こんにちは!レキショックです!
今回は、源頼朝のご落胤伝説について紹介します。
ご落胤とは、父親に認知されない子、私生児のことを指し、特に、高貴な人物の出自において使われます。
平清盛と白河法皇、徳川秀忠と保科正之など、実際に血縁関係があるものから、伝説の域を出ないもの、自称しているものなど種類は様々です。
源頼朝には、のちに将軍となった源頼家、源実朝をはじめ、伊東祐親の娘との間に生まれた千鶴丸、僧となった貞暁、女子の大姫、三幡と、計6人の子が確認されています。
しかし、源頼朝は女好きとしても知られており、そのせいもあってか、頼朝の隠し子とされる人物も多くいました。
彼らの中には、島津氏や大友氏のように、のちに戦国大名として発展した家もあり、子孫が捏造した可能性もありますが、頼朝は、徳川家康と並んで、特にご落胤が多い歴史上の人物の1人となっています。
今回は、そんなご落胤伝説の中から、大友能直 島津忠久 結城朝光、安達景盛の4人について紹介します。
実は頼朝の最初の子? 豊後の戦国大名大友氏の祖 大友能直
大友能直は、相模国の役人であった近藤能成の子として生まれた人物です。
父が早くに亡くなったため、母の実家である波多野経家に養われ、その領地の大友郷から名字をとり、大友能直と名乗りました。
能直は、13人の合議制の1人にも名を連ねている中原親能の養子にもなっており、その縁もあって、養父の中原親能が領していた九州の地盤を引き継ぎ、のちに戦国大名として発展するきっかけとしています。
そんな能直が頼朝のご落胤と呼ばれるに至ったのは、能直の母、利根局が頼朝の妾であったとする話に起因します。
頼朝は、伊豆に近い神奈川県の足柄のあたりを領していた波多野経家の娘である利根局と若い頃に密通を繰り返しており、その2人の間に生まれたのが大友能直だとするものです。
当時の頼朝は、平治の乱に敗れた罪人の身分で、波多野経家としても自分の娘が罪人と子を作っては都合が悪いと考え、在地の役人の近藤能成との間に生まれた子だとしたのでしょう。
実際に大友能直も、一介の在地役人の子としては、異常なまでに頼朝に気に入られ、幕府の有力者である中原親能の猶子にもなるなど、吾妻鏡には並ぶ者のないお気に入りと記されるほどの破格の厚遇を受けています。
これは、かつて愛した女性の息子だからというだけではなく、自身の隠し子だからこれほどまでに厚遇したともいえます。
大友能直は、1172年の生まれであるといわれており、源頼朝の子とするならば、頼朝が25歳の時の子で、伊東祐親の娘、八重との間に生まれた千鶴丸よりも前の子ということになります。
千鶴丸の時と同様に、罪人の子ということで結婚は許されず、後に成長して頼朝のもとに戻ってきても、北条政子の厳しい目があったことから、自分の息子とは認知できず、破格の厚遇をもって能直を引き立てたとすると筋が通ります。
しかし、大友能直が頼朝のご落胤であるとは鎌倉時代の資料には一切記されておらず、この説が囁かれ始めるのは、室町時代からです。
大友氏は、南北朝時代の当主、大友氏泰が、九州に逃れてきた足利尊氏に猶子として迎え入れられ、一族揃って足利方に味方しており、この時に、祖先の能直が頼朝のご落胤であると言い始めたと考えられています。
実際に大友氏は、尊氏の子とされることで源氏を名乗るようになり、その威光をもとに九州で勢力を広げていったため、能直を頼朝の子とすることで、源氏を名乗る正当性を補強したというところが真相のようです。
