こんにちは!レキショックです!
今回は、源頼朝に対し、父、源義朝のドクロを出し、頼朝に平家討伐の兵を挙げさせたという逸話を持つ、文覚について紹介します。
文覚はもともとは武士で、のちに出家し、頼朝のもとで外交僧として活躍しました。
文覚については、平家物語や、当時の公家、九条兼実が書いた日記、玉葉にたびたび記述されており、事実と創作が入り混じった結果、様々な逸話が残されています。
今回は、そんな稀代の扇動者、文覚とは何者なのか、詳しく紹介します。
同僚の妻に恋したあげく、誤って殺して出家?
文覚は、摂津源氏傘下の武士団である渡辺党、遠藤氏の出身で、もとは遠藤盛遠と名乗っていました。
摂津源氏は、以仁王とともに平家に対して挙兵した源頼政らの一族のことで、京都を拠点に天皇や摂関家に仕えていました。
盛遠も、北面の武士として鳥羽法皇の娘、上西門院に仕えていました。
この上西門院には、母親の縁から源頼朝も仕えており、盛遠も頼朝の父、源義朝や若い頃の頼朝と何らかの縁があったかもしれません。
しかし、盛遠は武士の地位を捨て、19歳の時に出家します。
盛遠が出家して文覚となったきっかけには、従兄弟で、同僚であった渡辺渡の妻、袈裟御前を誤って殺してしまったからという話があります。
この話は創作だとされていますが、当時絶世の美女と噂だった袈裟御前に荒くれ者の盛遠が恋し、盛遠の暴力と夫への貞節の間に挟まれた袈裟御前が、盛遠に自分を殺させたという話です。
袈裟御前は絶世の美女とされ、数多くの求婚者がおり、盛遠も求婚していた1人でした。
結局、袈裟御前は、盛遠と同じ渡辺党の武士、渡辺渡に嫁ぎますが、それから3年経ったある日、盛遠はふと袈裟御前を見かけ、さらに袈裟御前が自分の伯母である衣川の娘であることを知ります。
袈裟御前に恋してしまった盛遠は、伯母の衣川に刀を突き立ておどし、袈裟御前に会わせるように迫ります。
こんな荒くれ者に娘を渡すわけにはいかない衣川は、袈裟御前に会わせると方便を使い、盛遠を一旦帰らせ、袈裟御前に全てを話し、母を殺して盛遠と縁を切るように迫ります。
母親を苦しませるわけにはいかない袈裟御前は決意を固め、盛遠と会い、盛遠が求めるまま一夜を過ごします。
さらに盛遠が求婚するのに対し、夫の渡を殺してくれたら結婚すると、盛遠に夫の暗殺を持ちかけます。
自分の欲望のためなら暗殺などお安い御用と盛遠は渡辺邸に忍び込み、髷を結って寝ている人の首を切り落とし、首を持って渡辺邸から逃げました。
翌日、渡辺邸で殺人があったと人々が騒ぐのを聞き、袈裟御前を我が物にできると内心喜びながら渡辺邸に見物に行くと、妻が何者かに殺されたと悲しむ夫の渡の姿がありました。
慌てて自宅に帰り首を見ると、長年恋した袈裟御前の首が、髷を結った姿でそこにはありました。
これに深く反省した盛遠は、出家し、文覚と名乗ったという話です。
真相は分かりませんが、荒くれ者として知られていた武士、遠藤盛遠は19歳のときに出家し文覚となり、やがて歴史の表舞台へ出ていくこととなります。
父親の髑髏で頼朝に決起を促す 鎌倉幕府の要人に
出家した文覚は、しばらくの間僧としての修行に励みます。
やがて、1168年に、弘法大師空海ゆかりの寺である京都高尾山の神護寺に参詣し、寺が荒れ果てているのを嘆き、この寺の再興を目指すことになりました。
諸国に寺再興のための勧進をする中、後白河法皇に対しても神護寺復興を強訴したため、後白河法皇の怒りを買い、伊豆に配流されることとなります。
伊豆は盛遠のかつての主にあたる源頼政の知行国で、頼政が傘下の武士の責任を取って自分の領地内に追放したという形になります。
流人の身となった文覚は、ここで源頼朝と出会ったといわれています。
