偉人解説

波多野泰久のモデル 池野成一郎の生涯 生涯に渡って富太郎と親交を結んだ大親友【らんまん】

池野成一郎

こんにちは!レキショックです!

今回は、ソテツの精子の発見でも知られる池野成一郎の生涯について紹介します。

池野成一郎は、東大の学生時代から牧野富太郎と親しく、富太郎が矢田部良吉によって大学を追放された際は、密かに駒場に富太郎のための研究施設を設け、富太郎のムジナモの研究の支援を行うなど、二人は友人として生涯に渡って親交を結びました。

代表的研究であるソテツの研究以外にも、教室の画工であった平瀬作五郎が発見したイチョウの精子を、ほとんど成一郎が独力で論文にまとめながらも作五郎を発見者として論文を発表させるなど、良い人柄を伝えるエピソードが数多く残っています。

遺伝の研究の第一人者にもなりましたが、同時に数多くの変人エピソードも残す愛嬌のある人物で、競争、追い落としが相次いだ植物学の世界で、人を悪く言うことに定評のある牧野富太郎も絶賛するほど周囲から慕われていました。

今回は、牧野富太郎と死の間際まで交流を続けた日本を代表する植物学者 池野成一郎の77年の生涯について紹介します。

富太郎と友情を育む一方、実績を認められ早くに助教授に就任 池野成一郎の出自

牧野富太郎

池野成一郎は、1866年、幕府旗本の池野好謙の子として江戸駿河台で生まれました。

後に植物学教室で一緒になる矢田部良吉の15歳年下、牧野富太郎の4歳年下にあたります。

成一郎は、当時の日本トップのエリートコースである開成学校、大学予備門と進み、英語だけでなくドイツ語、フランス語なども身に着け、1887年に前年に帝国大学と改称された現在の東京大学に入学しました。

成一郎は生物学科に入りますが、その年の入学者は成一郎ただ一人で、植物学に進み、教授の矢田部良吉が率いる植物学教室の一員となります。

植物学教室は、成一郎が入学する10年前に矢田部良吉が教授に就任し、助教授の松村任三、大久保三郎らを中心に、お雇い外国人に頼らず日本人のみで運営されていました。

矢田部良吉

当時の成一郎は、生命現象を研究する生理学に興味を持っていたものの、大学内ではまだ研究がほとんどされておらず、人も設備もなかったため、仕方なく植物生理学の本を読んで気を紛らわしていたといいます。

学生時代の成一郎は、植物学教室に出入りしていた牧野富太郎と仲が良く、標本で溢れ返る富太郎の下宿を訪ね、狸の巣のようだとからかったというエピソードも残っており、この後も生涯に渡って富太郎とは親交を深めていきました。

成一郎と富太郎の友情のエピソードは富太郎が様々な書物に書き残していることから豊富で、二人は食べ物の趣味が合い、二人でよく牛鍋を食べ、肉の取り合いをしていたといいます。

他にも、酒は飲まない代わりに甘いものに目がなく、饅頭、どら焼きなどのお菓子を二人して10個、20個と食べることが当たり前だったと富太郎は後に語っています。

成一郎は学生時代、教科書や二葉亭四迷『浮雲』を刊行していた金港堂の店主 原亮三郎から毎月現在価値で15万円ほどの資金援助を受けており、その金で外国の書籍を買い漁り勉学に励んでいました。

もっとも、この時の金は出世した後に全額返金しており、成一郎の真面目な性格が伺えます。

1890年に大学を卒業し、そのまま大学院に進みましたが、同年には新設された現在の東大農学部にあたる駒場農学校の授業も受け持つこととなり、大学内で働き口を得ることに成功し、以降も大学に籍を置き続けることができました。

東大農学部(駒場農学校)

同時期には、牧野富太郎は世界的発見となるムジナモを発見し研究を開始しましたが、その半年後、教授の矢田部良吉によって突如として大学出入り禁止の処分を受けています。

この富太郎の危機に立ち上がったのが親友の成一郎で、成一郎は自身の職場である駒場の農科大学内に秘密裏に研究の場を設け、富太郎の研究を支援しました。

植物学教室と離れた駒場には矢田部の目も届かず、富太郎は成一郎の援助でムジナモの研究を続けることができ、3年後の1893年に、開花したムジナモについて『植物学雑誌』で発表し、世界にその名が知られるようになります。

