
こんにちは!レキショックです!
今回は、視覚障害者ながらも、悪質な高利貸しで30代の若さで莫大な財をなした鳥山検校の生涯について紹介します。
松葉屋の大名跡である瀬川を身請けしたことで知られる鳥山検校は、不当に高い利子、強引すぎる取立てを伴う高利貸しで財をなし、江戸っ子たちから嫌われていました。
幕府からは家康以来の政策で手厚く保護されていたものの、鳥山検校らのやり方は度が過ぎており、ついには幕府から処罰されてしまいます。
瀬川を身請けしたことも罪とされ、瀬川とは別れさせられるなど、目立ちすぎたがゆえに他の検校たちへの見せしめの如く処罰され転落していきました。
今回は、単なる弱者保護の政策ではなかった幕府による盲人の保護の実態、なぜ目の見えない盲人が鳥山検校のような悪徳高利貸しになることができたのか紹介します。
乞食同然の身分から幕府と繋がりを持つ有力者に 盲人が高利貸しになるまで
鳥山検校がどこでどのような家に生まれたのかは定かではありません。
ですが生年は、後年の奉行所の書類から1744年生まれと判明しており、蔦重の6歳年上にあたります。
当道座と検校の地位
鳥山検校は、幕府公認の盲人組織の一つ 当道座の中でも上位者である検校の階級にあったかなり社会的地位の高い人物でした。
盲人は江戸時代には幕府の手厚い保護を受け、高利貸しを認められ、巨万の富を築く者も多くいました。
それ以前から朝廷も盲人を保護していましたが、目が見えない弱者だから保護したという単純な話ではありません。
盲人と琵琶法師の歴史
盲人は古くは聖徳太子の時代から仏教思想に基づいて救済の対象とされてきました。
ですが、こうした救済は盲人が特別に対象になったわけではなく、老人や病人、生活困窮者への施しと同列のものです。
盲人は仕事ができず、家族や隣人の支援を受けるのみという生活を長らく強いられていましたが、そんな環境を変えたのが琵琶でした。
琵琶は宮廷音楽として朝廷に独占されていたのが、貴族たちの私的な楽しみにもなり、演奏を任せる過程で庶民にも広まります。
琵琶は目が見えなくても比較的扱いやすい楽器だったため、盲人にとって数少ない生計を立てる手段となりました。
やがて、平家物語を琵琶の演奏とともに琵琶法師が語る平曲が鎌倉時代には盲人の専業となっていきます。
当道座の成立と権力構造
とはいっても、琵琶法師をする盲人はまだ乞食同然の状態でしたが、南北朝時代前後までに、琵琶法師による平曲は当時の芸能の一大ジャンルにまで発展を遂げました。
この一大芸能を統制し、営業を独占するために同時期に京都で作られた同業者組合が、江戸時代に鳥山検校が所属し幕府の保護を受けていた当道座です。
当道とは、古くは琵琶の演奏全般を表していましたが、琵琶法師による平家物語の演奏が盛んになるにつれて、これ単体を表す言葉となりました。
当道座では、検校を筆頭に73もの階級が設けられ、惣検校がトップとして統轄しています。
- 昇進を願う者から階級に応じた費用を徴収
- 座の維持費に充て、残りを階級に応じて分配
- 出世は金次第という体質が確立
このシステムにより、琵琶を生業とする盲人の生活は安定した一方で、出世は金次第という鳥山検校の時代まで続く当道座の体質が出来上がっていきます。
金がないと何も始まらない彼らは、当道座の結成と同時期から、一部で高利貸しも始めていたと推測されています。
琵琶法師の社会的地位向上
一方で、琵琶法師による演奏はついに天皇、将軍や各地の大名に呼ばれるまでに文化レベルが上がっていきました。
平行して、過去の乞食同然の身分と決別すべく、平安時代前期の光孝天皇の弟で、早くに出家した人康親王を、失明した琵琶の名手で琵琶法師の祖とする伝説を作り上げるなど、当道座の社会的地位を上げていきます。
この時点で、視覚障害者といえども芸能集団として一定の地位を手にしていた当道座ですが、鳥山検校のような暴利を貪る高利貸しが生まれるきっかけとなったのが江戸幕府の保護でした。
徳川家康と当道座の関係
