こんにちは!レキショックです!
今回は、菌類研究の先駆者として功績を残した田中延次郎の生涯について紹介します。
田中延次郎は、植物学雑誌発刊の発案者として知られ、牧野富太郎らとともに発刊のために教授の矢田部良吉と交渉するなど活躍しました。
研究については、植物というよりも菌類の研究に特化し、変形菌の研究や新種のキノコの発表など日本の菌類研究をリードしています。
しかし、華々しい成果を挙げていた延次郎の研究はわずか4年で終わりを告げ、その後は養蚕業に関わる仕事をしながら博士論文提出を目論んでいたものの、研究の第一線を去ってから15年後、悲劇の最期を迎えることとなりました。
今回は、牧野富太郎にも友人として後世まで影響を与えることとなった田中延次郎の42年の生涯について紹介します。
溢れんばかりの才能で植物学教室の発展に貢献する 田中延次郎の出自
田中延次郎は、1863年、現在の東京 南千住の酒問屋 伊勢屋を営む市川家の長男として生まれ、当初は市川延次郎と名乗っていました。
後に植物学教室で指導を受ける矢田部良吉の12歳年下、牧野富太郎とは1歳年下で同世代にあたります。
延次郎は、幼い頃から地元では神童と評判で、4歳で天王社の額に揮毫をして、その達筆さを周囲の人から驚かれたというエピソードも残っています。
また、美男子で謡曲も得意だったと伝わり、風変わりなところもあったといいますが、頭の良い酒屋の跡取り息子として周囲の期待に応えて成長していきます。
やがて、1875年 12歳の時には東京大学に繋がるエリートコースである東京英語学校に入学し、その後大学予備門へと進み、1885年、22歳の時に東京大学へ入学を果たし、理科大学植物学選科へ進みました。
同じ時期には、後に植物病理学者として活躍し延次郎と生涯に渡って交友を結ぶこととなる白井光太郎も東大に入学しています。
当時の植物学教室は、矢田部良吉を教授として、助教授の大久保三郎ら日本人を中心に運営されており、後に矢田部の跡を次ぎ教室のトップとなる松村任三が海外留学に出る頃でした。
前年の1884年には土佐から上京した牧野富太郎も教室の門を叩き、教室の出入りを許可されており、植物学教室はまさにこれから飛躍するという時でした。
延次郎は、教室で牧野富太郎と意気投合したようで、後年、富太郎も自伝に延次郎のことについて記述を残しています。
富太郎の実家は土佐の造り酒屋 岸屋であり、同じ酒屋の息子として気が合ったのかもしれません。
入学からしばらく経った後、延次郎は自ら発案して、富太郎や同じ学生の染谷徳五郎を誘い、自分たちの研究成果を発表する植物学雑誌の刊行を提案します。
延次郎は富太郎らとともに、教授の矢田部良吉に報告し、矢田部が会長を務める東京植物学会の機関誌として植物学雑誌を発刊することで同意を取り付け、1887年に植物学雑誌が創刊されました。
延次郎自身も「すっぽんたけの生長」とキノコに関する論文を掲載したものの、雑誌刊行の発案者として記述されることはありませんでした。
それでも、延次郎は幼い頃からの達筆さを活かし、植物学雑誌の題字を揮毫しており、延次郎による題字はその後も受け継がれ、植物学雑誌の発案者としての痕跡を残しています。
日本最高峰の環境と仲間に恵まれた延次郎は、この後、菌類の研究に邁進し、歴史に名を残す活躍をしていくこととなります。
次々と成果を挙げ菌類研究の第一人者に 大学での田中延次郎
植物学雑誌発刊の翌年には、延次郎は粘菌とも呼ばれる「変形菌」に関する論文を日本人として初めて発表しています。
延次郎はこの論文内で、初めて自分が創った「変形菌」という言葉を使用しており、変形菌の名称はその後も菌類研究の世界で使われていくこととなります。
1889年には大学を卒業し、同年にはシイタケ栽培で知られる田中長嶺とともに日本初の菌類学所『日本菌類図説』を発刊しました。
この図説には、石版印刷による詳細な図も収められており、菌類研究の分野では図説としても走りとなる一冊となりました。
延次郎より40歳以上年下の菌類学者 小林義雄は、大学生の頃に、当時60代になっていた牧野富太郎から、延次郎の跡を継いでキノコの研究をするよう勧められ、延次郎の『日本菌類図説』を渡されたと語っており、この図説は友人の富太郎にとっても延次郎を象徴する一冊となっていたことが分かります。
翌年の1890年には、日本人初となる菌類の新種記載として、植物学雑誌にハツタケ、アカハツの2種類のキノコについて発表し、イギリスの雑誌にも転載されています。
この頃、延次郎は植物学教室在勤の助教授となっていたようで、日本を代表する菌類学者として認められるようになっていました。
