織田秀信という武将を知っていますか?三法師という名前の方が有名かもしれませんね。
織田秀信は織田信忠の嫡男、つまり織田信長の直系の孫にあたる人物です。
織田信長の孫なのにそこまで知名度はありませんよね。
それもそのはず。天下人 織田信長の孫として生まれたにもかかわらず、幼い頃から豊臣秀吉の傀儡とされた上、26歳の若さで亡くなってしまった悲劇の武将なのです。
そんな天下人の孫、織田秀信の生涯を見ていきましょう。以下は織田秀信の年表です。
西暦(年齢) | できごと |
---|---|
1580年(0歳) | 織田信忠の長子として誕生 |
1582年(3歳) | 本能寺の変。清州会議で織田家の当主となる。 |
1588年(9歳) | 元服。三郎秀信と名乗り従四位下侍従に任官する。 |
1593年(14歳) | 岐阜城主として13万石を与えられる。 |
1600年(21歳) | 関ヶ原の戦い。西軍に属し改易され、高野山に送られる。 |
1605年(26歳) | 高野山山麓にて死去 |
3歳にして織田家の当主!?本能寺の変から清須会議まで
織田秀信は1580年(天正8年)、織田信忠の長男として生まれました。幼名は三法師と名付けられました。
母親である徳寿院は信長の家臣である塩川長満、もしくは森可成の娘とされています。
一説には武田信玄の娘の松姫ではとも言われています。
松姫が母親だった場合、織田信長と武田信玄という戦国の英雄を祖父に持つスーパーサラブレットということになりますね。
本能寺の変当時、秀信は織田信忠の居城である岐阜城にいましたが、前田玄以によって安全な清州城へと移されています。
織田信忠は、二条城にて自害する直前に、前田玄以に遺言として秀信のことを託したと言われています。
この清須城で秀信の運命を大きく変えることとなる清州会議が開かれました。
織田家の家督は、本能寺の変の時点で信長から嫡男の信忠に移っていました。
しかし信忠も二条城で自害してしまったため、織田家の家督は空位にありました。
信忠の嫡男である秀信はまだ3歳。信長が死んで混乱状態にある織田家をまとめられるはずがありません。
後継者候補は次男の織田信雄、三男の織田信孝のどちらかになるだろうというのが大方の見方でした。
しかし、豊臣秀吉が三法師を擁立し強引に織田家の後継者としてしまいました。3歳の秀信が信長亡き後の織田家を担うことになってしまったのです。
この清須会議には近年異論も出ており、秀信の家督継承は信長存命中からの決定事項であり、 清須会議は今後の方針決定に過ぎなかったようです。
何はともあれ、秀信を当主、信雄と信孝が後見役、秀吉を筆頭とした柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4人の重臣が支える織田家新体制が出来上がったのでした。
有力者のもとを転々と… 賤ヶ岳の戦いまで
こうして織田新体制がスタートしたものの、秀吉主導の政権運営に対して、織田信孝、柴田勝家らは反感を強めていきます。
清須会議では、秀信は織田家当主として安土城に移ることが決定していました。しかし秀吉に主導権を奪われることを恐れた信孝が秀信を岐阜城に留め置いてしまいます。
これに怒った秀吉は、信孝と戦を始め秀信を取り返し、力づくで安土城に移しました。安土城では秀吉派であった織田信雄の後見を受けることになります。
一方、秀信を失った信孝は、柴田勝家、滝川一益と組み秀吉へ対抗しますが、再度秀吉に居城の 岐阜城を攻められ自害、柴田勝家も賤ヶ岳の戦いで敗北し、秀吉への対抗勢力はいなくなりました。
しかし、信孝が自害した後も、織田家の混乱は収まることはありませんでした。
織田家当主の座を失う? 小牧長久手の戦いまで
信孝が自害してようやく落ち着いたと思ったのもつかの間、今度は信雄と秀吉が対立します。
信雄は、信孝が滅亡した後は自分が織田家を主導していくと考えていましたが、実際は秀吉に主導権を取られてしまいます。
信雄も秀信の後見として、前田玄以を京都所司代に任命するなど積極的に活動しますが、秀吉にとって目障りだったのか信雄は安土城を退去させられます。
その後信雄と秀吉の関係は決裂し、信雄は徳川家康と手を組み、小牧長久手の戦いへと突入し ていきます。
秀吉は、秀信の身柄を信雄側に奪われないように、秀信を安土城から坂本城、ついで京都に次々と移しました。当時まだ6歳の秀信は落ち着いた暮らしを送ることもできません。
小牧長久手の戦いで信雄と秀吉が講和したことで、秀吉と信雄の政治的立場は秀吉優位に完全に逆転しました。