当道座の保護を始めた徳川家康は、弱者の救済という理由だけで盲人を保護したわけではありません。
事の起こりは、1603年に家康が将軍に就任した際、当時の当道座のトップ、惣検校の伊豆圓一が家康を祝賀のために訪問したことでした。
後世の創作の可能性もありますが、伊豆圓一は甲斐武田氏の家臣 土屋氏の生まれで、今川氏の人質時代の家康と駿府で旧知の仲だったとされます。
家康の側室で大きな力を持っていた阿茶局と縁戚だったともされ、こうした人脈を駆使し、当道座を幕府に売り込むことに成功しました。
幕府も、支配者として盲人を管理しなければならなかったため、繋がりのある当道座を盲人の総轄者として自治を許すことで間接的な支配を目論みます。
幕府による当道座の特権
もっとも、これは、幕府が盲人を別枠扱いして差別したことも同然でしたが、その代わりに手厚い保護を総轄者となった当道座に与えました。
家康に始まる幕府の当道座の保護は最終的に、自治の許可、検校以下の階級の公認、金融業の許可、租税免除、全国の盲人管理とかなり優遇された内容となります。
これにより、幕府は弱者の保護の義務を果たすとともに、当道座に全国の盲人管理を一任し、当道座は芸能集団から盲人を代表する組織へと飛躍を遂げたのです。
当時の盲人組織は、当道座以外にも西日本を中心とした盲僧座などがありました。
両者の抗争時には幕府は当道座を露骨に贔屓するなど、、幕府の一連の政策は全ての視覚障害者ではなく、当道座という組織のみを保護する限定的なものだったのです。
こうした座に所属せず家族に養われる盲人も多くおり、当道座の保護は盲人全体の一部を対象とするに過ぎませんでした。
こうして、幕府から特権を与えられた当道座は、従来からの金権体質も相まって、鳥山検校のような悪質な高利貸しを生み出すに至るのです。
幕府の保護を悪用した高利貸しで莫大な財を成す 鳥山検校の実態
瀬川の身請けと世間の反応
鳥山検校が一躍世間の注目を浴びたのは、1775年、31歳の時に吉原松葉屋の大名跡を数ヶ月前に継いだばかりの五代目瀬川を身請けした時でした。
鳥山検校は瀬川を、1千両とも1千4百両ともされる、現在価値で1億円を超える額で身請けしており、江戸中の人々の話題を攫いました。
その注目度合は異常で、身請けから数ヶ月後には瀬川を題材にした浄瑠璃が上演され、さらに翌年には、身請け後の瀬川を勝手に描いた後日譚の小説「契情買虎之巻」が大ヒットになったほどです。
高額な身請け自体は、頻繁ではないものの過去にも例があり、異例の注目は、盲人の検校が大名跡の花魁を高額で身請けしたがゆえのものでした。
大衆文化における鳥山検校像
もっとも、江戸っ子が鳥山検校に向ける目は決して良いものではありませんでした。
それを物語るのが後日譚の「契情買虎之巻」の内容で、瀬川は鳥山検校を模した桐山という金貸しの盲人に1400両で身請けされたものの、桐山に身体を一切許しませんでした。
これ以前に瀬川は、亡き夫に似ている客の五郷と恋に落ちて子を宿しており、五郷に会うために桐山の家を抜け出してしまうといったように、桐山こと鳥山検校は悪役として描かれています。
他にも鳥山検校を悪役や笑い者にした作品はあり、こうした作品のヒットこそ、検校が花魁を高額で身請けしたことに世間が嫌悪感を持っていた証と言えます。
座頭金と当道座の金権体質
その大きな要因こそ、盲人たちによる高利貸し 座頭金でした。
当道座に所属する盲人は、階級ごとに設定された費用を上納して昇進することで組織から配分される金や米が多くなることから、必死に金をかき集めていました。
逆に、昇進を諦め金を集めず座に在籍するだけの者には死罪という決まりもあったといい、所属する盲人は集金マシーンとならざるを得ません。
当道座は元々、琵琶の演奏の同業者組合でしたが、江戸時代に入ると三味線など新しい楽器が庶民に広まり、音楽界における盲人の地位は低下していました。
その一方で、視覚障害者ゆえに繊細になった手先の感覚を活かし、鍼灸や按摩といった分野に進出した者もいます。
