こんにちは!レキショックです!
今回は、源氏に代々仕え、源頼朝の挙兵にも真っ先に馳せ参じた老将岡崎義実について紹介します。
頼朝の挙兵に参加した時は、68歳の高齢でしたが、義実は、息子の佐奈田義忠とともに頼朝を支え、源氏再興のために尽くします。
時代遅れのおじいちゃんのように描かれることも多い義実ですが、長年源氏に仕えてきた歴戦の強者で、頼朝も挙兵時にはもっとも頼りにした人物の1人でした。
そんな岡崎義実の生涯、源氏とともに生きた歴戦の御家人の歩んだ道について紹介します。
三浦氏の一族として源氏のもとで戦う
岡崎義実は、坂東八平氏の一つ、三浦氏の一族として生まれました。
義実の父は、三浦義継といい、相模国から安房国にかけて勢力を振るっていました。
義継の嫡男が三浦義明で、その子の三浦義澄、孫の三浦義村は、鎌倉幕府の有力御家人として活躍していくこととなります。
岡崎義実は、この三浦義継の末子として生まれ、当初は三浦悪四郎と呼ばれていました。
現在の神奈川県平塚市岡崎のあたりを領有していたことから、地名を名字とし、岡崎と名乗るようになります。
義実の前半生は記録に残っておらず、詳細については判明していません。
ただ、悪四郎という名前からも、相当武勇に優れた武将であったのだろうということは伝わってきます。
当時の名前につけられていた悪は悪いという意味ではなく、強い、猛々しいという意味で人々からの称賛の意味も込められていました。
源義朝の長男で、源頼朝の兄にあたる源義平も、戦で抜群の働きをしていたことから、鎌倉悪源太という名で呼ばれています。
義実は、兄である三浦義明に従って、源氏方として活動していたものと思われます。
三浦義明は、娘が源義朝の側室となるなど、源氏とは深いつながりを持っていました。
義明ら三浦一族は、相模国での源義朝の勢力確立に大きく貢献し、源氏の強力な後ろ盾となります。
また、義朝の子、源義平が義朝の異母弟、源義賢と戦った大蔵合戦では、三浦一族は相模国から義平を後方支援しています。
その後も三浦氏は保元の乱、平治の乱で源義朝に従って戦っています。
義実も、三浦氏の一族として、これらの戦いで戦功を挙げ、悪四郎と呼ばれるに至ったのでしょう。
しかし、源氏は平治の乱で平清盛に敗れ、源義朝は逃亡途中に謀殺され、源義平は京都に潜伏しているところを捕らえられ、処刑されてしまいました。
そんな中、三浦一族は戦線離脱に成功し、無事に領国に逃げ延びています。
三浦一族は、源氏没落後も、源氏から受けた恩を忘れずに過ごしていました。
当主の三浦義明は、大番役で京都に向かう際、伊豆に配流されていた源義朝の子、源頼朝のもとに挨拶をし、源氏とのつながりを持ち続けます。
岡崎義実も、鎌倉の亀ヶ谷の地にあった源義朝の館の跡に、義朝の菩提を弔う祠を建立し、以降、20年近くにわたってこの地を守り続けました。
こうして、源氏の魂を守り続けていた岡崎義実は、頼朝の挙兵に呼応し、源氏再興の戦いを始めることとなります。
嫡男を失いながらも、源氏再興へ力を尽くす
20年以上にわたって源義朝の菩提を弔っていた岡崎義実のもとに、伊豆国で源頼朝が源氏再興、平家打倒の兵を挙げる決意を固めたとの知らせが入ります。
義実は、直ちに息子の佐奈田義忠を率いて頼朝のもとに馳せ参じます。
頼朝は義実を部屋に呼び、「未だに口外していないが、お前を一番頼りにしている」と告げ、これに感激した義実は、身命をとして頼朝のために戦うことを誓いました。
もっとも、頼朝のこの密談は、義実以外にも多数の者がされており、頼朝の人心掌握術の一環でした。
ただ、頼朝としても、源氏への忠誠心の厚い義実は、挙兵当初はもっとも頼りにしていた武士の1人で、挙兵前から連絡を取り続けていたといいます。
義実ら武士たちを集めた頼朝は、伊豆国の目代、山木兼隆の館を襲撃し、兼隆を討ち取り、反平家の狼煙を上げます。
300騎ほどの軍勢を率いて相模国に進出した頼朝軍でしたが、そこに大庭景親率いる平家軍が立ちはだかり、石橋山の戦いが起こります。
この石橋山の戦いで、岡崎義実の子、佐奈田義忠が獅子奮迅の活躍をします。
義実に推挙された義忠は、頼朝から「大庭景親と弟の俣野景久を討ち取って源氏の高名を立てよ」と先陣を命じられます。
義忠は派手な鎧をまとい敵陣に突入、大庭景親の弟の俣野景久と組み合い、あと一歩のところまで追い詰めるも、討ち取られてしまいました。
