関ヶ原の戦いで西軍が敗れた後、石田三成は近江国(滋賀県)の伊吹山中に身を隠していまし た。
山中に隠れていた石田三成を捕まえたのが本記事で紹介する田中吉政(たなかよしまさ)です。
田中吉政といえば関ヶ原の戦い以外ではあまり名前を聞かない武将ですが、農民から一国の大名まで成り上がった、豊臣秀吉顔負けの立身出世を成し遂げた大名なのです。
本記事では田中吉政の61年の生涯、そして吉政死後の田中家のその後を見ていきます。 以下は田中吉政の年表になります。
1548年(0歳) | 近江国高島郡に生まれる |
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1572年(24歳) | 主君の宮部継潤が羽柴秀吉の家臣になる |
1584年(36歳) | 豊臣秀次の筆頭家老になる |
1590年(42歳) | 三河国岡崎城主となる。 |
1600年(52歳) | 関ヶ原の戦い 筑後国梁川城主となる |
1609年(61歳) | 京都伏見にて死去 |
浅井家、宮部家の家臣として
田中吉政は近江国高島郡田中村(現在の滋賀県長浜市、米原市)に生まれました。
田中氏は近江源氏である高島氏、朽木氏の一族であり、田中城を本拠にしていましたが没落し、吉政の父の代には帰農し農民となっていました 。
しかし、『続武家閑談』によると、農民であった吉政は畑の畦で休んでいると、若い侍が5、6 人連れ立って歩いているのを見て 「侍ならぬ者は人にてなし」と悟って仕官を果たしたとあります。
若い頃から自分の現状に満足せず、立身出世を志す吉政の決意が伝わってくるエピソードで す。
こうして、田中吉政は地元の領主である宮部継潤(みやべけいじゅん)に仕えていました。
宮部継潤は近江国の領主である浅井長政に仕えていたので、吉政も浅井家に属していたことになります。
1570年の姉川の戦いでは吉政も浅井家の一員として織田信長、徳川家康らと戦いました。
姉川の戦いの後も、宮部継潤は浅井家の最前線として、横山城を拠点としていた羽柴秀吉と対峙し続けます。
しかし、吉政の主君である宮部継潤が1572年(元亀3年)に秀吉の調略によって織田家に寝返り、浅井攻めに加わります。
吉政も浅井家から織田家へと鞍替えしながら宮部継潤に従い、軍功を挙げていきます。
また、この時期には秀吉の養子であった後の豊臣秀次が宮部継潤の養子となっており、吉政は秀次附の家臣となっていました 。
秀次は浅井氏滅亡後に秀吉のもとへ返されているので、吉政が仕えていた時期は長くはありませんが、このことが後に吉政の立身出世に大きく関係してくることになります。
浅井家滅亡後、主君の宮部継潤は秀吉の与力となり、田中吉政も近江国内で300石の知行を得ることになりました。(武功夜話より)
その後も吉政は宮部継潤の家臣として、秀吉の中国攻めに従軍し、毛利氏との戦いを繰り広げていきます。
宮部継潤は吉川経家の籠もる鳥取城攻めで功績を挙げ、鳥取城代となりました。
吉政も、敵将である大坂新右衛門が放った二本の矢を体に受けながら奮戦するなど功績を挙げ、宮部継潤のもとで1500石を知行しています。
宮部継潤は鳥取城を任され、毛利家への抑えとしての任務を担っていたていたため、備中高松城攻め、山崎の戦いなど、秀吉の主要な戦いには参加していません。
しかし、田中吉政は明智光秀との戦いである天王山の戦いに参陣武将として名前が残っています。
このことから、天正10年(1582年)ころから宮部継潤のもとから秀吉直属の家臣に転じたと考えられています。
豊臣秀次の家老として