ですが、これらの新分野は当道座の管理する所ではなく、当道座の盲人たちは、かつて家康から認められた特権を使って金を得ようとしました。
盲人による金集めの手法
盲人がまず行ったのが、町や村を回って冠婚葬祭や出産などの吉凶に顔を出し、理由をつけて運上金を取り立てることでした。
当道座の盲人は見境なく家々を巡って金をせびっていきましたが、目の見えない盲人でも卑しい被差別民の家だけには近寄りません。
そのため、下手に盲人を追い払ってしまうと、周囲から盲人が寄りつかない卑しい出自の家と誤解されて縁談にも影響が出ることから、人々は盲人の求めに応じて金を出すしかありませんでした。
座頭金の実態
こうして集めた金を貯めて昇進していくのが当道座の盲人の生き方ですが、この金を一気に増やす手段が高利貸しの座頭金です。
幕府は、盲人が金を増やす手段があれば当道座内で回る金が増え、盲人保護に繋がるとして当初は金貸しを容認していました。
ですが、座頭金は高利貸しの中でも群を抜いて悪質でした。
- 短期の貸付(3~4か月)
- 利息1~2割を最初から差し引き
- 礼金1~2割を事前に差し引く
- 借り手が実際に受け取るのは元金の6〜7割ほど
その後、数か月で返済を迫り、滞納した場合は新たな証文への書き換えを求めて追加の礼金と利息を徴収し、債務者から継続的に搾取を続けたのです。
悪質な取立て方法
取り立ても悪質で、数名で徒党を組んで返済を求めに家に押しかけ、応じない場合は隣近所に聞こえるように大声で債務者を罵り立てます。
それでも返済されない場合は、武士なら主君筋の家、町人なら名主の家などに押しかけて債務者の延滞を訴えました。
ここまでやると問題になりそうですが、当道座は貸金について幕府に裁判で優遇されることとなっており、借金の証文に忘れず座頭金であることを明記することで、どんな取り立ても許されます。
武士の場合は特に、借金問題で主家に迷惑をかけては解雇される危険もあったため、座頭金の格好の餌食になっていました。
盲人は大名に対しても遠慮することはなく、返済を滞納した藩士の責任を大名家に求め、加賀藩前田家や柳川藩立花家が藩士の座頭金の借金の返済を肩代わりした事例が残っています。
座頭金の拡大と検校の富
無法な高利貸しである座頭金はむしろ投資対象にもなっており、他の金融業者から低利で調達した金を市中の人々に高利で貸付けるということも行われています。
盲人の中には、現在価値で7千円ほどを元手に金貸しを始め、数百億円規模まで大きくした例もありました。
こうして増やした金を使って、盲人は合計で数億円にも上る昇進のための費用を納めて検校の位を手に入れ、さらに富を貪っていきました。
一方で、裕福な商人の生まれだと、親の金で一気に検校まで上り、座頭金でさらに儲けるという事例もあったようです。
鳥山検校がどのように財を築いたかは分からないものの、いずれにせよ世間から見て好ましくない儲け方だったのは確かで、それゆえに嫌われていたのです。
盲人と吉原
幕府からは保護され社会的地位もあったとはいえ、当道座の盲人は世間からはなおも差別されており、そんな彼らは身分は関係なく金が物を言う吉原で大豪遊するようになりました。
鳥山検校の時代には、料金が倍になる紋日の客のほとんどは財のある盲人だったといい、吉原は盲人が認められる数少ない場所にもなっています。
鳥山検校は世間の非難を受けながらも、身請けした瀬川を豪奢な屋敷に住まわせて栄華を極めましたが、その繁栄は長くは続きませんでした。
盲人たちの横暴に幕府がついに規制に乗り出す 鳥山検校の没落
鳥山検校の検挙
鳥山検校は瀬川の身請けから3年後の1778年に、他の7人の検校とともに、それまで保護を与えていたはずの幕府に検挙されてしまいました。
事の発端は、300石取りの下級旗本の森忠右衛門が高利貸しからの借金で首が回らなくなり、家族揃って出奔してしまったことでした。
これ自体が幕府の処罰対象ですが、原因は森本人以上に高利貸し、特に座頭金の不当に高い利子にあることが判明した結果、取り締まりの対象となりました。
幕府による座頭金取締りの背景
