こんにちは!レキショックです!
今回は、安倍晋三の祖先について紹介します。
安倍晋三自身は東京都の生まれですが、本籍地は日本海に面した山口県長門市にあり、安倍家は先祖代々山口県、長州藩で続いてきました。
母親の洋子氏は、戦後に総理大臣を務めた岸信介の長女であり、さらに岸信介の出身の佐藤家は、幕末維新の長州藩士、佐藤信寛につながります。
佐藤信寛は、吉田松陰をはじめ、伊藤博文や木戸孝允といった幕末維新の志士たちとも深い交流を持っており、明治維新直後には島根県令を務めるほどの人物でした。
安倍晋三は、父方、母方両方で長州藩にルーツを持つ人物だったのです。
今回は、安倍晋三の祖父、安倍寛、岸信介、岸信介の曽祖父、佐藤信寛について紹介します!
聖人と慕われ、自分の信じる道を貫き通した政治家 安倍晋三の祖父 安倍寛
安倍家の歴史は平安時代、前九年の役で源頼義、義家に討伐された安倍貞任、宗任兄弟にまでさかのぼります。
奥州の有力者であった安倍貞任は討ち取られてしまいますが、弟の宗任は生かされ、九州に流罪とされます。
そして宗任の三男、季任が、肥前国の水軍勢力として名高い松浦氏の娘婿となり、安倍宗任から5代後の安倍高俊が、源平合戦で平家方の水軍として壇ノ浦の戦いを戦います。
ですが平家は敗れ、安倍氏は日本海に面した長門国の油谷に流罪となり、以降長門国に居住したといいます。
また、別の説では、平清盛の子で、壇ノ浦の戦いで平家軍を率いた平知盛の一族であると伝わります。
松浦党の安倍氏から妻を迎えていたものの、源氏方の追討を恐れ、妻の安倍氏を名乗り、長門国に平家の落人として隠れ住み、後世までつながったとするものです。
いずれにせよ、長門国の在地勢力として続いた安倍家は、戦国時代以降は毛利家の支配下の領民となります。
安倍家は代々庄屋として続き、酒と醤油の醸造を営む一帯の大地主でもあったといいます。
そんな安倍家から最初に政治家になったのは、安倍晋三の曽祖父、安倍彪助の義兄にあたる安倍慎太郎です。
安倍慎太郎は、地元の名士としての名声を活かし、1879年に第一回山口県議会議員選挙に出馬、見事当選を果たします。
慎太郎はこれを足がかりに中央政界への進出を目論んでいましたが、1882年に32歳の若さで亡くなってしまいました。
寛の父、彪助は、長州藩の中でも名門の椋木家からの婿養子で、安倍英任の娘で、慎太郎の妹であるタメと結婚しました。
慎太郎には子がいなかったため、タメが彪助を婿養子に迎え、安倍家を継がせ、2人の間に生まれたのが寛だったのです。
ですが、寛が生まれた直後に父の彪助は亡くなり、母のタメも寛が4歳の時に亡くなってしまい、寛は伯母に育てられます。
寛は東大在学中には、伯母からの仕送りを使って3人の苦学生を養いながら勉学に励むといった人並み外れた行動も見せています。
さらに、在学中に政治家を志した寛は、官庁への就職の道を捨て、「政治家は自分の金で政治資金を賄う」と卒業後は自転車制作の会社を起業しました。
最終的には故郷に戻り、1928年に初めて選挙権の制限がなくなった普通選挙に出馬しますが、この時には落選してしまいます。
その後、結核を患い療養生活に入りますが、そんな中でも、地元の青年に請われ、故郷の大津郡日置村の村長に推され、村長に就任します。
村長として村の改革を進め、数年で日置村は見違えるほど発展するといった快挙を成し遂げ、寛は大津の賢人と讃えられるまでになりました。
そして、県議会議員を経て、1937年の総選挙に再度出馬します。
山口県内では定数4名中4番目の当選でしたが、故郷の日置村の得票率は98%という全国最高の数値を叩き出し、ついに安倍寛は国会議員になりました。
寛は国会で、首相の近衛文麿が国家総動員法をもとに日中戦争を遂行する演説を行っている際に、反対と叫び壇上に向かっていったという話も残っています。