義忠が討ち取られ、劣勢となった頼朝軍は敗走し、山中に逃げ込み、一旦軍を解散することになります。
息子を失った義実でしたが、それでも頼朝への忠義は変わらず、北条時政や三浦義澄らとともに安房国へ先発し、頼朝の到着を出迎えることとなりました。
その後、頼朝は房総半島の上総広常、千葉常胤ら有力武士を次々と味方につけ、わずか一月ほどで勢力を盛り返します。
鎌倉の地で、長年源義朝の菩提を弔っていた義実にとっても、その子の頼朝が大軍を率いて鎌倉の地に入ってきたことは万感の思いがあったことでしょう。
そして頼朝は京都から頼朝討伐のためにやってきた平維盛率いる平家軍を富士川の戦いで撃破、関東に勢力を確立します。
義実にとって息子の仇であった大庭景親も、富士川の戦い後に捕らえられ、処刑されています。
この富士川の戦いの後、黄瀬川に陣を敷いていた頼朝軍のもとに、頼朝の弟の源義経がやってきます。
頼朝に面会を求めるも、応対した義実は素性の知れないものとして怪しみ、取り次ごうとしませんでした。
結局、この騒ぎを聞きつけやってきた頼朝が面会し、両者の対面が実現し、義実は義朝の子たちの再会に涙したといいます。
こうして、息子を失いながらも源氏再興のために高齢ながら力を尽くした義実は、その後も頼朝の忠実な御家人として仕えていくこととなります。
戦にでることができず貧困にあえぐ 晩年の義実
義実は高齢であったことから、富士川の戦い以降の平家軍との戦いに従軍した記録はありません。
しかし、源氏の忠臣として御家人の席に列しており、様々なエピソードが残っています。
義実は、頼朝配下で最大の勢力を有する上総広常と、つかみ合いのケンカをするほどの衝突を起こしています。
三浦義澄の館で行われた宴会で、義実は頼朝の着用していた服を所望し、頼朝は快くこれを与え、義実は喜んでその場で着用します。
それを妬んだ上総広常は「こんな貴重な服は広常こそ拝領するにふさわしいのに、老いぼれが与えられるなんてとんでもないことだ」と言い放ちます。
これに激怒した義実は広常とつかみ合いのケンカになりかかり、頼朝は唖然として言葉も出ない中、周囲の仲裁によってなんとか収まるといった有様でした。
しかし、こうした傲慢なふるまいの多かった広常は、その後、頼朝の命令で梶原景時によって暗殺されています。
また、石橋山の戦いで嫡男の佐奈田義忠を討ち取った長尾定景がこの頃義実のもとに預けられてきます。
本来ならば息子の仇として首をはねてもいいくらいですが、義実は慈悲の心を持って、囚人として捕らえるにとどめ、定景は法華経を読経する日々を送ります。
定景の読経を聞いているうちに、義実の心境も変化したのか、頼朝に対し、冥土の息子が難を受けることになるから定景を殺さずに赦免してほしいと願い出て、定景は赦免されます。
この定景は、やがて3代将軍源実朝を殺害した公暁を討伐する役割を担うこととなり、子孫は武田信玄と激闘を繰り広げることとなる上杉謙信へとつながっていくこととなります。
こうして、戦場には出ることがなかった義実でしたが、御家人として鎌倉での諸行事を務め、奥州藤原氏との戦いである奥州合戦には老体に鞭打って従軍しています。
義実は頼朝の死後も存命しており、出家していたものの、梶原景時を糾弾する66名の御家人に名前を連ねています。
しかし晩年は戦功も長らく挙げられず、土地も相続してしまったために貧困にあえいでいたといい、88歳の時に、北条政子の元を訪れていた記録があります。
義実は政子に対し、窮乏を訴え、政子はかつての石橋山の戦いでの活躍は老後でも賞されるべきだとして、所領を与えるように将軍、源頼家に命じました。
こうして貧困にあえぐ中、頼朝の死から約1年後、89歳で義実は亡くなりました。
義実の跡は、石橋山の戦いで戦死した嫡男、佐奈田義忠の子の岡崎実忠が継いでいます。
しかし実忠は、同じ三浦一族である和田義盛と北条義時の戦いである和田合戦において、和田方について戦い戦死、岡崎氏はここに滅亡してしまうこととなりました。
また、義実の次男の義清は、土屋宗遠の養子と成っていましたが、実忠と同じく和田合戦で和田方につき、敵の本陣への突撃を敢行し亡くなっています。
【画像引用】
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