富太郎は大学を追放された後も『日本植物志図篇』の自費出版を続けていましたが、この出版についても成一郎は助力を惜しまなかったといい、後年、富太郎は成一郎の支援に感謝する文書を残しています。

日本植物志図篇

成一郎は富太郎の躍進の影の立役者となる一方、自身は1891年、25歳の時に駒場の農科大学の助教授に就任し、着実に大学内での地位を上げていました。

そして成一郎は、自身の代表的な研究となるソテツの精子の発見を成し遂げる事となるのです。

人の手柄を横取りせずに助け合う イチョウ ソテツの研究での池野成一郎

ソテツ

池野成一郎は旅行が趣味で、旅先で発見した植物を研究し論文として発表するということも度々行っていました。

そんな中、鹿児島に旅行した際、群生するソテツを見かけ、花に魅了された成一郎は、元々生理学に興味を持ち、ソテツの受精について研究が進んでいないことを知っていたこともあり、研究することを決めます。

成一郎のソテツの研究は、1894年頃から始まり、毎年九州方面に出かけては材料の収集に明け暮れ、1896年にはソテツの精子の発見に至り、論文も掲載します。

ただし、成一郎のソテツ精子の発見に先駆けて、平瀬作五郎がイチョウの精子の発見をしており、成一郎はその発見にも大きく携わっていました。

平瀬作五郎

福井出身の画家である平瀬作五郎は、植物学教室で植物画を描く画工として勤務しており、絵を描く暇つぶしに側にあったイチョウの種子を切断したところ、胚珠の断面に動く何かを発見します。

作五郎は、寄生虫のようにも見える謎の物体を不思議に思い、側にいた牧野富太郎に質問したところ、富太郎はソテツの研究を既に進めていた成一郎が専門だからと成一郎に繋ぎます。

当時、成一郎は主に駒場におり、植物学教室にはほとんどいませんでしたが、富太郎がいるからと時たま訪問しており、富太郎と成一郎の友情が成一郎とイチョウの精子を出会わせることとなりました。

成一郎は、平瀬作五郎が描いた植物絵を一目見た瞬間、イチョウの精子であることを見抜き、顕微鏡で見て確信に至ります。

イチョウ 銀杏

ただし成一郎は、この大発見を自分の手柄にすることはなく、当時は一画工に過ぎなかった作五郎に、論文として発表するよう勧めました。

もっとも、研究者ではない作五郎にとっては、この発見の価値が分からず、成一郎が自分の発見として論文を発表しても咎められるものではありませんでしたが、成一郎は発見者は作五郎だとして、懇切丁寧に発見の価値を説明します。

そして、外国の論文を翻訳して作五郎に読み聞かせ、論文のほとんどを代筆しながらも、1896年10月に平瀬作五郎の名で『いてふノ精虫ニ就テ』と題する論文を『植物学雑誌』に発表しました。

作五郎はこの発見により、一躍世界的に知られるようになり、やがて日本を代表する植物学者となっていきます。

一方、イチョウの精子を目の当たりにした成一郎は、自らの研究であるソテツにも精子があるはずだとの思いを強くし、研究に励み、イチョウ同様にソテツにも胚珠の中に精子があることを発見しました。

実際のところは、成一郎がソテツの精子を発見したことでイチョウの精子も精子であることが確認されたといい、イチョウの精子の発見はほとんど成一郎の功績といってもいいものでした。

成一郎は、作五郎のイチョウの精子の論文掲載の翌月に、ソテツの精子についての論文を掲載し、イチョウの精子と合わせて世界を驚かせます。

この発見は、花を咲かせ実をつける顕花植物には精子のような運動性のある生殖細胞はないという定説を覆し、植物学の常識を塗り替える大発見となりました。

イチョウもソテツもほとんど成一郎一人の手柄といっても差し支えありませんが、成一郎自身は生涯に渡って「平瀬作五郎の発見 研究に刺激されたお陰で自分もソテツの精子の発見ができた」と言って、自分一人の手柄とすることはありませんでした。

