こんにちは!レキショックです!
今回は、なぜ、後白河法皇は源頼朝を支援するのか、紹介します。
一ノ谷の戦いでは偽りの休戦命令を出し、源氏の勝利に一役買ったとされる後白河法皇。
後白河法皇は、寿永二年十月宣旨を出すことで、頼朝の東国支配権を認めるなど、源平合戦を通して頼朝の勢力拡大を支援しています。
後白河法皇がここまで頼朝に肩入れする理由。それは、押さえつけられていた自身の権力を取り戻すためでした。
平家との対立の一言だけでは済まされない。後白河法皇の権力闘争の歴史を紹介します。。
中継ぎとしての即位 不安定な権力基盤 後白河法皇の出自
後白河法皇は、鳥羽上皇の第4皇子として生まれました。
鳥羽上皇には、崇徳天皇や近衛天皇など、すでに皇位を継ぐべき皇子たちがおり、4男である後白河法皇には、皇位継承の望みはまったくない状況でした。
後白河法皇自身も自分の境遇を理解しており、遊興に明け暮れる生活を送ります。
後白河法皇は特に今様という庶民の間で流行っていた流行歌を愛し、熱心に取り組んでいたといいます。
29歳までこのような気ままな暮らしを送っていたことが、後白河法皇の前例にとらわれない型破りな性格を生み出したといえるでしょう。
しかし、1155年に兄の近衛天皇が若くして崩御すると、皇位の座は後白河法皇に回ってきます。
もっとも、当初の皇位継承者は、後白河法皇の子の守仁親王、のちの二条天皇で、幼すぎることから、中継ぎとして後白河法皇が皇位を継承したという事情がありました。
後白河法皇が皇位を継承してから、保元の乱、平治の乱が起きるなど、時代は大きく動いていきます。
しかし後白河法皇が皇位にある間は、信西が権力を握っており、平治の乱でも争奪の対象とされたのは息子の二条天皇で、後白河法皇は政治的にあまり重要視されない存在でした。
後白河法皇は天皇の父として院政を行うことで、自身の権力を拡大しようとしていましたが、息子の二条天皇を擁する二条親政派に阻まれ、権力をつかめずにいました。
自身が権力を握るために、後白河法皇は平清盛と提携していくこととなります。
後白河法皇は、平滋子を寵愛しており、滋子の妹である平時子を妻としている清盛と協力し、滋子との間に生まれた高倉天皇を皇位につけることで、後白河院政を確立しようと目論みます。
しかし、二条天皇も後白河法皇の権力奪取の動きに黙っておらず、高倉天皇を擁立しようとした陰謀に対し、院政派の平家勢力など貴族を次々と処分し、後白河派の勢力を削ぎ、自身の権力を確立させました。
当時の貴族たちも、後白河法皇はあくまでも中継ぎの身分であり、正統な権力者は二条天皇だという認識でいました。
それでも後白河法皇は諦めず、平清盛と協力関係を深めながら、蓮華王院などを建造し、荘園の寄進をうけることで経済基盤を強化し、着々と力を蓄えます。
二条天皇も後白河法皇の動きには警戒感をつのらせていましたが、病に倒れ、22歳の若さで亡くなってしまいます。
実の息子でありながら、最大の政敵であった二条天皇が崩御したことで、いよいよ後白河法皇の権力の座への道が開けることとなりました。
平家の力を借りて権力を握る 平家政権のもとでの後白河法皇
二条天皇の死後、後白河法皇はいよいよ権力を手中にするために動き出します。
二条天皇の跡は二条天皇の子の六条天皇が即位しますが、まだ2歳と幼いため、必然的に後白河法皇の発言力は高まっていきます。
後白河法皇は、自身の支持勢力である公卿たちや、平清盛ら平家一門を次々と引き立て、六条天皇を中心としたかつての二条親政派の切り崩しを図ります。
清盛らの支持のもと、わずか3歳の六条天皇を譲位させ、高倉天皇を即位させることで、ついに権力を手中にします。
この時後白河法皇は41歳でした。
権力を手にした後白河法皇でしたが、まだ政権基盤は脆弱で、平清盛らの支持がなければすぐにでも院政は行き詰まる状況にありました。
そのため、後白河法皇はさらに平家との提携を進めます。
この頃になると、後白河法皇は、平家一門の中でも院政派であった清盛の嫡子、平重盛と深い関係を築きます。
平清盛は表向きは政界から引退し、福原に移り住んでおり、京都では重盛が中心となっていました。
このような中、平清盛の娘の平徳子を高倉天皇に入内させる計画が持ち上がります。
この入内は、やがては平家の勢力をさらに拡大させることに繋がる危険をはらんでいましたが、政権基盤の脆弱な後白河法皇にとっては、平家を中心に自身の権力を確立させるために必要なものでした。
後白河法皇と平家の協力関係は続き、後白河法皇は日宋貿易の発展にも力を貸しています。
後白河院政体制は、平家勢力と他の院近臣勢力の微妙なバランスのもとに成り立っており、後白河法皇は両勢力のバランスを取りながら権力を維持し続けました。