幕府による座頭金の取締り自体はこれが初めてではありませんでしたが、貨幣経済の発達により窮乏する下級武士が激増し、幕府も見過ごせなくなった形です。
鳥山検校の罪状には、不当に高い利率、強引な取立てに加え、盲人の身ながら瀬川を大金で身請けしたことも入っていました。
幕府の当道座優遇は、元は弱者である盲人の保護のためであり、世間を騒がせた瀬川の身請けは盲人には過ぎたる行為と見做されたのです。
罰則の実態と見せしめ
当道座は自治の一環で独自の処罰が認められているため、鳥山検校らは形式上は町奉行から当道座の惣検校へと引き渡されました。
その引き渡し書のトップに書かれていたのが鳥山検校であり、今回の検挙の目玉となっていました。
鳥山検校の検挙時の記録には、保有資産として有金20両、貸金1万5千両、屋敷1ヶ所が記録されており、現在価値で15億円ほどの規模の高利貸しを営んでいたことが分かります。
有金については20万両とする資料もあり、その場合、財産は現在価値で200億円ほどとなります。
引き渡し書で鳥山検校の次に記されている名古屋検校は、貸金規模、所有屋敷ともに鳥山検校の約10倍で、普通ならこちらが引き渡し書の筆頭に載るはずです。
鳥山検校の保有財産が200億円ならまだしも、そうでないなら、鳥山検校の扱いが重い理由は、世間を騒がせた瀬川の身請け以外にありません。
それほど瀬川の身請けは盲人としての分をわきまえない行動だったのであり、鳥山検校は見せしめの如く処罰されたことになります。
当道座への警告
また、検挙された8人の検校は30代から50代と皆比較的若いのも特徴で、当道座に対する幕府の警告の可能性も考えられます。
- 高利貸しは借金を返せない旗本に自分の子を養子に迎えさせる
- 家督を乗っ取り武士身分を獲得
- 裕福な町人・農民の子を養子にさせることも
- 縁戚関係を偽装するための戸籍偽造も行われた
旗本たちも戸籍偽造という罪に加担したため声を上げることができず、主従関係を乱しかねない高利貸しに幕府はメスを入れた形です。
鳥山検校の処罰
鳥山検校は、幕府の裁きに従う形で行われた当道座内の裁きにより、武蔵、山城、摂津、遠江の4カ国から追放の上、検校の職も停止されました。
ですが幕府は、検校らの処分が金融業者の貸し控えにつながらないよう、検挙直後に他の高利貸しに影響がない旨をお触れとして出しており、高利貸しを潰すことはできませんでした。
問題の一つである瀬川とは離縁となったようですが、その後、瀬川は元馴染み客の武家と結婚し子供をもうけ、夫の死後は大工と再婚したと伝わります。
復帰と晩年
鳥山検校は、42歳になった1786年の10代将軍 徳川家治の死に伴い赦免され、さらに5年後の1791年には検校への復帰を果たしました。
一方、当道座は、鳥山検校の処分前後から、盲人の自立化による所属盲人の減少などにより勢力が衰退しつつありました。
改革の試みと抵抗
松平定信の寛政の改革では、学問で身を立てて検校となった塙保己一が座中取締役に抜擢されます。
そして、乱れた座内を粛正し、鳥山検校のような事件の再発を防ぎ、座を立て直させようとしました。
塙保己一は、按摩や鍼灸ができず、座頭金の取り立てもできなかったため、学問の道に特例で進んだ異色の盲人で、鳥山検校とは対照的な存在でした。
復帰後の鳥山検校がどう関わったのかは不明ですが、塙保己一の改革は、既得権益を持つ検校らの抵抗に遭い一向に進みませんでした。
結局、鳥山検校のような高利貸しの座頭金はその後も存在し続け、悪徳ながらも人々にとっての最後の金融手段として役目を果たし続けることとなったのです。
参考文献
加藤康昭『日本盲人社会史研究』 https://amzn.to/4icLhx6
中山太郎『日本盲人史』 https://amzn.to/3QtK6h0
岩崎洋二『「当道座(とうどうざ)」とその後の近代化について』 (温故学会『温故叢誌』(77) 2023) https://cir.nii.ac.jp/crid/1520579830865813760