1582年(天正10年)頃、吉政は宮部継潤の元を離れ、秀吉の直臣となります。
その後、秀吉の養子であった羽柴秀次の家老として抜擢されます。
吉政は秀次が宮部継潤のもとにいた頃に家臣として仕えており、その縁もあっての抜擢でし た。
当時の秀次は三好康長の養子として、河内国で2万石を知行しており、 賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦いなど秀吉の主要な戦いに従軍しています。
秀次はまだ若く、戦の指揮は吉政ら家臣に大半を委ねていました。
吉政は天正13年の紀州根来雑賀攻めに参陣し、和泉国の千石堀城攻めで、主力として大きな武功を挙げ、秀次家臣内でも筆頭の地位まで上り詰めます。
1585年には豊臣秀次が近江八幡山43万石の大名となり、吉政はその筆頭家老となりました。
秀次の他の家老であった一柳直末、山内一豊、堀尾吉晴、中村一氏はそれぞれ居城を持っていましたが、吉政は「関白殿一老」として八幡山城にあり、政務の全てを差配していました。
当時秀次は、京都の聚楽第の管理を任されるなど、八幡山城に在城していた時期がほとんどなく、吉政が宿老として近江八幡43万石の政務を取り仕切っていました 。
吉政は、信長時代の安土城下から八幡山城への城下町の移転を推し進め、町割りを行い、八幡山城下の基礎を作りました。
江戸時代中頃まで、吉政の旧名である久兵衛町という名前が残っており、吉政の城下町建設への関与度が伺えます。
吉政の近江八幡時代の資料は多く残っており、野洲郡野洲市場の諸役免除、古橋村の水論、山論の裁定、山内一豊から吉政への報告の書状など、吉政の活躍が数多く記録されています。
余談ですが、古橋村は後に石田三成の領地となり、関ヶ原合戦後に石田三成が東軍の追跡を逃れるために身を隠した場所です。
また、秀次麾下として、四国征伐、九州征伐、小田原征伐にも参戦しています。
小田原征伐では北条氏規が籠もる伊豆山中城攻めで戦功を挙げるなど、秀次家臣筆頭としての役割を充分に果たしました。
岡崎城10万石の領主として
小田原北条家の滅亡後、徳川家康は関東へ、織田信雄は改易され、2人の旧領には豊臣秀次、及び秀吉の直臣らが入りました。
尾張、伊勢に豊臣秀次、秀次を守るように三河、遠江、駿河に秀次の家老衆が配置されまし た。
この時、吉政ら宿老衆は秀次から領地を与えられたわけではなく、秀吉から直接所領を与えられ、秀吉に命じられて秀次の附家老となるという形をとっています。
吉政は、秀次が奥州攻めで小田原征伐後も所領を留守にしていたことから、約2年間、尾張の実質的支配者として活動しています。
こうして秀次領の差配をする傍ら、吉政自身は家康のかつての本領であった 三河岡崎城を領しました。
岡崎城を近世城郭に改修し、城下町を大きく囲む田中堀を造り防御力を高め、また東海道を岡崎城下を通るように変更し、「岡崎二十七曲」と呼ばれるクランクを造り、岡崎城下の通行を強制することで岡崎の町の活性化を図りました。
一方豊臣政権では、天正19年(1591年)に政権No.2であった豊臣秀長、政権顧問であった千利休が相次いで病死、切腹、さらには秀吉の後継者であった鶴松が3歳の若さで急死しました。
秀吉は秀次に関白の職を譲り、秀次は正式に秀吉の後継者となります。
この時、秀吉は秀次領の尾張を織田信長の孫である織田秀信に与え、岐阜に田中吉政を置く構想を計画しています。
この構想は、実際に実行されることはなかったものの、秀次の宿老として大きな領地を切り盛りしていた吉政の実力を秀吉も認めていたことに他なりません。