このことからも、大友能直は、母が頼朝の愛妾であったという縁があっただけで、その縁を最大限に生かして頼朝の寵愛を獲得し、のちに九州の戦国大名として活躍する基盤を築いたといえるでしょう。
梶原景時追放のきっかけに 下総の戦国大名結城氏の祖 結城朝光
結城朝光は、下野国の豪族であった小山政光の子として生まれました。
小山政光は、北関東を中心に大勢力を誇り、結城朝光の兄、小山朝政は、頼朝の叔父、志田義広が頼朝の留守をついて挙兵した野木宮合戦で義広を打ち破るなど、一族を挙げて頼朝を支えていました。
そんな一族に生まれた朝光が頼朝のご落胤といわれるきっかけになったのが、朝光の母で、頼朝の乳母を務めていた寒河尼です。
寒河尼は、小山政光に嫁ぐ前は、宮中で仕え京都に住んでおり、その縁もあって、頼朝の乳母を務めていた人物でした。
寒河尼は頼朝の10歳上にあたり、頼朝の乳母として身の回りの世話をするうちに関係を持ち、その間に生まれたのが結城朝光だとするものです。
結城朝光は1167年の生まれとされており、これに当てはめると、頼朝が20歳の頃の子どもということになります。
しかし、この説も、吾妻鏡をはじめ当時の資料には記述は一切なく、のちに戦国大名となった結城氏が、源頼朝とのつながりを主張することで、結城氏の家格向上を狙ったものだと思われます。
結城朝光も、頼朝に厚遇され、御家人としては異例の出世を遂げますが、これはご落胤だからというわけではなく、乳母子として信頼に値する武将だったからこそ、頼朝も厚遇したのだと考えられています。
母親の寒河尼も、頼朝の挙兵時には、夫の小山政光が京都にいたにも関わらず、朝光を連れて頼朝のもとへ向かい、朝光を側近として仕えさせるなど、朝光が出世するきっかけを作っています。
頼朝の厚い信頼を受けていた朝光は、のちに頼朝が亡くなると、頼朝のことを懐かしみ、忠臣は二君に仕えずとつぶやいたことで、梶原景時に讒訴され、梶原景時追放の遠因となっています。
また、朝光の子孫は、下総国の有力豪族として続き、戦乱の波に飲まれながらも、戦国時代まで続いていくことになりました。
子孫がご落胤伝説のために頼朝の墓を整備する 島津家の祖 島津忠久
のちに薩摩藩主として明治維新を成し遂げることとなる島津氏の祖、島津忠久の父は、諸説ありはっきりしていません。
摂関家に仕えていた惟宗氏の惟宗広言や惟宗忠康の子であるといわれており、母親は、源頼朝の乳母を務めていた比企尼の長女、丹後内侍となっています。
丹後内侍は、宮中で仕えていた頃に、惟宗広言と通じて密かに島津忠久を産み、忠久は惟宗広言の養子に、丹後内侍はその後に、頼朝の従者として活躍した安達盛長に嫁いだといわれています。
丹後内侍は、頼朝の子、源頼家の生誕の儀式を担当しており、頼朝も丹後内侍とは特に親しかったことから、素性のよく分かっていない島津忠久は頼朝と丹後内侍の間に産まれた子ではないのかとの説が唱えられたのが、島津忠久のご落胤伝説の内容となっています。
ご落胤伝説の真偽は不明ながらも、母親が丹後内侍であったことは確かなようで、忠久はのちに頼朝の信任を得て、御家人として活躍するようになります。
忠久の出身である惟宗氏は、五摂家の一つである近衛家に仕えており、頼朝の娘の大姫が、一時期近衛家の近衛基実との縁組を進めていたことから、両家のパイプ役として、忠久は近衛家の所領であった薩摩、大隅、日向国にわたる大荘園の島津荘を与えられ、九州に土着することになりました。
この異例の大抜擢も、島津忠久のご落胤伝説の根拠となっています。
また、島津忠久は、母が比企氏の出身であったことから、比企能員の変において、本人は鎌倉におらず関わってはいないものの、縁者として、薩摩、大隅、日向の守護の座を解任されるなどの不幸に見舞われています。
