こんにちは!レキショックです!
今回は、豊臣秀吉も恐れた戦国きっての名将、蒲生氏郷の子孫のその後について紹介します。
蒲生氏郷は、若い頃から織田信長にその力量を認められ、信長の死後は豊臣秀吉のもとで活躍、会津92万石を領するにまで至ります。
秀吉の信頼も厚く、奥州の要として伊達政宗など豊臣政権に反抗的な大名を押さえつけ、豊臣政権を支えますが、40歳という若さで亡くなってしまいました。
天下人に最も近かった男とも言われるほどの器量を持っていた蒲生氏郷。その子孫はどうなったのか、紹介します。
織田信長の孫にして徳川家康の娘婿 氏郷の子 蒲生秀行
蒲生氏郷の死後は、息子の蒲生秀行が蒲生家を継ぎました。
蒲生氏郷は、織田信長の実の娘である相応院を妻としており、秀行は信長の孫ということになります。
秀行には兄の氏俊がいましたが、幼くして亡くなっており、秀行が唯一の男子でした。
氏郷は戦国武将としては珍しく、側室を一切持っておらず、子はすべて相応院との間に生まれています。
愛妻家だったとも、信長の実の娘という身分の高さから側室を持つのを遠慮したともいわれています。
秀行は生まれつき病弱であったといい、氏郷は秀行を寺に入れ、武将としてふさわしく成長したら世継ぎにするという条件をつけます。
秀行は京都の南禅寺で僧として修行に励みますが、修行も道半ばの12歳の時、父の氏郷が急死します。
急遽、秀行は蒲生家の家督を継ぐこととなりましたが、会津は奥州の要で、反乱が頻発していた地域、秀吉も幼い秀行に任せるのは不安だったのか、一度は会津領を召し上げようとします。
関白であった豊臣秀次の取りなしによってなんとか改易されずに領地を受け継ぐことができましたが、蒲生家は五大老の前田利家、上杉景勝による補佐を受けることとなります。
また、徳川家康の娘、振姫との婚約も秀吉に命じられるなど、蒲生家は大大名の地位を維持しながらも、豊臣政権により管理される存在となりました。
そんな中、蒲生家では重臣たちの争いが激化します。
蒲生氏郷は自らの領地を減らしてまでも有能な人物を次々と召し抱えており、当主の権力が低い一方、重臣たちは大きな力を持つという状況でした。
たびたび争いを起こしていた重臣たちでしたが、氏郷のカリスマ性によってなんとかまとまっていました。
しかし、氏郷の死により、家中を取り仕切ることとなった新参の蒲生郷安と、それに反対する重臣たちが完全に対立し、お互いに軍勢を集め、一触即発の事態にまで至ってしまいます。
秀行にこの争いを収める力はなく、前田利家らの仲介も虚しく争いは収まらなかったため、ついに秀吉が介入、秀行は会津92万石から宇都宮12万石に大減封されてしまいました。
氏郷の死からわずか3年後のできごとでした。
このお家騒動は、奥州の要としての役割を果たせなくなっていた蒲生家の代わりに、越後の上杉家を会津に封じようと秀吉自身や石田三成などが計画した陰謀だったという説もあります。
大減封されてしまった蒲生家では、家臣を抱えきれなくなり、多くの家臣を解雇することとなりました。
武勇で知られる蒲生家臣は次々と他の大名に召し抱えられましたが、その中でも最も多く召し抱えたのが石田三成で、蒲生家臣の多くは関ヶ原の戦いを西軍で戦うこととなります。
蒲生家の減封の直後、豊臣秀吉は病のため亡くなり、時代は関ヶ原の戦いへと動いていきます。
徳川家康の娘婿である蒲生秀行は、当然東軍につき、関ヶ原の戦いでは居城の宇都宮で家康の次男、結城秀康らとともに北の上杉景勝への牽制の役割を果たしました。
関ヶ原の戦い本戦には参加しなかったものの、その戦功から、戦後、旧領の会津に60万石の大名として復帰することに成功します。
会津は蒲生家の旧領であることに加え、家康の娘婿であり徳川一門衆でもあった蒲生家を奥州の要の地に配置したいという家康の思いもあったのでしょう。