朝鮮出兵では、東海道筋の武将は出陣を免除されていたことから、吉政も出陣はしなかったものの、代わりに京都の守備、伏見城築城などに動員されています。
1595年、豊臣秀次は謀反の疑いをかけられ、高野山へ追放、さらには切腹させられ妻子も死刑になってしまいます。
秀次の家臣である木村重茲(山城淀18万石)、前野景定(但馬11万石前野長康の息子)ら秀次附の家臣も秀次を擁護したため切腹を命じられました。
しかし吉政をはじめ、堀尾吉晴、山内一豊ら古くからの秀次の家老衆は罪を問われていませ ん。
むしろ豊臣秀頼が生まれた後、横暴な振る舞いが多くなってきた秀次を諌め続けたとして吉政は秀次死後に2万石の加増を受けています。
吉政は秀次自害を気にもとめず、宿老である吉政に対して切腹を勧める声に耳も貸さなかったという逸話もあります。
これは、秀次宿老たちが、秀吉から付けられた存在であり、秀次との間には一定の距離をもっていたからと考えられます。
また、秀次自身も、古くからの宿老より、自身の家臣を重用していたことも関係しているでしょう。
吉政は秀次没後、さらに加増され、合計10万石の領主になります。
こうして、吉政は秀次附宿老という役割を離れて、三河国岡崎城10万石の大名としてその存在感を示していくことになります。
関ヶ原の戦い
田中吉政は豊臣秀吉の死後、徳川家康に接近します。
豊臣秀次の家老であった堀尾吉晴、山内一豊、中村一氏ら秀次家老衆は、みな親徳川派となっています。
石田三成が豊臣秀次失脚の黒幕という見方が当時あったのかもしれません。
会津征伐では徳川家康に従い下野国小山まで進軍します。そこで石田三成の挙兵の報に接しました。
小山評定では山内一豊の居城を徳川家康に差し出すという申し出に追随し、居城である岡崎城を家康に差し出しています。
また、家康は小山評定当時、三成の居城である佐和山城を攻撃目標に定めており、吉政は「近江は某が生国にして、よく地理を知りぬ、願わくば先鋒たるべし」と会議で発言し、東軍先遣隊の1人となっています。
また、家康から池田輝政、藤堂高虎に宛てた書状に、「田中吉政とよく相談するように」とする内容が残されており、吉政は東軍の主力武将の1人として家康の信任が厚かったことが伺えます。
この時、旧主である宮部継潤の息子宮部長房が単独で西軍につこうとして捕縛されます。
吉政は居城の岡崎城にて長房の身柄を預かり、宮部軍も自軍に取り込み関ヶ原の戦いへと向かいました。
その後は、福島正則、黒田長政らと東軍先遣隊として、織田秀信の籠もる岐阜城攻めに参戦しています。
岐阜城攻めでは黒田長政、藤堂高虎らとともに、大垣城からの西軍の援軍を打ち破り、敵将の杉江勘兵衛を討ち取る功績を挙げています。
関ヶ原本戦では、筒井定次と共に西軍の主力である小西行長軍6000と激戦を繰り広げまし た。
小西行長は朝鮮出兵で先鋒を務めるなど、武辺者揃いで知られており、戦いは一進一退を繰り返しましたが、小早川秀秋の裏切りにより小西軍は崩壊します。
結果的に田中吉政は西軍の主力である小西行長を打ち破るという大手柄を挙げることになりました。
関ヶ原の戦い後には、石田三成の居城である佐和山城攻めを行い、吉政は搦手側から攻め込 み、天守に一番乗りする功績を挙げています。
佐和山城攻めは小早川秀秋、脇坂安治など関ヶ原での裏切り組を中心に行われているにも関わらず、吉政も参加しているのは、旧領主、地理に明るいことに加え家康の信任も厚かったことが理由に挙げられます。
同時期に、吉政は自身の生まれ故郷である伊吹山中にて、逃走中の石田三成を捕縛する功績も挙げています。