文覚と頼朝は、4年もの間慣れ親しんだ仲だったと天台座主の慈円が書いた当時を代表する日記『愚管抄』には書かれています。
この愚管抄には、文覚について、乱暴で、行動力はあるが学識はなく、人の悪口を言い、天狗を祭ると書かれており、文覚の人となりが伝わってきます。
実際に、頼朝の挙兵させるために、文覚は並外れた行動力を発揮しました。
文覚は僧という身でありながら、頼朝に対し、亡き父、源義朝のものであるとする髑髏を出し、挙兵を促します。
また、当時神戸の福原京にいた後白河法皇の近臣の藤原光能のもとへ行き、頼朝に対して平家追討の院宣を出させるように迫り、わずか8日で院宣をもたらすといった活躍を見せています。
これらの話は、平家物語に書かれているもので創作の可能性が高いですが、文覚の行動力、強引に押し通す力を示すエピソードだといえます。
挙兵し、勢力を拡大していく頼朝に文覚も付き従い、同じく挙兵した木曽義仲が京都で乱暴狼藉を繰り返すのに対し、頼朝の使者として上洛し、糾問するなど、外交でも活躍しました。
やがて頼朝は平家を追い詰め、平家は壇ノ浦の戦いで滅亡します。
僧として頼朝のもとで活躍した文覚は、鎌倉幕府成立後も頼朝に重く用いられることとなります。
また、頼朝の力を借りることで、文覚がもともと抱いていた神護寺の再興も叶うこととなりました。
文覚はさらに頼朝と協力して、東寺、東大寺、江島弁財天など、各地の寺院の再興のために力を注ぎます。
文覚によって数多くの寺院の建物の修復、所領の回復が叶うこととなりました。
さらに、文覚は、平清盛の嫡孫の平維盛の子、平高清の助命にも奔走しています。
高清は、平重盛の孫にあたり、頼朝にとって重盛はかつて自分を処刑から救ってくれた恩人であったことから、これを助け、高清は保護され出家することとなりました。
こうして頼朝の帰依を受けながら各地の寺院の再興に尽くしていた文覚でしたが、頼朝の死後、政争に巻き込まれていくこととなります。
天皇、将軍家の争いに巻き込まれ流罪に 文覚の最期
源頼朝が死んだ後、鎌倉幕府は大きく混乱し、朝廷内での争いにも巻き込まれていくこととなります。
源頼朝はかつて朝廷を抑え込むために、摂関家の九条兼実を引き立てることで朝廷をコントロールしていました。
しかし、朝廷内で九条兼実に反発する源通親らのグループが、頼朝の娘の大姫を後鳥羽天皇に入内させることを頼朝に持ち込み、頼朝と九条兼実のパイプは切れかかっていました。
そのような状況下、頼朝は死に、勢力を強めた源通親に対し、通親襲撃を企てる三左衛門事件が起こります。
首謀者は未然に捕らえられますが、文覚もこの事件に関与したとして捕らえられ、佐渡に流罪となってしまいました。
3年後、源通親の死に伴い文覚も許され京都に戻りますが、かつて自分が保護し、弟子としていた平高清は処刑されており、文覚の地位は急激に低下していました。
文覚にとってこの状況は不満であったに違いありません。
さらにその翌年、文覚は後鳥羽上皇の政治を批判したとして上皇によって対馬に流罪とされてしまいます。
文覚は対馬に向かう途中、九州で体調を崩し、亡くなってしまいました。
頼朝の死から4年後の出来事でした。
若い頃の乱暴なエピソードから一転して、晩年には各地の寺院の復興に精力的に尽くした文覚。
和歌山県には、文覚が開削したと伝わる文覚井が残っているなど、寺院だけでなく民衆のためにも尽くした僧であったようです。
また、2011年の水害で無くなってしまいましたが、那智滝の下流には文覚が修行したという文覚の滝が存在し、滝に打たれる文覚のもとに、不動明王の使いがやってきたといった話も残っています。
乱暴な若武者から得体の知れない謎の僧、そして寺院復興、民衆の生活改善に尽くすなど、人間味あふれる文覚。
大河ドラマ 鎌倉殿の13人で脚光を浴びることが期待されます。