幕末 近代

金には汚かったが優れた財政手腕を発揮した渋沢栄一の元上司 井上馨79年の生涯

長州藩出身の維新の元勲 井上馨

今回は、長州藩出身で明治初期の日本の財政を支えた井上馨について紹介します。

役人時代の渋沢栄一の上司でもあった井上馨。

幕末には志士として伊藤博文らとともに活動し、高杉晋作久坂玄瑞らとともにイギリス公使館焼き討ちにも参加しています。

過激な攘夷志士であった一方、長州五傑の1人としてイギリスに密航留学し国際情勢に通じ、下関戦争の和平交渉にも取り組むなど、外国通の一面も見せます。

その後も長州征伐の休戦協定など外交面での活躍を見せ、明治政府成立後は大阪の造幣局の責任者となり財政にも通じるようになるなど、実務面でメキメキと頭角を現しました。

妻の武子とはこの頃に大隈重信の仲介で結婚し、政府内でも数少ない数字に強い人物として活躍していたころに渋沢栄一と出会います。

今回はそんな井上馨は明治時代以降どのような生涯を歩んだのか、詳しく紹介します。

財政家として大活躍!今清盛と呼ばれるほどの権勢を振るう

明治時代初期に撮影された井上馨

明治維新後は木戸孝允の引き立てで大蔵省で財政を担当していた井上馨。

当時の政府上層部の人物たちは財政に疎く、井上は政府の財政を一手に引き受けることとなります。

まだ制度がほとんど確立していないにも関わらず出費はかさんでいた政府内で、井上は制度を作りながら財政政策を進めていくという困難な舵取りをしていました。

副大臣格である大蔵大輔を務めていた井上は、やがて大蔵卿であった大久保利通岩倉使節団の一員として欧米に行くと、事実上の大蔵省の長官となります。

岩倉使節団 左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通

当時の大蔵省は民部省と合体した巨大な省庁で、財政だけでなく地方行政にも携わっており、井上の権力は巨大なものとなりました。

県知事の任命など地方政治にも介入する井上の姿は、かつて権勢を振るった平清盛にかけて今清盛と呼ばれるほどでした。

権勢を一手に握っていた頃の井上は、短気な性格で、すぐ怒鳴ることから雷親父とあだ名されています。

しかし、右腕である渋沢栄一が側にいる限り、井上は語気を荒げることはなかったので、渋沢栄一は避雷針とあだ名されていました。

そんな渋沢栄一は井上のことをとても悲観的な人物で、物事に対してまず欠点を見るように努めていたと語っています。

学問の普及に対しては高等遊民が増えて国家に災いをなす、渋沢栄一の会社設立に対しても、渋沢に影響されて会社が乱立し財界が苦境に陥り、国家財政に災いをなすといった具合です。

このように常に悲観的な見方をしていたからこそ、理想に向けて突っ走る明治政府の中にあって冷静に全体を見渡し、国家の根幹である財政の健全化に取り組むことができたのでしょう。

財政面で多大な活躍をしていた井上でしたが、そんな彼にはお金に汚いというもう1つの顔がありました。

賄賂と利権で私腹を肥やしていた!?汚職まみれの井上馨

井上は、三井や長州出身の商人らと密な関係を築き、賄賂や利権で私腹を肥やしていました。

もっとも、同じ長州出身の山県有朋が疑獄事件である山城屋事件を起こし失脚するなど、井上だけが汚職に手を染めていたわけではありません。

しかし、強大な権力を持ち、財界とも密接に関わる姿は特に目立ち、世間からは汚職の象徴として非難の対象となっていました。

そんな世間の評判を見てか、岩倉使節団の送別会で西郷隆盛に「三井の番頭さん」と揶揄されています。

また井上は美術品収集にも熱心でしたが、人の美術品を取ってしまうという悪い癖がありました。

茶会に招かれた先で、茶碗や掛け軸など気に入ったものがあれば「もらっておく」と強引に奪い取ってしまっていたのです。

絶大な権力を握っていた井上の前には誰も文句は言えず泣き寝入りしていたところ、明治天皇が井上の茶会で掛け軸をもらうと言って井上を狼狽させ、横暴をたしなめたというエピソードがあります。

