こんにちは!レキショックです!
今回は、曾我兄弟の仇討ちで討たれた工藤祐経について紹介します。
伊東祐親との因縁に端を発した曾我兄弟の仇討ちは、源頼朝までをも巻き込む大騒動に発展し、祐経はその中で命を落としました。
子孫は現在の宮崎県で繁栄し、戦国時代には薩摩の島津氏をも圧倒する勢力を築き上げ、紆余曲折ありながらも、大名として明治時代まで続くことになります。
今回は、伊東祐親、源頼朝との間で翻弄された工藤祐経の生涯、大名として生き残った子孫のその後について紹介します。
伊東祐親に所領を奪われた恨みから、曾我兄弟との因縁を作る
工藤祐経は、伊豆国の武士であった工藤祐継の子として生まれました。
父の祐継は、祐経が9歳の時に亡くなり、死の間際に、義理の甥にあたる伊東祐親に祐経を託し、将来は祐親の娘の万劫御前と結婚させることを約束させ、亡くなりました。
しかし、工藤祐経が成長したのち、伊東祐親はこの約束を破って、祐経の所領を没収したばかりか、妻の万劫御前さえも奪って、土肥実平の息子に嫁がせてしまいます。
伊東祐親がこのような行動に出た理由には、祐経の父、工藤祐継の出自が関係しています。
伊東祐親の祖父にあたる工藤祐隆は、実子で、本来ならば嫡子となる伊東祐家がいるにも関わらず、養子の工藤祐継に所領を譲っており、祐家の子、伊東祐親は、これに不満を持ち、祐経の所領を没収していました。
当時、工藤祐経は上京し、平家一門の平重盛に仕えていましたが、京都にて妻と所領を奪われたことを聞き、訴訟を繰り返し激しく抵抗するも、祐親の前には無力でした。
ただし、この長年に渡る京都滞在中に、歌や舞など京都の文化を身に着け、のちに源頼朝のもとで活躍するきっかけを掴んでいます。
しかし、所領も妻も失った祐経は、都を後にせざるをえず、伊豆に戻ったものの所領もないため、苦しい生活を送ることになります。
そして所領を奪った伊東祐親を深く恨み、狩りの帰りの祐親親子一行を襲撃、伊東祐親は討ち漏らしたものの、祐親の子の河津祐泰を討ち取ることに成功します。
この河津祐泰の子こそが、曾我兄弟にあたり、のちに仇討ちへと発展することになりました。
この伊東祐親襲撃には、源頼朝も絡んでいたとする説があります。
頼朝は、伊東祐親の娘の八重との間に男の子をもうけていましたが、祐親によって殺されており、これを恨んだ頼朝が祐経に命じて祐親の命を狙ったとするものです。
一説には、この時の縁がきっかけで、祐経はのちに頼朝から重用されるようになったともいわれています。
祐親は殺せなかったため、この時点で所領を取り戻すことは叶いませんでしたが、この後の源平合戦を通じて、祐経は出世の足がかりを掴んでいくことになります。
頼朝のお気に入りとして活躍 最期は曾我兄弟に討ち取られる
やがて、源頼朝が打倒平家の兵を挙げると、祐経の弟の宇佐美祐茂が挙兵当初から頼朝に従って活躍し、本領を安堵されています。
この頃の祐経は京都にいたといわれており、鎌倉に戻って頼朝に臣従し、平家方として頼朝に敗れた伊東祐親から所領を取り戻すことに成功しています。
その後は頼朝の側で仕えますが、祐経は目立った武功は立てられず、主に長年の京都生活で身につけた知識と芸能の能力で頼朝の信任を得ていきます。
祐経は、捕虜となった平重衡を慰める宴席で、鼓を打って今様を歌った記録が吾妻鏡に残っており、武勇一辺倒の坂東武士たちの中では京都の文化に精通していたことで、頼朝にも重用されました。
源義経の妾の静御前が、頼朝の前で舞を舞った際にも、伴奏役として鼓を打っています。
一方、武芸については、源平合戦に従軍した記録はあるものの、目立った活躍はなく、武田信義の嫡男、一条忠頼の暗殺の際には、目の前で繰り広げられる惨状に顔色を変えるばかりで、全く役に立たなかったという記録も残っています。
ともあれ、頼朝の信任は変わらず、幕府内でも主に式典などで重要な役割を果たしていた祐経は、次第に頼朝の信任を笠に着て、態度が横柄になっていきました。
ある会で、遅れてやってきた祐経が自分の座る席がないと見ると、その場にいた15歳の御家人の加地信実を抱えあげどかせ、これに怒った信実に石で額を殴りつけられるといった事件も起こしています。