そんな寛のことを、周りの議員たちは幕末の志士、高杉晋作になぞらえて今高杉と呼んだといいます。
寛自身も、息子の晋太郎に、高杉晋作からとった晋の字をあてるほど、高杉晋作をはじめとした長州の志士たちを尊敬していました。
寛は選挙活動でも、自分を維新の志士の志を継ぐものだと訴えて廻り、長州の志士への思いは息子の晋太郎、孫の晋三にも受け継がれていきます。
寛は、東条英機内閣のもと行われた翼賛選挙でも、政府の支持を受けることなく当選し、東條内閣の戦争指導体制に対し鋭く糾弾するという、逆境の中でも己の信念を曲げない政治活動を続けました。
ですが、寛の病状は悪化し、終戦からわずか半年後の1946年に51歳の若さで亡くなってしまいました。
この寛の意思を引き継いで、息子の晋太郎は国会議員になり、総理大臣まであと一歩というところまで進むことになります。
安倍寛と同じく、長州に根ざし、国政で活躍したのが安倍晋三のもうひとりの祖父岸信介であり、岸信介もまた、長州藩士佐藤家の生まれとして、長州と深いつながりを持っていました。
吉田松陰に指導したことも 岸信介が尊敬した曽祖父 佐藤信寛
岸信介、佐藤栄作兄弟の曽祖父にあたるのが、明治維新後に島根県令を務めた長州藩士、佐藤信寛で、岸信介は、この佐藤信寛に大きな影響を受けています。
佐藤信寛は、代々毛利家に仕えていた佐藤家の出身で、幕末維新の動乱の中で出世した人物です。
信寛の叔父の坪井九右衛門も、長州藩の藩政改革を行った村田清風に従って活躍し、名を挙げていた人物でした。
信寛は、藩校の明倫館で学んだ後に、江戸に留学し長沼流兵学を修めました。
当時は外国船が頻繁に日本近海に出没し、にわかに兵法が人気を集め始めた時代です。
長州藩内で一流の兵学者となった信寛は評価を高め、のちに松下村塾を興し、幕末維新の志士を多く育てた吉田松陰も信寛に兵法を習いに行くほどでした。
この縁もあり、信寛は、伊藤博文や井上馨といった、のちに明治新政府の要人となる人物たちと交流を持つようになります。
信寛の才能は藩でも重宝され、様々な奉行を務め出世していきます。
信寛が兵学者として頭角を現していた一方、叔父の九右衛門も、一度は失脚したものの、再び藩政の中心に返り咲いていました。
ですが、幕府を支持する佐幕派であったため、過激な尊皇攘夷を押し進める長州藩内で孤立し、禁門の変の前年に尊攘派によって処刑されてしまっています。
信寛は叔父に連座することなく、藩の主流となった高杉晋作らと行動をともにし、幕府と長州藩の戦いである長州征討では、長州軍の一員として九州で戦っています。
その後の戊辰戦争などに従軍したかは定かではありませんが、明治維新後、信寛は現在の島根県にあたる浜田県令、さらに、当時は鳥取県と島根県を合わせた領域だった島根県令を務めています。
当時の県令は、版籍奉還によって知藩事となった旧大名に代わって、新たに派遣されたもので、民衆から見れば新しい大名のようなものでした。
信寛が島根と故郷の長州を行き来する行列はさながら大名行列のようだったと伝わります。
また、信寛の県令時代には、不平士族の反乱の一つである萩の乱が起きており、信寛は隣県の県令として首謀者の前原一誠の逮捕にも関わりました。
政治家としての信寛の活動は、この島根県令をもって終わり、以降は故郷で暮らすことになります。
信寛は孫の茂世を特に才能があるとして溺愛し、絶対に佐藤家から出すなと厳命していました。
そのため、茂世は嫁に行くことなく、婿を取って別家を立てることになります。
こうして茂世の婿に迎えられたのが、山口県の官吏を務めていた岸秀助あらため佐藤秀助で、この2人の間に岸信介、佐藤栄作兄弟は生まれました。
岸信介も最初は佐藤信介と名乗っており、のちに父の実家の岸家に婿養子に入り、岸を名字とするようになります。
岸信介が生まれた頃には曽祖父の佐藤信寛はまだ存命で、信寛は自分の信の字を与え信介と名づけるほど曾孫の誕生を喜んでいました。
