こんにちは!レキショックです!
今回は、源頼朝が愛した9人の女性たちについて紹介します。
源頼朝には、正室の北条政子、最初の妻の八重の他にも、妾として抱えた者など、伝説の域に入るものも含めれば10人以上の女性の存在が確認できます。
現代からの視点で見ると、源頼朝はどうしようもない女好きに見えますが、武家の棟梁としてはむしろ少ない方で、これには恐妻として知られた北条政子の存在が関係しています。
頼朝が愛した女性たちは、そのほとんどが北条政子の嫉妬を受け、頼朝の寵愛を受けた女性とは思えないほどの境遇に追い込まれており、それもあって、頼朝は政子以外の女性とはほとんど子供を作らず、このことは源氏の嫡流の断絶にも大きく関わってきます。
一方の政子も、当時としては相当な高齢出産も経験するなど、頼朝との間に4人の子をもうけ、源氏の跡継ぎを残すために奮闘していました。
今回は、頼朝の女性関係の変遷、なぜ政子はこれほどまでに他の女性に敵意を抱いたのか紹介します。
罪人の身分ながら女性には事欠かなかった? 流人時代の女性関係
源頼朝と最初に縁をもった女性とされているのが、利根局です。
利根局は、伊豆に流人として流されてきた源頼朝のもとへ侍女として仕えていた人物で、そのうちに頼朝と関係を持ったとされています。
一説には、頼朝との間に、のちに豊後国の戦国大名大友氏の祖となる大友能直を産んだともいわれている女性です。
頼朝は、平治の乱で敗れ、13歳の時に伊豆国に流人として送られてきていましたが、伊豆では罪人の身分であったものの、24時間監視されていたわけではなく、比較的自由な身分でした。
在地領主の北条時政や伊東祐親が監視役としてついていたため、周辺の勢力と結託して反乱を起こすといったことはできず、伊豆の小さな社会に閉じ込められる形にはなりましたが、都から来た貴人として、ある程度の扱いは受けていたようです。
利根局の父は、現在の神奈川県足柄周辺に勢力を持っていた波多野経家で、在地の領主として、都から来た貴人と接点を持つために娘を侍女としたというところでしょう。
利根局と同様に、在地領主の娘として頼朝と縁を持ったのが、伊東祐親の娘、八重姫です。
八重姫は、頼朝との間に千鶴丸という子ももうけており、他の女性たちとは違い、頼朝の正式な妻であったともいわれています。
頼朝も伊東祐親とともに巻狩に出かけるなど、八重姫との関係を認められていたかはともかく、伊東祐親とは当初は良好な関係にあったようです。
通説では、頼朝は、大番役として京都に出かけていた伊東祐親の留守をついて八重姫と関係を持ち千鶴丸をもうけ、帰国した祐親がそれを知り激怒し、頼朝を伊東家から追放、千鶴丸も殺害したと伝わっています。
しかし、この頃頼朝は、八重姫がいながら、北条政子とも関係を持っていたともいわれ、この二股に伊東祐親が激怒したとの説もあります。
北条政子の母は、同じく伊東祐親の娘で、もし頼朝が二股をかけていたとすると、伊東祐親にとっては、自分の娘婿の頼朝が、同じく娘婿の北条時政の娘と関係を持っていたことになり、頼朝に面子を潰された格好になります。
こうして、八重姫との縁を切られ、伊東祐親のもとを追われた頼朝は、やがて北条政子と結ばれ、長女の大姫をもうけることとなりました。
そのうちに、以仁王の令旨が届き、頼朝は挙兵を決意。
伊東祐親など、平家方の武将との戦いに身を投じていくことになります。
武家の棟梁になるも、女性関係では妻に逆らえず
源頼朝は、石橋山の戦いで敗れながらも房総半島で勢力を挽回し、やがて関東地方を席巻するほどの大勢力を築きます。
政子との間には、長男の源頼家をもうけますが、この頃になると、政子以外の女性にも手を出し始めるようになりました。
挙兵後にはじめて手を出した女性が、頼朝の兄、源義平の正室であった祥寿姫です。
祥寿姫は、南北朝時代に活躍した新田義貞の祖先、新田義重の娘で、平治の乱で源義平が亡くなった後は、父のもとに戻っていました。
祥寿姫は美貌の持ち主であったといわれており、頼朝は祥寿姫に恋文を送り続けますが一向になびかず、頼朝は新田義重に直接申し入れますが、義重は政子の嫉妬を恐れて祥寿姫を他の男のもとへ嫁がせてしまいました。
このことからも、北条政子は、結婚から数年経った時点で、すでに嫉妬深い人物として周りからも認知されていたと思われ、頼朝が鎌倉に入った直後には、何らかの女性関係の事件が起きていたと考えられます。
この政子の嫉妬が大爆発したのが、祥寿姫の事件が起こったのちに起きた亀の前事件です。
亀の前も、頼朝が伊豆の流人であった頃から頼朝の側で仕えていた人物で、鎌倉に呼び寄せて、政子に隠れて逢瀬を重ねていたといいます。
政子が源頼家を出産したときも、頼朝は亀の前のもとへ通っていたといい、これに激怒した政子は、亀の前の屋敷を破壊するうわなり打ちを行うといった、後世にも残るほどの激しい怒りを見せました。
この事件は、牧の方の兄で実行犯の牧宗親が処罰され、これに反発した北条時政が伊豆に退去するなど、鎌倉中を巻き込んだ大騒動に発展してしまいました。
亀の前事件のしばらく後は、政子の怖さが鎌倉中に知れ渡ったこともあり、頼朝も他の女性と会いにくくなっていましたが、平家が滅亡した翌年の1186年には、伊達家の祖、伊達朝宗の娘の大進局との間に頼朝の3男となる貞暁をもうけてしまいます。