明治天皇

こんな具合ですから自分の財産は日増しに増えていき、遺言書を毎日更新しており、最近でも井上の遺言書が見つかったという話もあります。

そんな井上の金へのがめつさがついに事件となってしまったのが、尾去沢鉱山事件です。

秋田県にある尾去沢鉱山は銅が産出され、江戸時代は盛岡の南部藩が所有していましたが、御用商人の村井茂兵衛に借金をして経営しており、明治時代以降は村井茂兵衛自らが経営を行っていました。

形式上、藩の借金の証文は藩から商人に貸し付けるという形を取っていたのですが、大蔵省として各藩の借財整理を行っていた井上は、この形式上の証文を手に村井に借金の返済を求めたのです。

金を貸している側の村井にそんな金は残っておらず、村井は破産、井上は借金のカタに尾去沢鉱山を奪い取り、同じ長州出身の岡田平蔵に無利息で払い下げ、さらに鉱山に「井上馨所有」との高札を挙げてしまいました。

この横暴にはさすがに鉱山を取られた村井茂兵衛は反発、司法省に訴え、司法卿であった江藤新平が調査に乗り出します。

司法卿 江藤新平

江藤は井上の逮捕を求めますが、長州藩閥の抵抗を受け、そのうちに江藤が佐賀の乱を起こして敗北したため真相は闇に葬られることとなります。

しかし井上も無傷ではすまず、大蔵大輔の職を辞任することとなりました。

江藤新平が井上の汚職をこれほど追及したのはわけがあります。

当時井上は緊縮財政を志向しており、文部省、司法省が学制発布、司法改革で高い予算を要求してもことごとく突っぱねていました。

江藤は予算が通らないことに怒り、井上の汚職を追及したのです。

こうして辞任した井上は渋沢栄一とともに政界を去ることとなります。

官僚時代の渋沢栄一

政界を去る際に、渋沢栄一と連名で建議書を提出し、政府の財政感覚の乏しさを指摘、これが新聞に掲載され波紋を呼ぶこととなりました。

政治の世界から離れた井上は実業界に身を投じます。

井上の政界引退の原因にもなった尾去沢鉱山の経営に乗り出し、米の売買や軍事品輸入も扱う貿易会社の岡田組を三井組の益田孝らとともに設立しました。

この会社がやがて先収会社となり、現在の五大商社の1つである三井物産につながっていきます。

こうして実業界で活躍していく井上でしたが、盟友伊藤博文の強い説得もあり、約2年後に政界復帰を果たすこととなります。

政府に復帰 外務大臣として条約改正に取り組む

約2年の時を経て政界復帰した井上は、伊藤博文とともに木戸孝允板垣退助を政府に復帰させる大阪会議開催に奔走します。

さらに黒田清隆とともに朝鮮に渡海、日朝修好条規締結に関わるなど内外で活躍しました。

大久保利通の死後、盟友である伊藤博文が政府のトップとなると、井上は伊藤と行動をともにするようになります。

井上は伊藤よりも年上で、もともと兄貴分として助け合ってきた仲であったことから、伊藤の頼みは断れず、しばしば損な役回りも引き受けていました。

伊藤博文と大隈重信が国会開設の構想で対立した際には、伊藤と協力し大隈を政府から追い落とす明治14年の政変を起こしています。

井上は伊藤のもとで外務卿を務め、不平等条約の改正に取り組みます。

井上は日本が諸外国並みであることをアピールするために欧化政策を推進、鹿鳴館や帝国ホテル建設に取り組み、連日パーティーを開催するなど、少しでも日本が欧米並であることをアピールしようと尽力しました。

鹿鳴館で行われた舞踏会の様子

こうした努力の甲斐もあり、条約改正交渉は少しずつ進みますが、裁判に外国人判事を任用するといった内容に政府、民衆双方が反発。井上の条約改正交渉はここに頓挫することとなってしまいました。

条約改正には失敗してしまった井上ですが、その後も様々な閣僚を歴任し、政府の重鎮として活動します。

伊藤博文、山県有朋らと並んで、総理大臣を決める会議にも参加し、元老の1人として政府の意思決定に深く関わりました。

また、外務大臣としての経験を活かし、日清戦争のときには朝鮮公使を務め、難しい朝鮮情勢を切り盛りしました。

こうした政治面での活躍に加え、かねてより繋がりのあった財界面でも、三菱に対抗するための共同運輸会社設立、両社合併の日本郵船設立を主導するなど、政治権力を活かし財界にも影響力を及ぼしました。

