こんにちは!レキショックです!
今回は、戦国最強の騎馬隊を率い、上杉謙信と激闘を繰り広げた武田信玄の子孫のその後についてご紹介します。
川中島の戦いで上杉謙信と戦い、織田信長を追い詰めるために西へ進軍する途中に病に倒れた武田信玄。
武田信玄の後は息子の武田勝頼が継ぎますが、長篠の戦いで織田、徳川連合軍に敗れ、徐々に勢力が衰えていきます。
織田信長によって追い詰められた武田勝頼は、天目山の戦いにも敗れ、息子の武田信勝とともに自害し、武田家は滅亡しました。
武田家一門も、甲州征伐によって討ち取られたり処刑されてしまいましたが、一部は逃げ延び、武田家の名跡を後世に伝えました。
今回は、そのうち、武田信玄の次男、海野信親の家系、上杉家に逃げ延びた武田信清の家系、そして徳川家康によって残された穴山梅雪の家系について紹介します。
江戸幕府の高家として残った 海野信親の家系
武田信玄と正室、三条の方の間には、嫡男でのちに自害に追い込まれた武田義信のほかに、海野信親がいました。
信親は盲目であったことから正室の子であるにも関わらず信玄の後継者とはならず、信濃の国衆、海野氏の養子となっていました。
その後出家し、竜芳と号しています。
信親は出家の身ではありましたが、武田信玄の実子ということで、甲州征伐では織田家の追討対象となり、寺に匿われたものの逃げ切れないことを悟り、自害しました。
信親の子である武田信道は、武田家滅亡に際し父が自害した後、出家します。
しかし織田軍による残党狩りは厳しく、信濃国でしばらくの間潜伏生活を送っていました。
やがて本能寺の変が起き織田信長は自害、旧武田領を治めていた織田家臣は相次いで本国に帰還し、信道は追手から逃れることに成功しました。
その後は甲斐の領主となった徳川家康に面会し、やがて江戸時代に入り、甲斐の長延寺の住職となります。
信道は武田遺臣で幕府でも重役となっていた大久保長安の庇護を受けていました。
しかし信道は、長安が私腹を肥やしていたとする大久保長安事件に連座してしまいます。
この時、長安が溜め込んだ財貨を改める過程で、信道の財産も没収され、武田家伝来の甲冑や旗などが幕府に没収されたといいます。
その後の信道は、伊豆大島に流罪となり、その地で亡くなりました。
信道の死後、跡を継いだ武田信正も長い間伊豆大島で暮らしていました。
そして父、信道が流罪となってから50年近くたった1663年、60歳を越えた信正はついに赦免され、磐城平藩主であった内藤忠興に預けられます。
内藤忠興は名門であった信正を娘婿とし、跡継ぎとなる武田信興が生まれました。
この頃の幕府は、5代将軍徳川綱吉の時代になっており、側用人であった柳沢吉保が権力を握っていました。
もともと柳沢氏は甲斐源氏の一族である一条氏の末裔で、代々武田家に仕えていました。
柳沢吉保は祖父が武田氏、そして徳川氏に仕えており、武田旧臣を自認する吉保は信興を引き取り、自身の屋敷で育てました。
吉保は武田家復権を目指し信興を引き立て、信興は甲斐国に500石を与えられ、旗本となります。
さらに将軍徳川綱吉にお目見えし、高家にも列しました。
信興の跡は息子の武田信安が継ぎます。
しかし信安の子は早世し、他に男子はなかったため、柳沢家から武田信明を養子に迎えました。
ここに武田信玄の血は途絶えることとなります。
その後、息子の武田護信と続きますが、護信にも子がおらず、水戸徳川家の一族である陸奥守山藩主、松平頼亮の子の武田信典が跡を継ぎました。
武田信典は、元信濃守護で甲斐源氏の支流でもあった小笠原忠真の女系子孫でしたが、武田家との血縁関係はほぼなくなってしまいました。
信典の跡は一度柳沢家からの養子を挟みますが、最終的には信典の実子の武田崇信が跡を継ぎます。
この武田崇信の時に武田家は明治維新を迎えます。
武田家は江戸幕府の崩壊に伴い食い扶持を失い、没落してしまったといいます。
明治維新時に没落した高家の話として、他人の家の2階でひっそり暮らしていた崇信の話が大正時代になって話の種となっていました。