信寛は岸信介が生まれた4年後の1900年に84歳で亡くなります。
信寛のもとには伊藤博文や有栖川宮熾仁親王がたびたび訪れていたといい、こうした交友関係は、佐藤家の人々に幕末維新の志士に連なる家という意識を植え付けることになりました。
信寛の子、信彦、婿養子の秀助は政治の世界に足を踏み入れることはありませんでしたが、曾孫の岸信介、佐藤栄作兄弟は政治の世界で日本のトップにまで駆け上がることになります。
安倍晋太郎、晋三親子の出世のきっかけに 昭和の妖怪 岸信介
佐藤家には、岸信介、佐藤栄作を含め計10人の兄妹がいましたが、佐藤信寛にも認められた茂世は、父の信彦が早くに亡くなったこともあり、自分の兄妹の面倒も見ながら、信介ら子どもたちも育てました。
佐藤家は酒造業を営み、塩田や水田も持つなど資産には恵まれていたにも関わらず、茂世が男女区別なく10人の子ども全員を進学させたことで、教育費で家が傾き、貧乏生活を送るほどでした。
その甲斐もあって、信介の兄、市郎は海軍中将にまで出世し、信介、栄作兄弟は東大に進学、官僚を経て総理大臣にまでなります。
岸信介は東大卒業後、成績優秀であったにもかかわらず、当時は二流官庁と呼ばれていた農商務省に入りました。
のちに分離した商工省に移り、産業界を中心に幅広く仕事をこなし、官僚としての道を歩み始めます。
日中戦争前年の1936年には満州国に行き、満州で大規模な産業開発5カ年計画を実施するなど、満州国の大物5人を表す弐キ参スケの1人に数えられるまでに出世しました。
この満州では、同じ山口県出身で親戚にもあたる松岡洋右や、日産の創業者鮎川義介らと組んでおり、長州を介した同盟関係を築きます。
岸信介は、鮎川の日産コンツェルンを本社ごと満州に呼び込むなど、満州の経済発展に大きく貢献しました。
満州では、当時関東軍の参謀長であった東条英機とも親しくなり、東条英機内閣が組閣されると、商工大臣として入閣を果たします。
東條のもとで戦争遂行に尽力しますが、サイパン島が陥落すると早期講和派として東條と対立し、最終的には東條内閣の瓦解に一役買うことになりました。
戦後は東條内閣のもとで閣僚を務めたことが仇になり、A級戦犯として巣鴨拘置所に交流されてしまいます。
ですが、東條内閣を倒閣させた功労者であったこともあり、終戦から3年後に不起訴となり放免されました。
岸信介と安倍晋太郎が結びついたのは、岸信介が放免されたものの、公職追放となり政治活動ができないこの頃でした。
岸信介は、長女の洋子氏の結婚相手として新聞記者が望ましいとしており、当時毎日新聞に務めていた安倍晋太郎の先輩が岸信介に推薦したことで、洋子氏と結ばれました。
洋子氏が安倍晋太郎と結婚することが決まった際も、岸信介は、安倍寛の息子ならば問題ないと快諾したといいます。
岸信介は、同じ山口県出身の政治家で、大津聖人と呼ばれ地元の人に尊敬され、戦争中も国家の推薦を受けずに当選し、東條内閣を厳しく糾弾した寛に尊敬の念を抱いていたと伝わります。
戦後、公職追放が解除された岸信介は、石橋湛山内閣の外務大臣に就任、その後総理大臣にまで上り詰めました。
安倍晋太郎も、舅である岸信介の秘書官を務め、岸が総理大臣になると、自身も総選挙に出馬し当選、政治の世界に飛び込むこととなります。
そして、岸信介の娘婿として自民党内でも活動の幅を広げ、自民党幹事長まで出世し、あと一歩で総理大臣というところまで進みます。
岸信介は政治の世界から引退した後も、まだ幼かった安倍晋三兄弟を可愛がり、熱海や箱根に旅行に連れて行ったといい、安倍晋三は幼い時から政治を身近に感じながら成長しました。
こうして、安倍家、岸、佐藤家という、長州の流れを汲む政治家一家に生まれた安倍晋三は、早くから政治の道を志し、内閣総理大臣にまで駆け上っていくこととなるのです。