その結果、三井財閥では最高顧問を務めるなど密接な関係を持つようになります。

井上は財界人の支援にも取り組んでおり、各財閥に家憲を制定するように指導、同族間の結束を説き、井上の指導を受けた三井や藤田組(現DOWAホールディングス株式会社)などは財閥として日本経済を支えるようになりました。

こうした財界とのつながりが、井上の政治基盤となっていったのです。

渋沢栄一の協力を得られず総理大臣就任を断念 晩年の井上馨

1901年に第4次伊藤内閣が崩壊すると、総理大臣の座はついに井上馨に回ってきます。

大命降下を受けた井上はやる気満々で、大蔵省時代に井上の右腕となって働き財界で重きをなしていた渋沢栄一に大蔵大臣就任を打診します。

渋沢栄一

しかし渋沢栄一はこの打診を固辞し、渋沢栄一に断られた井上は政権運営に自信が持てなくなったと総理大臣の座を諦めてしまいました。

井上が渋沢栄一の起用にこだわったのは、井上には目立った政治成果がなく、政治基盤が財界にしかなかったことが理由に挙げられます。

同じ長州出身の伊藤博文山県有朋はそれぞれ憲法、軍事で成果を挙げ、立憲政友会、官僚勢力と強固な基盤を持っていました。

一方井上は、外務大臣として条約改正などに取り組みましたがなかなか成果を挙げられず、財界とのつながりしか強みがありませんでした。

その財界を代表する渋沢栄一から協力を断られてしまったら井上に味方する勢力はもうないのです。

この結果、維新の元勲でありながら井上はついに総理大臣に就任することはありませんでした。

総理大臣打診を断った井上は後任に同じ長州出身の桂太郎を推薦します。

日露戦争時の総理大臣 桂太郎

この桂内閣のもと、日本は日英同盟を締結し、ロシアとの全面戦争に突き進んでいきます。

戦争への機運に井上は断固として反対します。

財政面から大局を見ていた井上は莫大な戦費のかかる戦争には元来反対の立場でした。

ロシア許すまじと戦争へ盛り上がっていた民衆から井上は敵視され、斬奸状を送られるなど危険も迫っていました。

しかしついに日露戦争開戦が決定すると、井上は戦費調達に駆け回り、国債調達、高橋是清を通して外国からも戦費調達に取り組みます。

井上の努力もあり、ユダヤ人ジェイコブ・シフらから戦費を調達することに成功した日本はついに大国ロシアを打ち破り、世界の強国への仲間入りを果たすこととなりました。

その後の井上は引き続き元老として政界で重きをなしています。

1912年に勃発した中国の辛亥革命では、三井物産を通して革命側に資金援助を行い、中華民国成立に一役買うといった活躍も見せていました。

しかし70歳を越えていた井上は次第に体調に不調をきたすようになり、1913年に脳溢血に倒れ、一命はとりとめたものの麻痺が残り車椅子移動となってしまいました。

それでも元老として活動は続け、1914年には元老として明治維新の頃より交流の深かった大隈重信を総理大臣に推薦しています。

大隈内閣の時に迎えた第一次世界大戦開戦に際し、井上は「天佑なり」と語ったといわれています。

日露戦争後不況にあえいでいた日本が、欧米諸国が戦争にかかりきりになっている間に輸出を伸ばすことができることを予期した言葉で、晩年になっても井上の財政を見る目は衰えていなかったことが分かる逸話です。

しかしその直後体調が再び悪化し、1915年9月1日、79歳でその激動の生涯を閉じました。

まとめ

財政、外交と人材に乏しかった初期の明治政府にあって抜群の活躍をした井上馨。

汚職については褒められたものではありませんが、これほど汚職の象徴として世間に批判されても総理大臣候補にまで推されたのは、それほど井上の力が抜きん出ていたためにほかなりません。

幕末維新の志士たちもこぞって井上は有能な人物であったと語っており、素早い判断と抜群の行動力で問題を次々と解決していました。

一方、友情に厚く侠気に富んだ人物でもあったようで、割の悪い役回りでも頼まれると断れず一生懸命取り組んだ結果、世間からの批判を一手に引き受けてしまうといったこともあったようです。

そのせいもあってか総理大臣を務めた伊藤博文、山県有朋ら同じ長州出身の元勲たちと比べると知名度も落ちますが、彼らの活躍を影で支えていたのが井上馨であったともいえます。

有能で侠気あふれる、お金には汚い縁の下の力持ち、井上馨。

大河ドラマ『青天を衝け』でさらに注目を集めることが期待されます。

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