延次郎には、他人との研究批評になると鼻息が荒くなるところがあったようで、毒キノコの毒成分を研究していた猪子吉人の論文に批評を加え、猪子が反論する論文を出した際、ヒートアップした様子が伺えます。
延次郎は猪子の『田中延次郎氏の『猪子吉人氏の日本有毒菌類第一編を読む』を読む』という反論文に対し、『猪子吉人氏の『田中延次郎氏の『猪子吉人氏の日本有毒菌類第一編を読む』を読む』を読む』という喧嘩腰のタイトルをつけて論文を発表していました。
もっとも、内容自体は延次郎に分があると後世評価されており、江戸っ子らしい鼻っ柱の強さを見せながらも学者として申し分ない実力をつけていたことが分かります。
また、延次郎は菌類研究に対して、キノコなど高等菌類に限定せず、寄生菌など幅広い分野を研究対象としていました。
イギリスやドイツの多種多様な文献を紹介し、菌類の採集、分類方法なども残した延次郎の研究は、堀正太郎をはじめとした更新の学者が飛躍する土台ともなっています。
しかし、延次郎の業績の発表は、牧野富太郎が植物学教室を追放された1890年を最後に途切れてしまい、延次郎の活躍の期間は1887年から1890年のわずか4年の間だけということになってしまいました。
日本を代表する菌類学者となること間違いなしだった延次郎は、この後次々と不幸に見舞われ、悲劇の最期を迎えることとなるのです。
精神疾患を患い道半ばで亡くなる 田中延次郎の最期
延次郎は、1892年、29歳の時に東京を離れ、後輩の堀正太郎とともに愛知県で、カイコの餌となる桑の葉の病気 桑樹萎縮病の試験委員に嘱託され、名古屋に駐在して試験事務を担当することとなります。
助教授となっていた延次郎が植物学教室を去った理由は、大学在学中に桑の葉を害する菌の研究を行っていたところ、この実績を買われ、農商務省から当時病気の蔓延により被害が甚大となっていた日本の一大産業養蚕業の救済に派遣されたからだとされます。
当時29歳だった延次郎は、学生の時には既に結婚していたとされ、弟に家業を譲ったからとも、兵役逃れのためとも見られていますが、市川から妻の姓と思われる田中に名字を変えていました。
しかし、この頃には妻を亡くしており、名古屋では独身生活を送っていたといいます。
延次郎は被害の大きい養蚕農家に足を運び、桑の葉の状況を調査し、葉についている菌を研究することで対策法の解明に取り組んでおり、定期的に報告がなされています。
1896年には愛知県での試験事業が廃止となり、翌年には東京の蚕業講習所内で桑樹萎縮病調査会が設置されたことで、東京に戻り引き続き事務を担当することとなりました。
東京に戻ったタイミングで延次郎は後妻を迎えており、堀正太郎とは家族ぐるみの付き合いをしていたといい、大学からは離れながらも定職に就き安定した生活を送っていました。
もっとも、研究への情熱を失っていたわけではなく、勤務の傍ら研究を続け、日本産菌類の整理記載、精巧な着色図を描き、博士論文提出の準備を進めていたといいます。
東京に戻ったのと同年の1897年には、桑樹萎縮病の研究も兼ね、私費でドイツのミュンヘン大学に留学し、約1年にわたってドイツの最先端の研究に触れています。
この頃の延次郎の研究分野は、かつてのキノコなどの菌類ではなく、桑の葉につく菌に加え、酒麹や細菌培養法に変わり、実家の酒問屋にちなんだ研究に移っていました。
しかし帰国後、1903年に勤め先の桑樹萎縮病調査会が廃止となり働き口を失ってしまいます。
延次郎は留学帰りの実績をもってしても就職先が見つからなかったといい、同時期に妻も亡くし、一気に人生のどん底に落ちてしまいました。
やがて、家族ぐるみの付き合いをし、度々家を訪問していた堀正太郎すら延次郎の居場所が分からなくなるほど、周囲との関わりを無くしてしまいます。
延次郎は精神に異常を来してしまったようで、鶯谷の精神病院に収容され、1905年に42歳の若さで、研究の道半ば亡くなりました。
延次郎が博士論文のために準備していたとされる研究成果も行方不明となっており、延次郎の研究成果は15年前の物が最後となってしまっています。
堀正太郎や白井光太郎は、延次郎の死後に晩年の延次郎の状況を知ったといい、彼らや牧野富太郎は後に延次郎に関して語っており、道半ばでの死は多くの研究者に無念の思いを抱かせることとなりました。
参考文献
平河出版社『近代日本生物学者小伝』 https://amzn.to/43LeTdA
堀正太郎『植醫50年の囘顧』 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjphytopath1918/10/2-3/10_2-3_72/_pdf/-char/en