三成は逃走中に腹痛を起こしていましたが、毒殺を恐れ医師の薬を拒否したため、吉政はニラ粥を与え、三成は手厚くもてなされた礼として秀吉の遺品である石田貞宗の短刀を吉政に贈っています。
他にも石田三成は「他の者よりはお前に捕らえられたほうがいい」など同じ近江出身である吉政を立てる発言をしています。
こうして吉政は関ヶ原の戦いで抜群の武功を挙げることになったのでした。
筑後柳川32万石の大名として
関ヶ原の戦い後の論功行賞では、関ヶ原本戦での活躍、佐和山城攻め、石田三成の捕縛など大活躍が認められ、岡崎10万石から立花宗茂、小早川秀包の旧領である筑後柳川32万石への大幅な加増を受けました。
吉政は当時、家康から筑後柳川か、豊前国への移封を打診されていました。
吉政は家臣を集めて協議し、有明海を開拓すれば大幅な収入増が見込めると判断し、筑後柳川への移封を決断しました。
吉政は筑後柳川に国替え後、さっそく国内整備に取り掛かります。
当時の筑後国は柳川と久留米と2つの拠点があり、吉政は両拠点の連携強化のために街道を整備しました。
この街道は田中街道と呼ばれ、現在の福岡県道23号となっています。
有明海の干拓にも力を入れ、田中家改易後も柳川藩では有明海の干拓が藩主導で推し進められていくことになります。
また、吉政はキリスト教に帰依しており、 バルトロメヨという宣教名を持っていました。
そのことから領内ではキリスト教に寛容な政策が取られ、柳川はキリスト教禁教後も弾圧が厳しくなかったと言われています。これが後に田中家改易の一因ともなりました。
このように得意の内政を推し進めていた吉政でしたが、61才と高齢でもあったことから、 1609年に改革の道半ばで伏見にてその生涯を閉じました。
その後の田中家
吉政が1609年に没した後、家督は4男の田中忠政が継ぎました。
長男の田中吉次は関ケ原の戦い後に吉政と不和になり廃嫡、田中家を逐電し、のちに江戸幕府の旗本になっています。
次男の田中吉信は関ケ原の戦い後、支城である久留米城の城主となりますが、1606年に小姓を手打にしようとして、返り討ちに遭い死亡しました。
三男の田中吉興(康政)は病弱であったことから嫡男とはなりませんでした。
こうして兄たちが家を継げなかったため四男の忠政が跡を継ぎましたが、大阪夏の陣にて 家臣の一部から豊臣に与するべきという反論が起こり、遅参してしまいます。
この一件では改易とはなりませんでしたが、代わりに忠政は七年間の江戸滞留を命じられてしまいます。 この江戸滞留中の1620年に忠政は36才の若さで死去します。
忠政には子がなく、田中家は無嗣断絶となってしまいました。
改易後の田中家は吉政の三男の義興が近江国内で2万石を与えられ田中家の名跡を継ぎました。
義興の田中家も、徳川譜代家臣の菅沼定盈の八男を養子に迎えており、田中吉政の血筋は息子の代にて途絶えてしまいました。
まとめ
農民の身分から一国の主まで上り詰めた田中吉政。
宮部継潤の元で前半生を過ごしながら力を蓄え、後半生で出世街道を駆け上がる姿は豊臣秀吉を彷彿とさせます。
軍事、内政で素晴らしい実績を残しながらも、二代目で滅びてしまうのも豊臣家とそっくりです。
関ヶ原の戦いでは石田三成に関連して必ず出番のある田中吉政。彼の前半生はわかっていないことも多く、今後の新事実発掘にも期待が持てます。
参考文献
国史大辞典編集委員会『国史大辞典』(吉川弘文館 昭和63年) 市立長浜城歴史博物館、岡崎市美術博物館、柳川古文書館『秀吉を支えた武将 田中吉政-近畿・東海と九州をつなぐ 戦国史-』(サンライズ出版 平成17年)
田中健彦、田中充恵『秀吉の忠臣 田中吉政とその時代』(鳥影社 平成24年)