こんにちは!レキショックです!
今回は、義時の3番目の妻となった伊賀の方について紹介します。
大河ドラマではのえとして登場している伊賀の方は、比企氏から嫁いだ比奈こと姫の前が義時と離縁したのちに、新たに義時の妻となった女性です。
義時とは、のちに執権となる北条政村をはじめ、3男1女に恵まれます。
しかし、義時が亡くなった後に、娘婿を将軍とし、実子の政村を執権につけようとしたという謀反の疑いをでっち上げられてしまいました。
子孫は、政村流、金沢流北条氏として続き、鎌倉時代を通じて、北条泰時以来の得宗家を支える役割を担います。
今回は、伊賀の方の生涯、義時死後にかけられた冤罪の内容、政村流、金沢流として続いた子孫のその後について紹介します。
義時初の京都出身の妻 伊賀の方の出自
伊賀の方の父、伊賀朝光は、古くは、平将門討伐で活躍した藤原秀郷から始まる家の出身です。
もっとも、朝光自身は、坂東武士ではなく、蔵人所に代々仕えていた下級官人で、朝光が伊賀守に任じられたことから、伊賀氏を名乗るようになりました。
この伊賀守就任も、伊賀の方が義時に嫁いでからしばらく経った1210年のことです。
そのため、伊賀氏は、伊賀国に勢力基盤を持つ有力者だったというわけではありません。
伊賀朝光は、13人の合議制のメンバーの1人、二階堂行政の娘を妻としており、京都ではある程度の地位は得ていたようです。
この二階堂行政の縁から、義時と伊賀の方は結ばれたのでしょう。
もしかしたら、都の有力貴族出身の時政の妻、牧の方に対抗するために、義時も京都から妻を迎えたのかもしれません。
義時と伊賀の方には、先妻の姫の前と離婚してから2年後、義時が42歳の時に、北条政村が生まれています。
奇しくも、政村が生まれた日は、義時が畠山重忠を謀反人として討伐し、重忠が命を落とした日でした。
伊賀の方は、政村の他にも、金沢流の祖となる金沢実泰、北条時尚と次々と子を産んでいきます。
娘も1人もうけており、源頼朝の妹を母に持ち、京都と鎌倉のパイプ役として活躍した一条能保の子、一条実雅に嫁いでいます。
伊賀の方の縁がきっかけで、伊賀の方の兄弟も、京都から鎌倉へ下向し、幕府内で出世していきました。
伊賀朝光の長男、伊賀光季は、源実朝の死後、動揺する京都を鎮めるために京都守護に任じられています。
光季は、後鳥羽上皇が倒幕の兵を挙げた際には、ともに京都守護を務めていた大江広元の子、大江親広が朝廷側についたにも関わらず、再三の参陣命令を拒否します。
そして、義時に対し、上皇挙兵の報告を送った直後に、朝廷軍に攻められ、命を落としてしまいました。
光季の弟の伊賀光宗は、兄の死後、伊賀氏を代表し、政所No.2である政所執事の職につきます。
また、伊賀の方の娘婿である一条実雅は、4代将軍となった九条頼経の側近として鎌倉へ下向し、義時の後援もあり、徐々に力を伸ばしていました。
伊賀氏が、伊賀の方と義時のつながりを背景に、徐々に力を伸ばしていく中、北条義時は、承久の乱から3年後に亡くなります。
義時はかねてから体調を崩しがちで、脚気の症状が出ていたところを、夏の暑さにやられて一気に体調を崩したとされています。
しかし、この義時の死をきっかけに、伊賀の方の運命は暗転していくことになります。
伊賀の方の最期 権力闘争に巻き込まれ流罪処分に
伊賀の方は、義時が亡くなってからすぐに髪をおろし尼となり、義時の菩提を弔いながら余生を過ごす準備を行っていました。
義時が亡くなった時、後継ぎの北条泰時は京都におり、すぐに家督継承の手続きを行えない状況にありました。
そのため、伊賀の方は、後家として義時の葬儀を仕切ることになります。
この葬儀には、泰時以外の義時の子どもたちが参列していますが、伊賀の方の実子の北条政村は、義時の3男、北条重時の次に位置しており、姫の前の子どもたちより下に位置するとされました。
この時の伊賀の方は、後家として、北条泰時の家督継承すら拒否できる立場にありました。
そのため、もし実子の政村に家督を継がせたいのならば、泰時がいないうちに、政村を嫡男扱いとし、既成事実を作ったはずです。
この時点で伊賀の方は、のちに言われるような、実子の政村を執権につけるといったことは考えていなかったでしょう。
後ろ盾となる実家の伊賀氏は、義時のおかげでやっと幕府での居場所を得た程度の存在でしかなく、到底、政村を擁して幕政を担うだけの力はありません。
おそらく伊賀の方は、すでに実績のある泰時を差し置いてまで実子に家督を継がせるのは、実力上不可能と悟っており、自分の子たちが別家を立てられれば十分と思っていたのでしょう。
葬儀が終わった後、伊賀の方は息子たちとともに、義時の家にとどまり、泰時への家督継承を待っていました。
本来ならば、伊賀の方と泰時の間で、北条氏の家督継承の手続きを行ってから、幕府の役職である執権職などの継承の手続きに入ります。
しかし北条政子は、これを待たずして、執権職など、幕府内の手続きを先に行ってしまいます。
さらにこのタイミングで、伊賀の方や伊賀氏が、実子の北条政村を執権にし、娘婿の一条実雅を将軍につけようとしているという噂が流れました。
これは、伊賀の方が北条氏の家督継承を主導することを政子が嫌い、伊賀氏を排除し、最大勢力である北条氏への影響力を保ちたかったために起こした行動だと考えられます。
