していた九条兼実や一条能保といった親鎌倉幕府派とのパイプをないがしろにするもので、頼朝にとっては、今までの政治工作の成果を全て破棄してまで、大姫の入内を成し遂げたかったということなのでしょう。

実際に、頼朝は源通親や丹後局には、大量の豪華な贈り物をした一方、九条兼実らには馬2頭を贈るのみで、面会の予定すら直前でキャンセルするといった対応の違いでした。

この結果、鎌倉幕府のために尽くしてきた関白の九条兼実は、頼朝の後援を失ったことで、政敵であった源通親らによって失脚させられてしまいます。

この一連の朝廷工作は、頼朝の死後、鎌倉幕府による朝廷制御の不能へと繋がり、幕府と朝廷の関係に暗い影を落とすことになります。

このように、多大な犠牲を払って進められた大姫の入内工作でしたが、大姫の心労がたたったのか、この工作の最中、大姫は20歳の若さで亡くなってしまいました。

大姫が頼朝の入内工作に対して何を思っていたかは明らかではありません。

ただし、頼朝によって最愛の源義高を奪われ、鬱屈とした思いを抱えながら成長した大姫にとって、喜べるものでなかったのは間違いないでしょう。

頼朝は大姫の死後も、自身の娘の入内を諦めず、大姫の妹の三幡を代わりに入内させようと試みますが、その最中の1199年に51歳で急死してしまいました。

大姫の死から1年半後のことでした。

妹の三幡も、頼朝の後を追うように、4ヶ月後に亡くなり、晩年の頼朝が全てを注いだ入内工作は何も成果を挙げることなく終わり、鎌倉幕府の朝廷への影響力を弱めるだけの結果となってしまいました。

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  1. […] 一方政子は、木曽義仲の子で、大姫の許嫁であった源義高が討伐された際には、非情な命令を下した頼朝を非難し、実行犯を獄門に処すなど、感情第一の行動を行ったり、木曽義仲の妹の宮菊を救うなど、情に厚い一面を見せていました。 […]

  2. […] もっとも、丹後局は、頼朝の娘の大姫の入内には消極的であったと伝わっており、大姫や北条政子と直に対面はしたものの、結局は大姫の急死により入内は立ち消えとなってしまっています。 […]

  3. […] 忠久の出身である惟宗氏は、五摂家の一つである近衛家に仕えており、頼朝の娘の大姫が、一時期近衛家の近衛基実との縁組を進めていたことから、両家のパイプ役として、忠久は近衛家の所領であった薩摩、大隅、日向国にわたる大荘園の島津荘を与えられ、九州に土着することになりました。 […]

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