会津に戻った後も重臣たちの争いは続きますが、成長した秀行はなんとかこれを収めながら、藩政を確立させていきます。
しかし、1611年に城が傾くほどの被害を及ぼした会津地震が起き、家中の争いで心労もたたったのか、地震の翌年の1612年、秀行は30歳の若さで急死してしまいました。
家康も娘婿が突然重病になったとの知らせに大変驚いたようで、すぐに使者に薬を持たせますが、間に合いませんでした。
まだ豊臣家が大坂におり、徳川家の支配体制も盤石でない中の秀行の死は、家康にとっても相当痛手だったに違いありません。
秀行は、心労から晩年には飲酒量がかなりのものとなっていたといい、父、氏郷の残した家中の争いをついに抑えられないまま、亡くなることとなってしまいました。
天下人の血を受け継ぐも若くして亡くなる 秀行の子 蒲生忠郷
蒲生秀行の跡は、嫡男の蒲生忠郷が継ぎました。
忠郷はわずか10歳で家督を継いだため、徳川家康の実の娘である母親の振姫の後見を受けることとなりました。
しかし、忠郷が当主となったのち、今度は母親の振姫と重臣が対立するようになります。
振姫は忠郷の後見として藩政を見ることになりましたが、仕置奉行として藩政を担当していた岡重政と事あるごとに対立してしまいます。
この対立は日に日に激化し、岡重政は振姫の父である徳川家康によって駿府に呼び出され、死罪を命じられてしまいました。
さらに、振姫自身も、忠郷ら子どもたちを残して、和歌山を治めていた浅野長晟のもとへ再婚させられることとなってしまいます。
振姫は、子どもたちを会津に残し、36歳にして浅野家へ嫁ぎ、蒲生家からは引き離されてしまいました。
振姫は翌年に浅野長晟との間に嫡男の浅野光晟をもうけていますが、産後の肥立ちが悪く、出産直後に亡くなってしまいました。
こうして重臣、母を失った忠郷でしたが、大坂の陣では江戸留守居を務め、広島藩の福島正則や山形藩の最上義俊の改易の際には城の受取のために出兵するなど、着実に藩主としての実績を重ねていきます。
しかし、重臣たちの争いは収まらず、藩政の中心だった蒲生郷喜、郷舎兄弟が出奔してしまうなど、藩政は混乱続きでなかなか安定することはありませんでした。
この頃、忠郷は、藤堂高虎の娘の亀姫を正室に迎えています。
藤堂高虎は外様大名ながら徳川家の信任も厚い大名で、その卓越した政治手腕から、熊本藩加藤家など、政治的に不安定な藩の後見も多く務めていました。
高虎との関係は良好だったようで、母、振姫が嫁いだ広島藩浅野家が重臣を粛清したことで改易の危機に瀕した際には高虎の支援のもと、広島藩擁護に動いています。
こうして、重臣たちの対立という火種を抱えながらも、藩主として着実に成長していた忠郷は、1627年に疱瘡にかかり、26歳の若さで亡くなってしまいました。
忠郷には子がおらず、蒲生家は無嗣断絶となるところでしたが、母が徳川家康の実の娘であることが考慮され、弟の蒲生忠知が跡継ぎとなることが許されました。
抗えなかった早死の系譜 忠郷の弟 蒲生忠知
蒲生忠郷の跡は、弟の蒲生忠知が継ぎました。
忠知は兄とは分かれて別家として出羽上山藩4万石の藩主となっていましたが、兄の急死により急遽本家を継ぐこととなりました。
しかし蒲生家は本来ならば改易が相当であったため、相続は許されたものの、会津60万石から伊予松山24万石に減封されてしまいます。
伊予松山藩主となった忠知は、磐城平藩主の内藤政長の娘、正寿院と結婚します。
この結婚の祝宴は3日間に渡って盛大に催され、親族として大御所の徳川秀忠、3代将軍徳川家光も参加しており、減封されたとはいえ、徳川一門の家として蒲生家が幕府に重要視されていたことがわかります。