今までの鎌倉幕府の歴史であれば、謀反の疑いをかけられた伊賀氏は、早々に討伐されていたでしょう。
しかし北条泰時は、この空気を察知していたのか、鎌倉に入る前に情報収集を済ませていました。
そして、伊賀氏に謀反の意思がないことを確信しており、政子の誘いに乗らず、容易に伊賀氏討伐には動きませんでした。
また伊賀の方も、長年義時の側にいたからか、家督継承における危険性を認識しており、義時の邸宅から動かなかったことで、謀反は噂にすぎないことを証明します。
政子としても、一度動いてしまった以上引くに引けず、本来の目的である伊賀氏の排斥だけでも成し遂げようと、三浦義村の協力を得て、伊賀氏に謀反の疑いを無理やり着させることに成功します。
泰時も、自分の家である北条家に、将軍家の家長である政子が介入するのは好ましくなかったものの、政子を無視することはできず、伊賀氏を処罰することにせざるをえませんでした。
いわば、伊賀の方をはじめ伊賀氏は、政子が始めてしまったでっち上げの政変の後始末のために、処罰されたようなものです。
伊賀氏一族は流罪とされ、伊賀の方も、北条氏の故郷である伊豆の北条の地に流罪とされます。
そして、流罪から4ヶ月後に、危篤になったという記録が残っており、流罪から程なくしてこの世を去ることになってしまいました。
伊賀の方は、政子によって不遇の最期を迎えることとなりましたが、伊賀一族は、政子の死後に赦免されます。
また、実子の政村は罪に問われることはなく、彼らは再び北条氏を支えていくこととなります。
伊賀の方の子孫のその後 兄、泰時の補佐に徹し、鎌倉幕府に殉ずる
伊賀氏の変に巻き込まれた北条政村は、罪に問われることはなく、北条一門として、兄の泰時の一族を支えていきます。
しかし、政村の弟の金沢実泰は、伊賀氏の変で一時は窮地に立たされたことから、その立場の不安定さに耐えられずに、精神の安定を崩してしまったといいます。
実泰は、27歳の若さで出家し、金沢流北条氏は、息子の実時が継ぎます。
執権の泰時は、伊賀の方の息子たちの家系を信頼し、要職を任せ、特に政村は、極楽寺流として知られた義時の三男、北条重時に継ぐ権力を有するようになります。
泰時より23歳下だった政村は、泰時の死後も、得宗家を継いだ北条経時、時頼兄弟を献身的に支え、執権に継ぐ連署にも就任します。
そして、5代執権、北条時頼が引退すると、息子の時宗が成長するまでの中継ぎとして、7代執権に就任しました。
もっとも、この執権就任は、北条得宗家の家督を譲られたわけではなく、北条氏の嫡流にあたる得宗家の権力が確立し、無理に得宗家が執権にならずとも、権力の維持に問題がない状態になっていただけです。
そのため、中継ぎであった政村は、8代執権の北条時宗が成長すると、執権の座を譲り、自身は連署として執権の時宗の補佐に回りました。
そして、元からの国書が届き、混乱する幕府政治を取り仕切り、元が襲来する前年まで、困難な幕府政治を支え続け、1273年に69歳で亡くなりました。
政村の娘は、弟の実泰の家系である金沢流北条氏の金沢実時に嫁いでおり、伊賀の方の血を引く両家は、これ以降も互いに婚姻を繰り返し、強固に結びついていくことになります。
しかし、政村の子の北条時村は、時宗の甥、北条宗方が原因となった嘉元の乱に巻き込まれ、追討されています。
真相は不明ながらも、9代執権となった北条貞時をめぐる北条氏内部の権力闘争に巻き込まれてしまった形です。
ですが、政村流北条氏はここで没落することなく、北条時村の孫、北条煕時が、幕府滅亡から20年ほど前の1311年に、12代執権に就任しています。
煕時は、同じく伊賀の方の子孫にあたる、金沢流北条氏の金沢貞顕とともに、かつて祖父を滅ぼした9代執権の北条貞時に重用され、幕政の中心を担うまでになっていました。
しかし、煕時が執権となったころには、北条得宗家の家臣、御内人の筆頭である長崎円喜が実権を握っており、煕時は力を発揮しきれず、わずか3年で執権を引退しています。
金沢流の金沢貞顕も、煕時が執権になってから15年ほど後に、15代執権となります。
しかしこの頃には、北条氏内部での権力争いもひどくなっており、わずか10日で執権を辞任する事態となっています。
政村流北条氏の最後の当主となった煕時の息子の北条茂時は、一時は執権就任も検討されるほどで、執権にはならなかったものの、連署をはじめ、要職を歴任します。
ですが、幕府滅亡に際して、北条一族とともに自害し、この家系は途絶えてしまいました。
金沢貞顕も、執権辞任後も一門の中心として幕政に重きをなし、息子の金沢貞将は、幕府滅亡に際しては、一族を率いて鎌倉の守備にあたり、新田義貞と激闘を繰り広げました。
しかし、金沢一族も戦いに敗れ、最終的には北条一族とともに、命を落とすことになります。
こうして、かつては謀反を疑われた伊賀の方の子孫たちは、鎌倉時代を通じて、北条泰時以来の得宗家に忠実に尽くし、北条氏の滅亡とともにその姿を消すことになりました。
一方、金沢流北条氏は、金沢文庫と呼ばれる文庫に大量の書籍を残しており、文庫に隣接する称名寺には、金沢流北条氏関係の文書も残されていました。
幕府関係の資料は、幕府滅亡時にそのほとんどが消滅してしまっており、現代に生きる我々が鎌倉時代のことを知れるのは、金沢流北条氏のおかげだともいえます。