これは祐経の方に非がありますが、頼朝は祐経に怪我をさせた加地信実を処罰しようとしており、それだけ頼朝の信任が厚かったことが伺えます。
この後も頼朝のもとで権勢を誇り、富士の巻狩りにも頼朝の側に仕えるべく参加しています。
この巻狩の最終日に、祐経は神官の王藤内と酒を飲んでいたところを、曾我兄弟に襲われ、命を落としました。
この後、曾我兄弟は頼朝も襲いますが、兄の曾我祐成は討死し、弟の曾我時致は捕らえられます。
頼朝は曾我時致の助命を考えたといいますが、祐経の子の伊東祐時が父の恨みを晴らしたいと泣いて訴え、時致は祐時に引き渡され、処刑されています。
こうして、工藤祐経は10年以上前の怨恨、および幕府内のいざこざに巻き込まれて命を落とすことになりましたが、祐経の血筋は、子の伊東祐時以降、脈々と受け継がれていくこととなります。
工藤祐経の子孫のその後 伊東氏として日向国の大勢力となる。
工藤祐経の子、祐時は、伊東の姓を名乗り、以降、祐経の家系は伊東氏として続いていきます。
一方、伊東祐親の家系の伊東氏も、祐親の子の伊東祐清が頼朝を助けたことがあったことから領地を与えられており、子孫は尾張国に移住して続き、江戸時代には備中国の大名になっています。
伊東祐時は承久の乱でも東海道軍として活躍し、祐時の後は、祐光、祐宗と続いていきます。
伊東祐宗は、元寇に対処した8代執権北条時宗を烏帽子親としており、鎌倉時代末期の赤坂城の戦いなどにも、幕府側として参戦し楠木正成と戦うなど、幕府に忠節を尽くしました。
しかし、幕府が滅びると、足利尊氏に従うようになり、祐宗の孫の伊東祐持は、足利尊氏から、妻の赤橋登子の所領がある日向国に下向し、所領を守るように命じられて、それまで庶家に任せていた日向国へ行き、以降伊東氏は日向国を本拠地とすることになります。
一方、伊豆国の所領は、一族に預けられていましたが横領されてしまい、伊東氏は伊豆との関係を失い、室町時代以降は完全に日向国のみの勢力となります。
祐持の孫にあたる伊東祐安は、日向国で勢力拡大を目指し、隣国の島津氏などと激しい勢力争いを繰り広げます。
子の伊東祐立の代には、島津氏の当主を毒殺しようとするなど、なりふり構わず島津氏との戦いを繰り広げ、一時は島津氏によって追い詰められるも、着実に勢力を拡大していきます。
祐立の子の伊東祐堯の代には、日向国の大部分を支配下に治めるまでに成長しました。
その後は、子の伊東祐国が島津氏との戦いの中で戦死し、一族内でも内紛が起きるなど、伊東氏の勢力拡大は中断しますが、伊東祐国の孫の伊東義祐の代に再び拡大期を迎えます。
日向国南部の島津氏の拠点である飫肥城を9度にわたって攻撃し、ついにこれを奪うと、島津氏の勢力を完全に圧倒し、義祐は伊東氏の最盛期を築くまでになりました。
伊東氏の居城の佐土原は、九州の小京都と呼ばれるほどの繁栄を見せますが、次第に義祐は京都の文化に溺れ、政治を顧みなくなり、やがて島津義弘ら武勇に優れた島津4兄弟らの活躍もあり、伊東氏は日向国を追われ、隣国の大友氏のもとへ逃げ延び、一旦は滅亡してしまいます。
その後、伊東義祐、祐兵親子は大友氏のもとを離れ、京都へ向かいますが、その途中に、伊東祐親の系譜を引き、当時は織田信長の配下であった豊臣秀吉に仕えていた伊東長実の縁を得て、秀吉に仕官しました。
伊東祐兵は、秀吉配下として山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いで活躍し、秀吉の九州征伐では先導役を務め、仇敵であった島津氏と戦い、その功績から、旧領であった日向国の飫肥の地を与えられ、日向国への復帰を奇跡的に果たします。
祐兵は、関ヶ原の戦いでは東軍につき、息子の伊東祐慶に九州の西軍勢力を攻めさせることで所領を安堵され、以降、伊東氏は飫肥藩5万7千石の藩主として続いていくことになります。
飫肥藩は薩摩藩と地理的に近かったことから、幕末維新の動乱では新政府軍に与し、その命脈をつなぎました。
この伊東氏の飫肥藩からは、明治時代以降、外務大臣として活躍した小村寿太郎が出ています。
小村寿太郎は、日露戦争後のポーツマス条約締結に全権として尽力し、関税自主権の回復も果たすなど、明治日本の発展に欠かせない役割を果たしています。