しかし、忠知の妻となった正寿院の姉が、蒲生家の重臣の1人、蒲生郷喜に嫁いでおり、偶然にも蒲生郷喜が忠知の義兄という立場を手に入れてしまったことがまたしても蒲生家内の重臣たちの争いの火種になってしまいます。
忠知は、現在も重要文化財に制定されている松山城の建設に力を入れ、伊予松山藩の藩政の確立に尽力します。
そんな中、忠知も重臣たちの争いに巻き込まれることとなります。
忠知の義兄でもあり、家中最大の力を持つ蒲生郷喜に対し、他の家老たちが反発し、連名で郷喜のことを忠知と幕府に訴えたのです。
将軍家光臨席のもと、裁判が行われましたが、結果として関わった家老全員が追放という形になりました。
これにより蒲生家の対立の火種はすべて取り払われることとなりましたが、政治の中心を担っていた重臣がほとんどいなくなってしまったため、これ以降、蒲生家は深刻な人材不足に悩まされることとなります。
この頃、忠知に待望の跡継ぎの男の子が生まれています。
当主の早死が続いていた蒲生家中の喜びはひとしおだったようで、忠知も事あるごとに贈り物をしていた記録が残っている他、義理の父にあたる広島藩主浅野長晟も、忠知の嫡男誕生を喜ぶ手紙を出しているなど、親戚筋にとっても喜ばしいできごとでした。
しかし、こうした喜ばしい記録が、嫡男の鶴松が3歳の頃にぱたりと途絶えており、忠知の子は幼くして亡くなってしまったようです。
そして、子の後を追うように、1634年、忠知も31歳の若さで急死してしまいます。
忠知が亡くなった際、正室の正寿院が子を身ごもっていたため、幕府も正寿院の子が男の子であれば改易を考え直そうと出産を待ちます。
しかし、生まれたのは女の子であったため、蒲生家は無嗣改易となってしまいました。
それでも、徳川家と縁の深い蒲生家ですから、将来的には生まれた女の子に婿を迎えて蒲生家を再興しようとする考えもあったといいます。
しかし、女の子も幼くして亡くなってしまったことから、蒲生家再興の道は絶たれ、蒲生氏郷以来の名門、蒲生家の歴史はここに幕を閉じることとなりました。
蒲生家の姫たちのその後 氏郷の血は残ったのか
蒲生家には、蒲生氏郷の娘に加賀前田家の前田利家の子、前田利政の正室となった籍、盛岡藩主南部利直の正室となった武姫、そして蒲生秀行の娘で、熊本藩主加藤忠広の正室となった崇法院がいました。
長女の籍と前田利政との間には子はできず、前田利政の前田土佐守家は、利政の側室の子が継いでいきました。
盛岡藩主南部利直に嫁いだ次女の武姫は、利直との間に跡継ぎとなる南部重直をもうけます。
しかし、重直との間には子ができないまま重直は亡くなり、跡を重直の腹違いの弟たちが継いだため、南部家にも氏郷の血が残ることはありませんでした。
熊本藩加藤家に嫁いだ蒲生秀行の娘、崇法院は、加藤忠広との間に嫡男の加藤光広をもうけます。
しかし、加藤家は光広が謀反の連判状を作って遊んだなど様々な理由から1630年に改易となってしまいます。
加藤家改易の原因は自分にあると堪えられなくなった光広は、改易から1年後、配流先で病死したとも自害したともいわれており、子はいなかったため、ここにも氏郷の血は残ることはありませんでした。
蒲生家は氏郷をはじめ、男子はみな若くして亡くなるという悲劇に見舞われた家でした。
また、氏郷は織田信長の娘を、子の秀行は徳川家康の娘を正室に迎えており、天下人の実の娘を妻に迎えた手前、側室を迎えるのを憚ったことも、蒲生家が早くに断絶する原因だったといえます。
蒲生家一門が増えなかったことは、重臣たちを抑えられる一門衆が育たなかったことにも繋がり、蒲生家を混乱させることとなります。
こうした反省もあったのか、蒲生忠郷、忠知の代には側室も迎えますが、子ができる前に当主が亡くなり、ついに蒲生家は滅亡となってしまいました。