以仁王の挙兵の4年前の1176年に、後白河法皇は50歳を迎え、盛大に祝賀会が催されますが、この時までは、平家と後白河法皇の関係は良好でした。
しかしこの直後に、後白河法皇の愛する平滋子が亡くなり、後白河法皇と平家との関係に綻びが見え始めます。
後白河法皇は自身の権力を維持し続けるために、自身の別の子を高倉天皇の跡継ぎにしようと動き始めます。
しかし平清盛にとっては、自身の娘の徳子が高倉天皇との間に子をなし、その子が即位することが絶対でした。
清盛と後白河法皇の間には、相容れない対立構造が生まれてしまっていたのです。
この状況下、延暦寺の攻撃を巡って後白河法皇の近臣と平家が対立。平家打倒の陰謀である鹿ヶ谷の陰謀に繋がり、後白河法皇の近臣たちは一網打尽にされてしまいます。
この鹿ヶ谷の陰謀により、高倉天皇を譲位させ、新たな天皇を立てようとしていた後白河法皇の企みは潰え、有力な近臣を失った後白河法皇の政治力は一気に低下します。
さらにこの頃、17歳になった高倉天皇が、政治的に自立し始め、かつての二条天皇の時のように、高倉天皇親政派と後白河院政派の二派が並立してしまいます。
後白河法皇にとって分が悪いことに、平家は一門の娘が嫁いでいる高倉天皇を全面的に支援しており、むしろ後白河法皇排除に動いていました。
このような状況下、ついに高倉天皇と平徳子の間に、安徳天皇が生まれてしまいます。
安徳天皇は生まれた直後に皇太子とされ、高倉天皇と平家を中心とした政治体制が確立。
後白河法皇は政治の中枢から追い出される形となってしまい、後白河法皇は平家に強い不満を持つことになりました。
さらに追い打ちをかけるように、平家の中でも後白河法皇に近かった平重盛が亡くなり、後白河法皇と平清盛の対立を止めるものはなくなります。
それでもかろうじて院政を続けていた後白河法皇でしたが、領土問題で平家と対立。
平清盛は後白河法皇に対して政変を起こし、後白河法皇は幽閉され、院政は完全に停止されることとなってしまいました。
高倉天皇は安徳天皇に譲位し、高倉上皇が平家の支援のもと院政を行う新たな体制が確立し、後白河法皇は権力の座から落ちていく中、源平合戦が始まることとなります。
源平合戦に乗じて勢力回復を狙う
1180年に後白河法皇の第三皇子であった以仁王が平家討伐を掲げて挙兵します。
この挙兵自体は短期間で鎮圧されてしまったものの、朝廷内の実力者である八条院や、園城寺、興福寺などの寺社勢力が以仁王に味方したことは、高倉上皇、平家に強い危機感を与えました。
平清盛は、近くに敵を抱える京都から福原に都を移し、高倉院政を確立させようと、福原遷都を実行しますが、準備不足のため失敗してしまいます。
そんな中、以仁王の令旨を受け取った源頼朝ら各地の源氏勢力が一斉に打倒平家の兵を挙げます。
このうち、平家は富士川の戦いで源氏に大敗してしまい、情勢は一気に悪化し、平清盛も福原から京都に都を戻さざるを得なくなってしまいました。
さらに後白河法皇にとって追い風になったのは、源氏の反乱によって動揺する京都を抑えるために、後白河法皇の院政を再開すべきとの意見が公卿たちの間から出始めたことです。
折しも、平家政権の中心人物となっていた高倉上皇がこの頃病がちになっており、仮に高倉上皇が没した場合は、幼い安徳天皇の後見として後白河法皇が院政を再開するしか道がなくなっていました。
1181年にはついに高倉上皇が崩御し、正式に後白河法皇の院政が再開されます。
平清盛は後白河法皇の勢力拡大を抑えるために様々な手を尽くしましたが、そのうちに清盛も病死し、ついに後白河法皇復権の障壁は取り払われることとなりました。
しかし、清盛が亡くなったとはいえ、平家の権力は未だ絶大だったため、後白河法皇は東国の源頼朝の力に期待するようになります。
後白河法皇も源氏が平家を倒せるとまでは思っておらず、源氏と平家の間に和議を結ばせ、源氏を平家の対抗勢力にしようと目論みますが、この打診は平宗盛によって拒絶されます。
それでも、後白河法皇は復権を果たすために、平家によって壊滅状態に追いやられていた自身の権力を取り戻そうと、少しずつではありますが活動を再開します。
しかし貴族たちは後白河法皇には容易になびかず日和見的態度を取り続けたため、しばらくの間は平家政権のもと後白河法皇は押さえつけられることとなりました。
この状況を打開したのが、倶利伽羅峠の戦いでの木曽義仲の大勝利です。
義仲は平家の総力を結集した北陸追討軍を打ち破り、その勢いのまま京都へ乱入。
ついに平家を京都から追い出すことに成功しました。
平家は後白河法皇を京都から連れ出そうとしますが、後白河法皇は延暦寺に逃げ込み、平家の支配下から脱出します。
やむなく平家は安徳天皇のみを連れ、三種の神器とともに西国へ落ち延びることとなりました。