崇信は養子として、織田信長の血を引く旗本織田信真の弟、さらに元浦賀奉行遠山景高の子の信任を迎えました。
この家系は現在も続いており、現在は武田邦信氏が武田家旧恩会会長として武田一族、旧臣の子孫の集まりなどを仕切られています。
また、山梨県甲斐の国大使、武田神社崇敬会総裁も務められており、現在も武田家ゆかりの山梨県のために活動されています。
宿敵 上杉家に仕えた 武田信清の家系
生き残った武田家の一族の中に、信玄の七男の武田信清がいます。
信清は、甲州征伐の後、織田家の残党狩りを逃れて、上杉景勝を頼って
越後に向かいました。
武田家と上杉家は長年対立してきましたが、武田勝頼と上杉景勝の代に和解、甲越同盟が結ばれ、武田勝頼の妹の菊姫が上杉景勝に嫁いでいました。
信清はこの菊姫の縁を頼って上杉家に向かったわけです。
その後は上杉家の家臣となり、上杉家一門、高家衆筆頭として3300石を領しました。
関ヶ原の戦いののち、上杉家が米沢30万石、さらに15万石に減封されても従い、領地は最終的に500石となりましたが、米沢武田家として続いていくこととなります。
信清の跡は子の武田勝信が継ぎました。
勝信は上杉家重臣の本庄繁長の三男にあたる本庄長房の娘を正室に迎えており、上杉家中でもかなりの地位を占めていたことがわかります。
勝信には男子がいなかったため、妹が嫁いだ本庄重長の子である武田信秀を婿養子に迎え武田家を継がせました。
その後も米沢武田家は代々米沢藩士として続き、現在も子孫は健在です。
徳川家康によって保護された 穴山梅雪の家系
甲州征伐で武田家が滅亡した後、武田家の名跡を継いだのが穴山梅雪の家系です。
穴山梅雪は武田信玄の娘の見性院を妻に迎えており、梅雪の息子の穴山勝千代は信玄の孫にあたります。
梅雪は一門衆として駿河の守備にあたっていましたが、早くに武田家から離反し、徳川家康についていました。
その際に織田、徳川方に信玄の血をひく勝千代を武田家滅亡後は武田家の当主とすることを了承させています。
その後、本能寺の変が起き、穴山梅雪も上方から帰還する途中に殺され、勝千代が正式に穴山家、そして武田家の当主となりました。
旧武田領をめぐる天正壬午の乱では、徳川方として旧武田家臣の懐柔に努め、家康が甲斐、信濃の大部分を支配することに貢献しています。
しかし1587年、勝千代は疱瘡によって16歳の若さで亡くなりました。
勝千代には子がなかったため、穴山家、そして武田家は再度滅亡することになりました。
家康は名門武田家が滅ぶことを惜しみ、自身の5男の武田信吉に武田家の名跡を継がせます。
信吉は穴山梅雪が家康に臣従する際に差し出した、武田家臣秋山虎繁の娘と家康との間に生まれた子で、武田家とゆかりのある人物でした。
その後、信吉は信玄の娘で穴山梅雪の妻であった見性院により養育され、関ヶ原の戦い後は水戸25万石の藩主となります。
信吉には旧武田家臣が多くつけられ、ここに武田家は大名として再興しますが、1603年、信吉は21歳の若さで死去、再び武田家は断絶することとなりました。
信吉に従っていた旧武田家臣の多くは、のちに水戸に入った徳川頼房に仕え、天狗党の乱を起こした武田耕雲斎など、幕末まで活躍しました。
武田信玄の子孫は、他にも信玄の5男で、甲州征伐では高遠城で大軍を相手に最後まで抵抗した仁科盛信の子孫や、信玄の6男で駿河の葛山家を継いでいた葛山信貞の子孫がいます。
仁科盛信の子孫は江戸幕府旗本として続き、葛山信貞の子は一説には大坂の陣で活躍した御宿政友であるといわれ、大坂の夏の陣で戦死しました。
織田信長によって一族の大半が死に追いやられた武田家。
しかし三方ヶ原の戦いなどで信玄の強さを嫌というほど思い知り、武田家の軍法を参考にした徳川家康によって一部の子孫たちは取り立てられ家を残しました。
また、井伊家の赤備えなど、武田家臣団たちも徳川家で多数活躍しています。