しかし、その後の御家人間の抗争では、常に勝者の側に属し、九州の勢力を回復し、のちに戦国大名として活躍する島津氏の基礎を作ることになりました。
以上のように、忠久はあくまでも頼朝の乳母の一族、および出身の惟宗氏の縁を活かして大勢力を築いており、忠久が頼朝のご落胤であった可能性は限りなく薄いですが、江戸時代に入り、島津氏はこのご落胤説を利用し、島津氏の家格向上を図ります。
現在、鎌倉の白旗神社のそばに建てられている源頼朝の墓も、島津氏によって江戸時代に整備されたものです。
この頃の島津氏は、藩主の島津重豪の娘の広大院が、当時は御三卿の一橋家の当主であった徳川家斉と婚約していましたが、10代将軍徳川家治の子の徳川家基が急死したため、家斉が次期将軍となり、将軍の外戚になれる千載一遇の好機を迎えていました。
しかし、外様大名の娘である広大院を御台所としていいものか、幕府内で議論が行われていました。
重豪は、娘を将軍の御台所にするためにあらゆる手段を尽くしたといい、島津忠久が頼朝のご落胤であると主張し、墓を整備したのも、島津家は源氏の血を引く一族で、将軍の御台所を出すにふさわしい家だとアピールする狙いがあったと考えられます。
また、島津氏は、この時同時に、島津忠久の墓も、頼朝の墓の近くに整備、修繕しています。
こうして、77万石の大大名自らが行った運動により、島津忠久のご落胤伝説は一気に広がることになったのです。
ご落胤伝説のせいで一族滅亡へ 安達盛長の子、安達景盛
安達景盛は、流人時代から頼朝の従者を務め、頼朝の死後は13人の合議制の1人にも名を連ねた安達盛長の子にあたる人物です。
安達景盛が源頼朝のご落胤であるとの噂は、鎌倉時代当時から囁かれていました。
安達景盛の母は、島津忠久と同じく、丹後内侍であり、丹後内侍と頼朝が親しかったことから、ご落胤伝説が生まれました。
頼朝は、丹後内侍が病にかかると、僅かな供を連れて屋敷に頻繁にお見舞いに行っていたといい、この親密すぎる関係から、2人には秘密の関係があったのではと囁かれるようになりました。
このご落胤伝説は、他の3者とは違い、実際に事件にまで発展してしまいます。
安達景盛の孫の安達泰盛の代に、北条得宗家の家臣筆頭の平頼綱と衝突した霜月騒動では、安達泰盛の子の安達宗景が、源氏に改姓しようとし、将軍に取って代わろうとしたと平頼綱が讒言したことが、安達氏討伐の原因になったとされています。
安達氏は、鎌倉時代を通して北条氏と関係を深め、幕府のNo.2の座を守ってきており、頼朝の血を引いているとの噂はむしろ安達氏にとってはマイナスでしたが、このご落胤説が原因で、安達氏は一時滅亡するほどの打撃を受けることとなってしまいました。
以上の4人が頼朝のご落胤とされている人物ですが、安達氏を除いて、島津氏、大友氏、結城氏ともに、室町時代以降も有力大名として残った家であり、ご落胤の実態は、先祖を頼朝に結びつけて、自身の家の正当性を主張したかったというところでしょう。
また、3代将軍の源実朝が暗殺されてからは、頼朝の血を引く男子たちは、将軍の位を継ぐ資格がある者たちとして次々と粛清されていっており、本当に頼朝の子であるならば、大勢力を有していたこともあり、北条氏に様々な口実をつけられて滅亡させられていたに違いありません。
頼朝の直系の子孫は鎌倉時代前半で姿を消しており、ご落胤を自称しても否定できる勢力がいなかったことも、これほどまでにご落胤伝説が広まった一因といえるでしょう。