長年後白河法皇を押さえつけていた平家が安徳天皇を伴って都から出ていったことは、後白河法皇にとってまたとない機会となりました。
後白河法皇は、平家が占めていた官職を次々と自身の近臣に与え、あっという間に自身の権力を確立します。
さらに、高倉上皇の別の子を皇位につけることで、自身の院政の確立、および安徳天皇の否定を行おうとしましたが、これに対し、木曽義仲は以仁王の子である北陸宮を擁立しようとします。
義仲のこの行為は、後白河院政の否定に繋がり、後白河法皇と木曽義仲の関係は悪化します。
平家を追い出し京都を支配している義仲の手前、明確に敵対意志は示せなかったものの、後白河法皇にとって義仲は自身の権力回復の明確な障壁となり、源頼朝に期待することとなるのです。
打倒義仲、平家に燃える 頼朝を使って権力確立を目指す後白河法皇
木曽義仲へ対抗するために、後白河法皇は頼朝をあらゆる手を使って優遇します。
義仲に対しては、平家の追討を命じ、お互いに消耗させ、義仲が京都を留守にしている間に、頼朝に対し東国の支配権を認める宣旨を出し、頼朝に上洛を促します。
しかし頼朝は後白河法皇に対し、あくまでも義仲の排除を要望し、義仲の勢力下にある後白河法皇は両者の板挟みになる中、義仲が帰京し、後白河法皇は義仲の抗議を受けることになってしまいました。
そんな中、頼朝軍の先遣隊である源義経が京都近郊にまで進軍してきた情報を得た後白河法皇は、これに力を得て、源行家ら義仲に従っていた源氏の軍勢を味方に引き入れ、明確に義仲との対立姿勢を見せます。
しかし義仲の武力には敵わず、後白河法皇は義仲によって幽閉されてしまいますが、そのうちに頼朝軍が宇治川の戦いで義仲軍を撃破。義仲は戦死し、後白河法皇は解放されました。
院政の障害だった義仲がいなくなったことで、後白河法皇は、平家との対決に専念できるようになります。
この頃の平家は、義仲と頼朝の対立に乗じて勢力を回復し、都に近い福原まで進軍してきていました。
後白河法皇にとっても、万が一平家が源氏に勝利し、再び京都を掌握すれば、自身の権力を剥奪するのは目に見えており、なんとしても源氏に勝利してもらう必要がありました。
このため、後白河法皇は平宗盛に対し、偽りの和平の使者を送り、源氏の勝利を手助けしたといわれています。
後白河法皇の援助もあり、頼朝軍は一ノ谷の戦いで平家軍に大勝利し、京都周辺から平家の脅威は取り除かれます。
しかし、飢饉の影響で頼朝軍もこれ以上の追撃はできず、しばらく膠着状態となります。
後白河法皇にとっては、平家の勢力が回復することは、自身の権力の脅威に直結するため、この頃には、頼朝が上洛できないのであれば、自分が東国へ行くとまで言うほど、頼朝に期待をかけます。
そんな中、京都にほど近い伊勢、伊賀で平家の残党による大規模な蜂起が起こり、この蜂起を源義経が鎮圧します。
平家の脅威に怯える後白河法皇は、京都にいながら、平家を完膚なきまでに押さえつける義経を大層信頼するようになります。
後白河法皇は義経を検非違使に任じ、京都の治安維持を任せました。
頼朝を飛び越えたこの人事に頼朝は大層機嫌を悪くしたといいますが、後白河法皇にとっては、身近に迫る平家の脅威を取り払ってくれるのは義経しかいないという心境だったのでしょう。
この人事によって義経は京都を離れられなくなり、源範頼が中心となって以降の平家討伐は進められることとなります。
しかし範頼は兵糧不足もあって苦戦し、戦いは膠着状態に陥ります。
これに危機感を抱いた義経は、後白河法皇に対し自身が平家討伐に出向くことを進言しますが、自分の身を平家から守ってもらうことが第一の後白河法皇は、なかなか義経の出陣の許しを出さなかったといいます。
後白河法皇はあらゆる手を使って義経を自分の手元に置こうとしますが、義経は法皇を振り切って四国へ進軍。
わずか数ヶ月で屋島の戦い、壇ノ浦の戦いと平家軍を次々と破り、ついに平家滅亡にいたることになります。
平家滅亡に伴い、安徳天皇も入水し、後白河法皇の院政の障壁はついになくなることとなりました。
この戦いによって安徳天皇、そして三種の神器の一つの宝剣が失われてしまいましたが、後白河法皇は、これらの消失よりも、この後の権力確立を気にしていたようです。
戦後処理で、長年後白河法皇の障害となっていた平家の棟梁平宗盛は斬首とされ、後白河法皇は晒しものになった宗盛の首を見物に行ったといいます。
こうして、後鳥羽天皇を擁した後白河法皇の院政が始まろうとしますが、平家という共通の敵がいなくなった後白河法皇と源頼朝の間に、新たな対立が生まれることとなるのです。
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