秀吉と信雄の立場が逆転したことは、織田家中で秀吉がNo.1の地位を不動にしたことを意味します。織田家中には秀吉と対立できる者はもういません。
天下人としての地位を固め、織田家の威光を必要とすることのなくなった秀吉は、信雄に対して、秀信の後見役の立場から正式に織田家の当主としての立場を認めてしまいました。
このときに秀信から信雄へ家督継承があった事実はありません。
しかしまだ6歳の秀信はまだ実力がなく、秀吉に担ぎ上げられることもなくなり、人々も信雄を織田家当主と見るようになってしまいました。
秀吉配下の武将として
こうして織田家の家督を失った秀信でしたが、秀吉配下の武将として順調に成長していきま す。
1588年に9歳で元服し、従四位下侍従に任官します。
1590年の小田原征伐にも従軍し、1593年には岐阜にて13万石を与えられる大名となりまし た。この頃になると従三位、中納言として岐阜中納言と称していたようです。羽柴性も与えられています。
朝鮮出兵の講和交渉で、明の沈惟敬が名護屋城に来た際には、徳川家康、前田利家、小早川秀秋、豊臣秀保、上杉景勝と並んで秀吉への謁見に同席しています。
秀吉の書状には、明征服後は、朝鮮は宇喜多秀家か秀信に任せると記されるなど、豊臣政権の有力大名として扱われていたことがわかります。
こうして日本有数の大名として成長した秀信でしたが、彼の運命は関ヶ原の戦いで大きく変わることになります。
関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いで秀信はもともと東軍につく予定だったようです。
家康に従い会津征伐に加わる予定でしたが、支度に手間取る間に石田三成から尾張、美濃100万石の加増の条件で勧誘され、西軍に加勢することになりました。
美濃の最大の領主である秀信が西軍についたことで、美濃の他の領主は皆西軍に加担することになります。
しかし東軍は福島正則、池田輝政ら先遣部隊があっという間に清州城まで引き返してきまし た。
秀信の岐阜城は西軍の最前線になってしまったのです。
秀信の手勢は約6000。2万近くの東軍勢に敵うはずがありません。家臣たちは籠城を勧めますが、秀信は野戦を選択しました。
三成からの援軍も合わせ9千人ほどとなった秀信勢でしたが、あえなく敗れ、結局岐阜城に籠城します。
堅城で知られる岐阜城ですが、元岐阜城主である池田輝政に搦手を攻められ、一日で落城してしまいます。
秀信は自害しようとしますが、福島正則に止められ降伏し、岐阜城下の加納の円徳寺に入って剃髪しました。
降伏した秀信は本来ならば死罪でしたが、福島正則の助命懇願により死罪は免れます。
関ヶ原の戦い終結後、岐阜13万石を没収され、弟の秀則とともに高野山へ送られることになりました。
信長の孫であることが災いに 悲劇の最期
高野山に送られた秀信でしたが、高野山側から当初は入山すら許されないという仕打ちを受けます。織田信長が行った高野山攻めが理由に挙げられます。
雑賀党と組んで、信長に反抗していた高野山は、織田信長による侵攻を受けながらも、本能寺の変で九死に一生を得るという過去がありました。
そんな高野山が秀信の入山を受け入れるはずがありません。なんとか出家は許されたものの、 山内ではわざと年少者の扱いを受ける、ふんどしの着用が認められない等、陰湿なイジメを受け続けました。
そんな凄惨な日々が5年ほど続いた後、1605年5月、秀信は高野山を出て麓の村で暮らすことになります。そしてその20日後の5月27日に死亡しました。
健康を害していたための下山療養とも言われていますが、 死因は迫害に耐えかねての自害であるとも言われています。
享年26歳。早すぎる死でした。
まとめ
織田信長の孫として幼い頃から政治の道具にされ、最後には信長の孫であることが原因で亡くなってしまった織田秀信。偉大すぎる祖父をもったが故の悲しい生涯でした。
しかし秀信の治世は信長を踏襲し苛政を敷かず、水運を重視し商業発展に努めるなど評判は良いものでした。
また、岐阜城を落とされてしまったため武将としての評価は低いですが、戦では信長を彷彿とさせる派手な甲冑を身につけ勇敢に戦い、敵将福島正則が「さすが信長の嫡孫なり」と言い残すなど、武将としても一定の力量はあったそうです。
信長の孫としての期待に応え成長し、周囲の評価も高かった秀信。あと10年生まれるのが早かったら日本の歴史は間違いなく変わっていたでしょう。
参考文献 国史大辞典編集委員会『国史大辞典』(吉川弘文館 昭和63年)
[…] 織田秀則は織田信忠の次男であり、織田秀信の異母弟にあたる武将です。 兄である秀信に仕え、秀信死後は豊臣家に仕え、1625年に死去しました。 […]