一連の研究により、植物学界での地位を不動のものにした成一郎は、この後も日本の植物学研究の歴史に残る活躍を続けていくこととなります。

苦難続きの富太郎を助けながら、自分も世界的研究者に。 池野成一郎の後半生

成一郎は、ソテツの精子以外にも菌類やコケ類などの研究をしていましたが、肉眼では見えない顕微鏡の世界での研究をし過ぎてか近眼が進みに進み、後半生は遺伝の研究に方向転換しています。

成一郎の近眼エピソードは豊富で、よく道を間違えるのは当たり前、日本橋から青山に行くのに電車の乗り場を見つけられず逆方向の永代橋まで行き、隅田川を渡って東に行ってしまった、電信柱やポストにぶつかっては「やぁ失敬」と謝っていたというのがあります。

近眼は関係なく少々変わった人だったようで、雨の日にはバケツを被って教室に向かったり、パリでは望遠鏡を首からぶら下げて歩いては人にぶつかり、イタリアのシチリア島では山で道に迷い、困った挙げ句その場で寝てしまったということもありました。

牧野富太郎も成一郎の変人ぶりについては語っており、成一郎は富太郎の家に来るなり柱に足をもたせ逆立ちしながら富太郎と話したこともあったといいます。

それでも研究では一流で、1906年には、大著『植物系統学』を著し、植物の構造、形態をはじめ、ダーウィンの進化論やメンデルの遺伝学など最新の研究も取り入れ、全植物の系統を論じています。

成一郎が論じた植物界を15群に分類する分類法は、高校の生物の教科書の基礎とされており、現代の生物学の礎を築くこととなりました。

成一郎は、矢田部良吉の後を受けて植物学教室のトップとなった松村任三の妹を妻としており、任三とは縁戚関係にありましたが、任三と富太郎が対立しても、友人の富太郎を捨てることはしませんでした。

松村任三

1907年には、富太郎の追放を画策する松村任三が、学長交代の隙を突いて富太郎を助手職から罷免させるという事件が起きますが、成一郎は先頭切って富太郎罷免反対運動を起こし、富太郎が講師として大学に戻れるよう尽力しています。

この頃には、成一郎は農科大学教授となっており、1912年にはソテツの研究により日本の学術賞としては最も権威のある帝国学士院恩賜賞に推挙されました。

この時、成一郎はイチョウの精子を発見した平瀬作五郎と一緒なら受けてもいいと譲らず、二人揃って恩賜賞が下されるといった出来事が起きています。

その後も、成一郎は遺伝学の分野で活躍を続け、世界で最初の遺伝学の学会 日本遺伝学会の初代会長も務め、日本、世界の遺伝学をリードしました。

一方で、成一郎は矢田部良吉と同じくローマ字論者であったため、遺伝学に関する著作『Zikken Idengaku』は題名がローマ字で書かれています。

牧野富太郎との交流は続いており、成一郎が61歳になった1927年には、成一郎は富太郎に理学博士の学位を取ることを強引に勧め、自分の研究を進めたい富太郎を説得し、過去の論文を元に博士論文を提出させ、博士号を取らせています。

牧野富太郎

これにより、たびたび借金で苦労していた富太郎は12円の昇給を果たしており、ムジナモの研究以降、富太郎の研究を支えてきた成一郎は、富太郎の妻 寿衛に並んで富太郎を日本を代表する植物学者に押し上げた大恩人となっていました。

池野成一郎は1943年に、77歳で亡くなりますが、富太郎は死の数日前にも成一郎の大好物である赤坂虎屋の餅菓子を土産に成一郎を見舞っています。

かつて甘いお菓子をともにたくさん食べあった成一郎は、この時も餅菓子を一つその場で食べたといい、これが二人の最後の会話となり、成一郎は老衰により生涯を閉じることとなりました。

参考文献

篠遠喜人『池野成一郎と遺伝学』 (『中央公論』80.(7))

上山明博『ソテツの精子の発見者、池野成一郎』(『飛翔』富士通 2000年) 平河出版社『近代日本生物学者小伝』 https://amzn.to/43LeTdA

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