大進局の父、伊達朝宗は、頼朝の祖父、源為義の娘を母に持ち、源氏の血を引いており、家格としては北条家よりも遥かに上であったことから、大進局親子は政子の排除の対象となってしまいます。
政子の怒りにより、大進局は出産の儀式を執り行うことができず、政子の怒りを恐れて乳母のなり手が現れないといった、普通の子育てにも支障をきたす有様になります。
そして最終的に頼朝は、政子の恨みを恐れて、伊勢国に所領を与える形で大進局親子を鎌倉から追い出してしまいました。
頼朝も鎌倉を出立する親子のもとをこっそり訪れ、太刀を授けるといったことしかできなかったといいます。
頼朝は、のちに薩摩藩主となる島津家の祖、島津忠久を産んだともいわれている丹後局とも同様の事件を起こしています。
丹後局は、比企尼の娘で、安達盛長の妻となった丹後内侍と同一人物とされることもありますが、政子によって鎌倉を追放された伝説があることから、別人物だと考えられています。
丹後局も、頼朝の子を身ごもったため政子の怒りを買い、鎌倉を追い出され、その旅路の途中で島津忠久を産んだという伝説が残っており、真偽は不明ながらも、この頃には、頼朝をはじめ鎌倉中が政子を恐れるといった状況となっていました。
貞暁の一件を最後に、頼朝が政子以外の女性と子を作ることはなくなりますが、他の女性との関係は引き続き持ち続けました。
北条義時の正室となった姫の前も、義時に嫁ぐ前は頼朝と関係を持っていたといわれます。
北条義時は1年近くにもわたって姫の前に恋文を送ってもなびかず、最終的には頼朝が間を取り持ち、義時に絶対に離縁しないと記載した起請文を提出させることで婚姻を成立させており、姫の前は頼朝とただの侍女以上の関係であったと推測されます。
当時は、主君が家臣に自分のお気に入りの娘を払い下げるといったことがよく行われており、頼朝の大のお気に入りと吾妻鏡にも記載されている姫の前は、もともとは頼朝と関係を持っていた女性であると考えられます。
頼朝の愛した女性として、最後に記録が残っているのが、妙悟尼です。
頼朝は、天下統一を果たしたのちの1190年以降に、三浦半島のあたりに妾のための屋敷を建てていたといい、その屋敷のひとつに住んでいたのが妙悟尼でした。
頼朝は、三浦氏に匿われていたこの女性のもとへたびたび訪問していたことが記録に残っています。
この妙悟尼は、かつては頼朝のもとへいたものの、政子の怒りを買って鎌倉を追放されたと伝わっており、亀の前の話と似通っていることから、鎌倉追放後の亀の前が三浦氏に匿われていたものとする説もあります。
妙悟尼は、頼朝の死後に出家し、かつて頼朝に与えられた屋敷を寺にして頼朝の菩提を弔い、その寺は現在も、神奈川県の三崎にある大椿寺として残っています。
以上のように、頼朝は、政子の怒りに怯えながらも、目まぐるしく変わる境遇の中で様々な女性と関わりを持ちつづけ、その波乱の生涯を終えることとなりました。
頼朝の女好きはむしろ控えめな方? 頼朝を押さえつけた北条政子の真意とは
源頼朝は複数の女性と関係を持ってきましたが、これでも歴代の源氏の棟梁としては極端に少ないほうです。
頼朝の父、源義朝は、貴族の娘から地方の有力者まで、全国各地で子を作り、計11人の子をもうけています。
源範頼や源義経など、頼朝の兄弟たちは、ともに源氏の再興のために力を尽くし、平家滅亡の立役者となりました。
さらに、頼朝の祖父、源為義は、子供が30人から50人いたとも伝わっており、各地の有力者と縁を結ぶことによって、源氏の勢力拡大に貢献しました。
そもそも、源氏のはじまりである源経基から、歴代の棟梁たちは全国各地で様々な女性と子を作り、その地域の有力者を味方につけ、源氏の勢力を拡大してきました。
源氏に限らず、当時の貴族たちにとっては複数の女性と関係を持ち子供を作ることは常識で、京都で生まれ育った頼朝も、たくさんの女性と関係を持つことが自分の責務だと考えていたことでしょう。
しかし、北条政子は頼朝が別の女性との間に子をもうけることを許しませんでした。
これは、政子は伊豆の一介の武士である北条時政の娘でしかなく、後ろ盾が弱かったため、頼朝の子をもうけたということでしか優位性を保てず、他の女性の排除に動いたためです。
政子にとって、頼朝との間に唯一子をもうけている女性という立場は、自分、そして実家の北条家の立場を強くすることにも繋がり、是が非でもこの立場を守らなければならなかったことから、子を作った大進局を鎌倉から追放するなど、なりふり構わない行動に出たものと考えられます。
もっとも、政子も源氏の棟梁の妻として、子を残す必要性は認識しており、のちに3代将軍となる源実朝を35歳の時に出産するなど、当時の女性としては多くの子を残しました。
35歳での出産は、当時としては超高齢出産にあたり、孫にあたる竹御所は33歳の出産で母子ともに亡くなるなど、大変な危険が伴い、避けるのが一般的でした。
ただし、政子にとっては、自分が頼朝から女性を遠ざけたがために源氏の子孫が残らないということはあってはならず、それもあって、危険が伴う高齢出産に臨んだのでしょう。
政子は奮闘したものの、結果として頼朝の子は少なくなり、御家人間の争いに巻き込まれることで、頼朝の血脈は早々に断絶することになってしまいました。